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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

聖霊降臨第26主日礼拝説教 マタイ福音書22章34―40節

聖霊降臨第26主日礼拝説教 マタイ福音書22章34―40節

 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」この二つが互いに相互して同時になりたつところの愛の教え。一言でいうとこのような教えである。
 これは共観福音書に通じている伝承であって、マタイはルカ同様マルコを資料としている。皇帝への税金のエピソードを頂点としてファリサイ派のイエス・キリストとの論争はすべてイエス・キリストの圧勝となり、サドカイ派も神学論争にてイエスに敗れる。こうてイエスの神殿での教えはだんだんと高みを目指し、今日の「主を愛する」=「隣人を愛する」という教えに到った。マタイは論争が主点であるのでマルコにあるように律法学者の再確認の言葉やイエスの賞賛の言葉もカットされている。律法学者はあくまでも敵役なのだ。
 当時のラビの解釈する律法は613の「しなければならない」の掟と365の「してはならない」の禁止があったという。律法はすべて主のご意志の表現であるから優劣をつけるべきではないとの考えもあったが実際の律法の適用の現実性や宗教教育のプログラムのため重要項目の順位を考える必要性ができていたらしい。そして、幾多の議論が交わされていたものと推察される。ところがイエスは律法学者のこの順列の挑戦に対して旧約聖書、当時の聖書の申命記6章5節とレビ記19章18節を用いてこれを最も重要な掟として示して、律法学者を論破する。
 この主への愛と隣人への愛が二つ伴ってはじめて律法の頂点となすこの教えは実はイエス・キリストの史実の教えに遡ると考えられている。ユダヤ教の中でも同じ教えはあるのだが、どれもイエス・キリストよりも後代の人の教えばかりである。なので、この教えは実にキリスト教の掟ともいえる教えであり、また、現在もキリスト教の中でキリストの十字架の贖罪に次ぐ、あるいは同等の教えである。しかし、実際の歴史の問題としてイエス・キリストがこのような掟をうちだしたことは世界史的な出来事であったといえるだろうし、宗教史上においてもこれは画期的な教えだということができるだろう。イエス・キリストにさかのぼる偉大な宗教的遺産であり、現在も尚生き続けているシンプルであり、そして最も難しい掟でもある。教会に通いなれたり、キリスト教に興味のある人ならこのイエスの「主」「隣人」この愛の掟を耳にたこができるほど聞いているか知られているであろう。実際、「愛」を強調しすぎたため初代教会ではこれは「隣人愛」を越えて同性愛とか自由奔放な性愛として揶揄されていたほどであったらしい。
 尤も、今日そのようなことを言う人はいないけれども、反対に「愛」をえらい偏重してしまって、酔没してしまっている人をしばしば見かける。そういう現象にこの教え、掟の深さを洞察することができるだろう。
 マイケルムーアというドキュメンタリー映画の華氏911だったかで、世の中の世情を正すべく「十戒を見直そう」というスローガンを抱えた市があって、その市長のところにマイケルムーアがアポなし取材したところ壁に十戒がかかっていたので、それを手でかくしてムーアが市長に「弟6戒は?」と訊いたところ、市長は答えられなかった。そして「すべての掟は神を愛するように人を愛せよ」だと開き直っていた。第六戒は「汝、姦淫するなかれ」である。
実はこういったことはキリスト教にもみられる一面でもある。なんでも、かんでも「愛」でしめくくってしまうのだ。イエス・キリストの教える愛とはそれほど軽々しいものではない。というのは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」というのは根幹にあり、その実現として「隣人を自分のように愛しなさい」というのが据えられているのだ。
とある教団、教派を超えたキリスト教の牧師の集まりの中で、その集まりはセクシュアルマイノリティーの牧師の会合だったのだが、その会合を発案した牧師が非常に先進的で人道的だったのを思いだす。そして、その勢いはイエス・キリストの十字架がかすんでしまうほどに濃かったのが印象的だった。そこで二次会の時にその牧師にそれこそ、今日の箇所の律法学者のようにわたしはきいてみた「キリスト教で何が一番重要だと思いますか」と彼はまるでイエス・キリストのように答えた「それは愛です」と。そこでわたしは意地の悪い質問を繰り出した、「じゃあ、あなたはヒットラーを愛せますか?」と。その若き社会派の牧師は言った「愛せません」と、当然である。ヒットラーといえばもう地獄行き間違い無しのモンスターで、ドイツ人にとっては触れて欲しくも無い恥部であり、人類史上最悪最低の人間とされている人だ。実際彼はユダヤ人を虐殺し、反ナチス勢力も虐殺しまくった。ボンヘッファーという当時の若き神学者はとうとうキレたのかヒットラー暗殺に手をつけたため処刑されてしまっている。またヒットラーはセクシュアルマイノリティーをもユダヤ人と同じく虐殺した悪者でもある。おそらく私などが当時のドイツにいたら即収容所行きでピンク六ぼう星のワッペンのついた縞々模様の囚人服を着せられ極寒の地で死を目標とした意味のない重労働をさせられて殺されていただろう。しかし、歴史は進み、現代でもしヒットラーを褒め上げるようなこと、あるいは日本のミリタリーオタクの人がしてるようなナチスのコスプレなんかをフランスでやった日にはそれこそ反対に殺されてしまうのが世情である。一応ネオナチという組織があるけれども、それこそ暴力団よりもたちの悪い連中と思われているし、とうぜん、キリスト教徒たる者がこのヒットラーを肯定するわけがないし、ましてや「愛」せるはずがない。ここが今日の教えの重要な部分だと思う。それがヒットラーであっても愛さねばならないのかということである。ヒットラーとて隣人には違いなく隣人から除外することができないのだ。あえて言うならばヒットラーを愛することは、ヒットラーに抵抗するという反対行動によってなせるということである。「愛する」というのはなんでもかんでも、よしよしと優しくするという意味ではない。時には愛するがゆえにその「隣人」を正さねばならないし、時にはその「隣人」と戦わなければならないのだ。それは「自分を愛する」ことにも適応される、即ちその根幹は「主を愛す」から発しているということを以外に忘れている人が多い。両輪の車軸となってこの二つが保たれているというのは詭弁である。まず「主」を愛すということがあって、はじめて人を自分を「愛す」ることが発生するのでなければならないのである。この点を勘違いしている人が意外にキリスト教徒にも多い、なんでもかんでも手放しで「愛」すと言っているわりには現代になってもセクシュアルマイノリティーはキリスト教徒から目の仇にされていたり、あるいは教会権力層が呆れてしまうほど腐った構造になっていて教会論自体が具体的には崩壊していたりする。そのくせ口から出る言葉はいつもきまって「愛」だ。そういうのは「愛」ではなく自己満足というものだ。本当にそこに「主を愛する」「愛」があるのならよりマイノリティーな人にこそ優しくあるべきであり、そこに「主を愛する」「愛」があるのならどんな侮蔑を受けても虐げられている者の側に立ち虐げている者に否をとなえなければならないのだ。それは虐げている者への「愛」でもあるのである。
 そういう意味で私たちは真に「主を愛する」ことから発する「隣人を自分のように愛する」という掟に到達するのである。
by qpqp1999 | 2008-11-09 13:58 | キリスト教