牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

昇天主日礼拝説教

昇天主日礼拝説教
ルカ福音書24章44~53節
 
 聖書というものを、一字一句、全てを現実のものだとして読むならば、それはキリスト教の信教としてとても危ういモノになってしまう事からまず話しをしたい。
 もし、旧約聖書の
 「創世記」
 が、一字一句、真実であったとするなら、恐竜の時代は無かったことになってしまう。そればかりか、人類はアダムとエバのたった一つのカップルから誕生した事になってしまう。そんな事を本気で信じているキリスト教徒もいるから、私はそれに否を訴えたい。
 一つがいのカップルから、こんなにたくさんの人類が産まれる訳がないことは、一般常識として当たり前のことである。
 「進化論」
 が正しいかどうかは、別にしたとしても、いくらなんでも、アダムとエバから人類が発生したと考えるのは非常識である。
 そもそも旧約聖書が書物として発生したのは紀元前四世紀くらいの話しである。ダビデ王が君臨していたイスラエルよりも、遥か後の話だ。
 私は何も聖書を否定しようとしているのではない。聖書には
 「神話」
 がつきものであるという現実を指しているのだ。単に
 「神話」
 と言っても、それが絵空事ではないということは強調しておきたい。
 「神話」
 は
 「神話」
 なりに、福音のメッセージを発しているものだからだ。私たちは、そこに重点を置かねばならない。
 今日の聖書個所はまさに
 「神話」
 として、受け止めて、その上で福音を与えられるものである。
 四つある福音書の中で。イエス・キリストが
 「天に上げられた」
 という記事はルカ書にしかない。物語としては、このような形でイエス・キリストが天に上げられるという、弟子たちとの分かれを描いたという点では、他の三つの福音書よりは、物語として終わりになっているので、文学としては、上手い事書いた訳だ。
 ただ、記者ルカは地球が丸いという事をしらなかった。もし、知っていたら、こんな事は書かなかったであろう。
 だからと言って、このイエス・キリストが「天に上げられる」
 という個所を笑い飛ばしてしまうのでは、意味がない。
 これは
 「神話」
 なのである。つまり、書いている記者本人も、それが創作であることを知っている。そして、知っていながら、あえて、この記事を描くのであった。
 そこには明確な意図がある。実は今日の個所では
 「神話」
 が二回も出てくる。そのうちの一回目が
 「イエスは聖書を悟らせるために心の目を開いて」
 とあることだ。そもそも、誰が、人の
 「心の目を開」
 くことができると言うのだろうか。あえて、言うと、そんな事は神様でも難しい事なのだ。
それが人間になったら、到底不可能な現象だ。それをイエス・キリストはすると言う。
 この
「昇天主日」
において、私たちが注目しなければならないのは、何もイエス・キリストが
 「天に上げられる」
という事を記念するためではない。イエス・キリストが
 「天に上げられる」
のと同じくらい困難な
 「心の目を開く」
 という事が語られており、それが一つになっているという事なのだ。
 イエス・キリストは、ただ単に
 「天に上げられ」
 はしない。弟子たちの
 「心の目を開いて」
 からでないと、けっして
 「天に上げられる」
 事はないのだ。
 地球が丸いという事を、もはや、知っている私たちにとって、イエス・キリストが
 「天に上げられる」
等というような事は、絵空事でしかあり得ない。
 しかし、ここに
 「心の目を開き」
 という言葉が足される事で、一気に
 「天に上げられる」
 という神話は私たちの身近な所にせまってくる。
 誰であれ、
 「心の目を開」
 かさなければ、イエス・キリストの福音に触れることは出来ない。
 信仰とは、それが自ずとして出てくるものではなくて、復活のイエス・キリストの奇跡の神話が私たちの生活の座に実現することなのだ。
 それを与えられた時に、地球が丸い事をしってる私たちの生活の座においても、イエスキリストは「天に上げられる」事を現実のものとして信じるに至るのである。
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by qpqp1999 | 2016-05-07 19:24 | キリスト教