牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


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 復活後第五主日礼拝説教 ヨハネ福音書14章23~29節

 復活後第五主日礼拝説教
ヨハネ福音書14章23~29節

 今週も第四福音書たるヨハネ福音書が聖書日課に選ばれている。
 その聖書個所を読む時に、先ず覚えておかなければならない事がある。
 ヨハネ福音書は紀元一世紀末に書かれており、その頃のキリスト教はユダヤ教から異端とされてしまって、ローマ帝国の公認宗教ではなくなってしまった、という歴史背景である。
 即ち、キリスト教徒である、というだけの事で取り締まられ、最悪の場合殺、合法的に殺されてしまうという事態に陥ったのである。
 八方ふさがりという言葉があるが、まさに当時のキリスト教徒はそんな目にあっていた。
 選択肢は簡単だった。
 「キリスト教徒を止めればいい」
 ただ、それだけの事で、無事に普通の生活に戻れるのだ。とうぜん、多くのキリスト教徒が、その信仰を捨てて、キリスト教徒でなくなっていった。
 そういう危機の中でヨハネ福音書は書かれている。
 キリシタン禁制の江戸幕府は
 「踏み絵」
 というものを用いた。現代の私から見たらそれは凄く野生的で、おおよそ知識のそなわった人間には理解不能なものだった。
 だが、多くのキリシタンはそれを踏むのを拒んだ。
 「偶像礼拝」
 がその原因だとも言われているが、そんなに単純なものではなかったであろう。
 そこで私は思う。イエス・キリストの復活を目にしたのた僅か十数人。多くの人はその復活を知らない。私もその一人だ。
 冗談じゃない。あるか解るか解らないような復活についてどう信じろというのか。
 はっきり言うと
 「信じる」
 必要はない。そもそも、人間の限界から言って、信じられる内容ではないのが、その第一の理由だ。
 イエスという人が十字架刑で殺されて亡くなりましたが、復活しました。
 というような短絡的な事では事態は収拾のつけようがない。
 そのまま、まるごと信じるというのも一つの道だ。それこそ
 「聖霊」
 の働きによって信じるに至ると言う事がかるだろう。だが、そういうのはハッピーな部類に分けられるのであって、本当の苦難と悲惨に喘いでいる人には一切ト届かないというのが現状だ。
 なにが「聖霊」だ!!そんなものは、私たちの生活の中にはあり得ない者だ。
 だがイエス・キリストは言う
「しかし、弁護者すなわち、父が私の名によっておつかわしになる聖なる聖霊が、あなたがたに全ての事を教え」
こんな、ものは言い訳にしかならない。いくら弁護してもらっても法廷で認識されなければ、全く意味の無いモノばかりだからだ。
 それでもイエス・キリストは言う。
 「私は平和をあなた方に残し、私の平和を与える。私は世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな、怯えるな」
 である。
 ἀφίημιアフェルーミは
 「赦す、許可する」
 という意味であり
 「残し」
 とは相当に幅のある単語である。
 イエス・キリストに限って
 「平和を許可する」
 のである。
 そんな権限がどこにあるというのか。
 それは、どこでもない、主なる神の内にあるのである。それをイエス・キリストは
 「父」
 と呼ぶ。
 別に
 「母」
 であっても正当だった。ただ、単にイエス・キリストは解りやすく言ったまでの事だ。
 「私は去っていくが、また、あなたがたのもとに戻ってくると、言ったのをあなた方は聴いた。」
 である。
 私たちは
 「平和を許可されるのである。」
 それ以外の何者でもない。私たちの内には平和が宿っているのであり、それを信頼してよいということを、この第四福音書たるヨハネ福音書は書いている。
 そうで、あるならば、尚更の事、ヨハネ福音書が書かれた当時のキリスト教信者に対する迫害の事実を知りながら、
 「主イエス・キリストの平和」
 を切望するのである。
 そして、その
 「平和」
 はいつどこでも、主イエス・キリストの故に成り立ち、私たちを支えてくださるのである。
 まさに封印を
 「許可」
 された瞬間である。
 こうして。私たちは、長い月日を隔てようとうも、主イエス・キリストの福音によって
 「平和」
 がもたらされるのである。
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by qpqp1999 | 2016-04-30 20:38 | キリスト教