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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

聖霊降臨後第一主日礼拝説教

聖霊降臨後第一主日礼拝説教
ルカ福音書6章27~36節
 
 今日の聖書個所ほど誤解されて読まれてしまう個所も少ない。一見、とても解りやすく書かれているからだ。
 「敵を愛し、あなた方を憎む者に親切にしなさい」
 「あなたの頬を打つものにはもう一方の頬をむけなさい」
 特に、二つ目の個所はキリスト教徒でなくとも、よく知られている聖句だ。
 これは断じて、暴力に対して無抵抗であれ、それが清らかな姿勢であるというのでは、全くない。
 危害を加えてくる者に対して、力や暴力ではなく
 「もう一方の頬を」
 向ける事で抵抗することを書いている。
だが、それを現実に行って、本当にあるべき状態が保たれるだろうか。
 「イスラム国」
 みたいなテロリスト集団を相手にして、
 「もう一方の頬」
 を向けよと言うのだろうか。
 「イスラム国」
 に拉致されて、公開惨殺された、日本人の一人、後藤健二さんの事を考えてしまう。
 たしかに後藤さんは
頬を打たれ
 「もう一方の頬を」
 差し出した人そのものだ。そこで、何が起きたか。虐殺が起きたのだった。
 「戦争法案」
 で
 「邦人警護」
 という名目で自衛隊を戦線に展開させようとする法律が通ってしまったというのに、実のところ、日本政府は後藤健二さんを助けようなどとは全く考えていなかった。何もしないで見殺しにしたのだ。
 踏み込んで言うなら後藤健二さんは、日本国にも見捨てられ、殺されたのだ。
 後藤健二さんのスタンスはまさに
 「もう一方の頬」
 をむけるというものだった。この事件で浮き彫りになったのが
 「日本国」
 は
 「イスラム国」
 と一人の命について、同程度の価値感しか持っていなかったということである。
 一方では「戦争法案」で海外にいる日本人を守るのだと言い放っているのに、現実では目の前で惨殺される人を放っておく。これが残念ながら、日本国の実情だ。けっして、国民一人一人のことを考えて、あるいはその危機に際して、自衛隊を派遣するなどということはあり得ないのだ。はじめから、後藤健二さんみたいに、もう一人のイスラム国に捕えられている人を助けようと思って、命がけの行動をした人とは全く正反対なのだ。
 人を助けようとして、自ら危険な地域に入って、殺されてしまう人。一方で、巨大な権力のもとにありながら、決してその力を人を助けるために使わない者たち。
 ルカ福音書はこのような正反対にある関係を対立構造として描いている。つまり、権力の座にありつつ、弱き者を踏みつけにする者と、弱き状態にありながらも、その全存在を通じて、力のある存在に対して果敢に向かい合っていく者である。
 そこでルカは書く
 「自分を愛してくれる人を愛したところであなた方にどんな恵みがあろうか。罪人でも愛してくれる人を愛している」
 実はここは重要だ。
 「罪人」
 という言葉が出てくる。ここでの「罪人」
というのは、ルカ書を読む場合、儀とされるとか、されないとか、という意味での「罪人」ではない。簡単に言うなら
「金持ち」
「権力者」
 が
「罪人」
 なのである。そして、それに対して
 「貧しい者」
 に代表される、権力から踏みつけにされて苦しんでいる人が描かれている。
 「貧しい者は幸いである」
 という通常の価値感をひっくり返す言葉がその後の聖書個所、特に今日の聖書個所と関連している。
 では私たちはどうあるべきなのか。現実の問題としてなかなか
「頬を打たれる」
というような状況になる事はない。だが、人類の社会の構造の中では
 「頬を打たれる」
者がいて、また打つ者すなわち
 「罪人」
 がいるのである。
 細かい事をいえば、誰しもが
 「頬を打たれる」
 者になり、誰しもが
 「罪人」
 になりうるのだ。
 そこで、私たちは心を研ぎ澄まさなければならない。意識しなければならない。
 「頬を打たれる」
 者になるのか
 「罪人」
 の側に立つのか。
 私たちは時として簡単に
 「罪人」
 の側になってしまう。そして時として簡単に
 「頬を打たれる」
 側になってしまう。それは日々の生活の座において、主イエス・キリストから絶えず問われ続けている信仰の在り方なのである。
 
by qpqp1999 | 2016-05-28 19:32 | キリスト教