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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

 聖霊降臨後第十七主日礼拝説教

 聖霊降臨後第十七主日礼拝説教
ルカ福音書15章1~10節
 ある一人の人が洗礼を受けてキリスト教会の「会員」になると教会中で大喜びするであろう。洗礼式のあった礼拝の後では盛大にお祝い会とかしないだろうか。
実は、今日の聖書個所はそういう単純な事をズバリと一直線に言ってるだけの事なのだが、これが、なかなかひねりが効いていて、誤解されやすくなっているのに注意だ。
とにかくイエス・キリストという方はルカ書の中で、
「徴税人や罪人」
とされて、おおよそ、救いから遠いと言われている人たちと仲間になったことを強調している。
「ファリサイ派の人たちや律法学者たちは
『この人は罪人たちを向かえて、食事まで一緒にしている』と不平を言い出した」
そもそも何が
「不平」
なのだろうか。
今日の個所でポイントなのは
「悔い改め」
ということだ。原文ではμετανοίαメタノイアであるが、これほど、キリスト教で誤解されている言葉はない。
なにしろ、新共同訳聖書でこの単語を
「悔い改め」
と訳してしまっているからだ。
「悔い改め」
と言われてしまっては、もはや、その意味はまるで、自分の罪を神様に謝罪して、これからは正しく生きていきます。とでもいわんばかりになってしまう。
またちょうど、聖書個所の冒頭で出てきた人たちが
「徴税人や罪人」
だったので、例えば徴税人だったりすると、徴税人は先ず入札して徴税権を得て、その金額に自分が生きていくために必要な金額をあ上乗せして徴税していたから、それはもう、ユダヤ人からは差別視されていたし嫌われていたのだった。
そこでさっきのメタノイアという言葉と一致させると。まるで、徴税人がそれまでやってきた、徴税に自分の生活費を上乗せして徴税していた事をもうするのを止めます。と言わんばかりになってしまうが、それは違う。
たとえば、お前のやっている事は間違っているからそれを止めろと言うような人のところに徴税人が行くだろうか。行くわけがない、では何故、徴税人が
「話しを聴こうとしてイエスに近寄ってきた」
となったのかである。それはイエス・キリストがファリサイ派の人や律法学者のように
「悔い改めなさい」
と言わなかったからである。そんな事言われたら、それでやっとの事で生活している徴税人はその生きる価値を否定されてしまう。事実、徴税人たちは
「あいつらは悔い改めるべきだ」
と言われて、偏見にさらされていたのだ。そこに顕れたのがイエス・キリストだった。イエス・キリストは徴税人が生きるために必死であった事を理解してくれた人であったのだ。だから
「イエスに近寄って」きたし共に食事もしたのだ。
ここで行われたメタノイアという単語はたんなる
「悔い改め」
ではなく
「価値観の逆転」
である。
自分の罪を悔い改めましたのでお救いください。というのではない。その逆で、イエス・キリストの方から、共に進もうと言ってもらえるという恵みである。
何故、イエス・キリストが詐欺まがいの徴税を行ってユダヤ人から顰蹙かっている人と共に進もうと言いかけたかというと、それはまさに徴税人が生きるために、人々から抑圧を受けていたからである。イエス・キリストという救い主は真っ先に抑圧されていない人を放っておいて抑圧されているただ一人の人を求めてやってくるのだ。その事が記されているのが
百匹の羊を持っている人が一匹を探すために他の99匹を放っておいても探しにいくというたとえ話につながるのである。
ファリサイ派の人や律法学者のようにではなく、同じく尊重される人として、イエス・キリストは徴税人と接したということである。徴税人には尊重されるというような愛を受けられないままでいた。しかし、イエス・キリストはあえて、99の抑圧する人を放っておいて一人の抑圧された徴税人と交流したのだった。
次にドラクメ銀貨十枚の話しになる。ドラクメ銀貨と言われても実感わかないので、日本円にすると一枚が五千円なのだ。
十枚持っているとすると五万円持っていたことになる。そのうちの五千円をどっかやってしまったので必死で探して、見つけては
「無くした銀貨を見つけましたから一緒に喜んでください」
という譬えにたどりつく。
それは五千円も無くしたら、一生懸命に探しますね。イエス・キリストはそれと同じく絶対に失ってはならない人たちと連帯したのです。ここに福音があり、私たちは同じくそこに連帯しなければならない。
それこそがμετανοίαメタノイア
という単語の発する意味なのだ。決して単純に「悔い改めなさい」ではない、むしろ、抑圧されている人と「連帯しなさい」という事なのである。
by qpqp1999 | 2016-09-10 18:07 | キリスト教