牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

 聖霊降臨祭礼拝説教

 聖霊降臨祭礼拝説教
ヨハネ福音書16章4~11節
 
 「聖霊降臨祭」
 ルター派の教会では使徒信条を告白している。その中で
 「聖霊」
 を信じる事を告白する。
 実を言うと、キリスト教の中でも、宗派によって、この
 「聖霊」
 のとらえ方がかなり違うというのが事実ではないだろうか。
 私が神学大学一年生で入学したばかりの時、ちょうど今時分だったが、同級生で神学を専攻する友達が出来た。
 彼は熱心に
 「聖霊の重要さ」
 について当初語った。
 「異言」
 が伴わなければ、そこには信仰が無い。というような理解だった。
 当時の私はまだ18歳高校を卒業したばかりで、
 「異言」
 という単語すら知らなかったので、たいそう驚いた。
 色々、言い方もあるのだろうが、私にしてみれば
 「なにかにとりつかれた」
 ようになって、日本人では理解不能な言葉を発し出すという。
 一種の錯乱状態みたいなものかと言うと、その意味不明な言葉が、実はギリシャ語だったとか、ロシア語だったとか言うのだ。
 私は率直に疑問に思った。それは
 「聖霊」
 が
 「降臨」
 して使徒言行録の2章みたいに、いくつもの外国語で喋れれば、凄いかもしれないが、私の聴いた範囲では、おおよそロシア語やギリシャ語を知らない人たちの中でただ一人それを言っていたというのだ。
 それが事実なら、私は特に否定はしませんが、ギリシャ語にも色々あって、新約聖書のギリシャ語は古文なので、現代のギリシャ語とは違う。その古文のギリシャ語と現代のギリシャ語を聴きとる・ヒアリング出来る人がその礼拝の中で何人いたというのでしょうか。
 私なんて、未だにギリシャ語から英語の辞書を確かめないと意味がよく解らないというのに、特別にギリシャ語の訓練を受けていない人がそれをどうやって判別するのでしょうか。もし、
 「異言」
 で発されるギリシャ語を聴いて日本語に訳せる人がいるというなら、それは普通中々いないものです。ましてやロシア語やもっと他の国の言葉となったらますます判別が困難なものになるでしょう。
 何度も言いますが、私は
 「異言」
 という現象を決して否定はしていません。私が危惧しているのは
 「異言」
 という現象が、宗教的なヒエラルキーの中にとりこまれるという事態を憂慮しているのです。
 いいでしょう。礼拝で、高揚状態になって自分の知らない言葉を言い出したとしても、それはその人の自由です。それを否定することはしません。問題なのはその現象
 「異言」
 というのが無ければ、キリスト者としての言わば
 「格が下がる」
 というような、あるいは
 「無ければ救われていない」
 というような考え方に走ってしまう事には、はっきりと否を唱えたいと思います。
 使徒言行録の2章で説教すれば、ダイナミックかつ直接的にこの
 「聖霊降臨祭」
 に関して語る事が出来るかもしれない。しかし、この所謂
 「聖霊降臨」
 について書かれているのは使徒言行録にしかないと言う事も私たちは知らなければならいし、その一方で、この
 「聖霊」
 についての描写をしている福音書があると言うことも知らなければなりません。今日のヨハネ福音書がそうです。
 ヨハネ福音書はキリスト教がローマ帝国の公認宗教ではなくなったという危機の中で力強く書かれています。
 十字架の処刑を目前にしてイエス・キリストは弟子たちに言う。
 「あなた方の心は悲しみで満たされている。しかし、実を言うと、私が去っていくのはあなた方のためになる。私が去っていかなければ弁護者はあなたがたのところに来ないからである」
 という一節だ。
 「聖霊」
 を信じるのに、このヨハネ書の指摘は的確だ。
 「聖霊」
 だと言うと、何か、お化けの一種みたいに勘違いされそうだが、この
 「弁護者」
 という単語はπαράκλητοςパラクレートスで
 「助けてくれる者、協力してくれる者」
 という意味である。私は異言の現象よりもこちらの実存的な私たちの生きるその中に直に働いてくれるイエス・キリストの観業を感謝するべきなのだ。
 まるで、何かの修行のように、異言に固執する事は簡単だが、私たちの困難の前にはだかる、問題に対して、力を発揮してくれるような現象が必要だ、それが
 「聖霊」
 なのである。
 「聖霊降臨」
 というのは
 「超常現象」
 でもなければ、
 「奇跡」
 ですらない。当たり前のように、私たちの生活の座に働き、助け、協力してくれる
 「イエス・キリストの実在の出来事」
 なのである。 
 
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by qpqp1999 | 2016-05-14 18:47 | キリスト教