牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

 復活後第四主日礼拝説教

 復活後第四主日礼拝説教
ヨハネ福音書13章31~35節

 今週の日課も第四福音書のヨハネ福音書が選ばれている。中々、ヨハネ福音書に接する機会が少ない聖書日課なので、大切にしていきたい。
 先週、申し上げたように、ヨハネ書における、イエス・キリストの十字架論というのは「栄光の十字架」
 というものであった。
 確かに、ヨハネ福音書のイエス・キリストの十字架というのは
 「栄光」
 であって
 「贖罪」
 ではない。尤も、この考え方は元々のヨハネ書に書かれていたというよりは、写本を重ねて行く過程で、
 「ヨハネ共同体」
とも言える。キリスト教共同体の中で生長していったものだ。
 先週も説明した通り、ヨハネ書が読まれていた当時、紀元1世紀末、キリスト教はユダヤ教から異端だとされてしまった。これで、一番困ったのはローマ帝国の公認宗教でなくってしまったということだった。
 つまりキリスト教徒であるという、ただ、それだけの事で、その存在を否定されてしまうとう大変な危機的状況にあった。
 では、ただちにキリスト教に対する弾圧がローマ帝国からなされ、皆殺しにされたかというと、そうではない。
 キリスト教は当時、それほどの勢力ではなかったという事が挙げられる。ローマ帝国からすれば、ちょっと目ざわりな異端宗教程度のもので、大規模な弾圧が行われたのは、二世紀半ばくらいからである。しかも、それは恒久的に続いたのではなく、非情に断続的に行われたのであって、キリスト教徒を絶滅させることはできなかった。
 であるからこそ、紀元324年にはキリスト教は堂々と公認宗教となるに至った。私たちはその後を継いでいるのである。
 つまり、迫害されていたのはたったの200年間ほどに過ぎなかったという事も知っておきたい。
 だが、200年は長い。日本にとっての江戸時代くらい前だから、その間を考えれば、ものすごい時代だったと言えるだろう。
 その苦しみの時代の先駆けのとなったのが
 イエス・キリスト
 であった。確かに栄光の十字架ではあるものの、それは凄惨な出来事であることには間違いなかったから、ヨハネ書はその部分についても丁寧に書いている。
 今日の個所の直前で
 「ユダはパン切れを受け取ると出て行った。夜であった」
 とあるが、この前の記述がとてもショッキングなユダの裏切り物語であるので、また読んでおくのがいい。ただ、今日の個所はその問題から、もう一段階進み、新しい段落に入って始る。いよいよ、ユダが裏切って、イエス・キリストを十字架に渡してしまうと言う事が決定した時にイエス・キリストは言う。
 「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」
 と。確かに、ヨハネ書の文脈からすれば、イエス・キリストの十字架の出来事は
 「栄光」
 そのものなので、この言葉は正しいように思えるが、ヨハネ書の造詣はもっと深い。確かに
 「栄光」
 なのだけれども、この個所でイエス・キリストが発されている言葉は
 「栄光」
 とはまるきり反対の苦難を想定しての言葉であるということに注目しなければならない。
 いくら
 「栄光」
 と言っても、十字架の出来事が容易い出来事であるはずがない。それを知っていながら、あえて
 「栄光を受けた」
 と告げるのである。この時点で弟子たちはこの後展開される事象については全く予想だにしていない。
 つまり、それだけの苦難がやって来ることを指して、イエス・キリストは
 「栄光」
 と言うのだった。これは、ある意味でのアンチテーゼである。ちっとも
 「栄光」
 どころではない。これから十字架刑で処刑されるのだ、それのどこに
 「栄光」
 があるというのか。それでも、ヨハネ書は宣言する。
「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる」
 である。ここで、ヨハネ書が描いているキリスト像は、
 「窮状に立つイエス・キリスト」
 である。目の前に迫る十字架の処刑死。そういうプレッシャーの中でイエス・キリストが弟子たちに与えた掟とは。
 「互いに愛しあいなさい。わたしが、あなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛しあいなさい」
 であった。この
 「愛しあいなさい」
 は万人に共通して皆が互いにと言う意味では断じて違うと言う事は強調しておきたい。
 ここで、言われている
 「互いに愛しあいなさい」
 というのは、あくまでも、キリスト教コミュニティーの中に限っての事である。
 こう言うと、なんだかカルトみたいに勘違いされてしまうが、そうではない。
 迫害下の元にあって、生死をさ迷う人々がイエス・キリストの、十字架の
 「栄光」
 を合言葉にして、互いに愛しあうということなのだ。無理を承知でする事、ここに
「窮状」
 を共にする共同体というキリスト教の本質が顕になるのである。
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by qpqp1999 | 2016-04-23 19:12 | キリスト教