牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


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復活後第三主日礼拝説教 ヨハネ福音書10章22~30節

復活後第三主日礼拝説教
ヨハネ福音書10章22~30節

 九州が大変な地震災害で、多くの方が亡くなり、苦しみの中にある。今の時点で、まだまだ、被害の全容は解らず、今夜は雨になり気温も下がる、暴風になるといいます。被災地の方々の心身が守られることをお祈りするばかりです。
 今日の主日、第四福音書ヨハネ書が選ばれている。教会歴ではルカ書が今年の番なのだが、この復活後の期間は、時々、年間テキストに選ばれないヨハネ福音書の個所がえらばれる。
 今日の個所は記者ヨハネがその記載意図を示すごとくに
 「反対とそこにある主の勝利」
というアンチテーゼが最初から出てくる
 「神殿奉献記念祭」
 とは、イスラエルの歴史に由来する。紀元167年。ギリシャに支配されていたイスラエルはゼウス神を拝む事を強制される。そんな中、抵抗して立ちあがったのが、
 マカバイ
 だった。抵抗戦争の三年後に神殿を選挙してゼウス神像を撤去して行ったのが
 「神殿奉献記念祭」
 である。そして、新共同訳で
 「冬であった」
 と書かれている場面設定。χειμὼνヘーモオウンは
 「嵐」
 とも訳せる単語で意味するのは同じで
 「厳しい」
 という事である。そこにイエス・キリストが登場する。
 「神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。するとユダヤ人たちがイエスを取り囲んで、言った。
『いつまで私たちに気をもませるのか、もし、メシアならはっきりそう言いなさい』」
この
「メシア」という単語はχριστόςクリストスで
 「キリスト」
 という単語である。
 「イエスは答えられた。
 『私は言ったが、あなたがたは信じない。』」
 これだとイエス・キリストが
「メシア」
 であると宣言したのに、ユダヤ人たちは信じなかったというような文章に読めてしまう。普通に読んだらそうとしか理解不能である。
 この
「信じる、信じない」
 という話しになると、どこの宗教でも同じく、単純に
 「神様を信じる、信じない」
というのと同議になってしまう。ヨハネ福音書ではこの
 「信じる」
という概念を特別なものとして扱っている。
 特に、ヨハネ書が書かれた紀元1世紀末、キリスト教はユダヤ教から異端として退けられてしまい、ローマ帝国の公認宗教ではなくなってしまった頃だった。
 もはや、生きていくにも、進んでいくにも、もうキリスト教徒であるというだけで、その生活を否定されるという事態に直面していたのだった。そんな中で
 「信じるも信じないもない」
 「どうやって生きていくか」
という事の方がそのキリスト教信仰に大きな意味を持ちだすようになった。実存的というのはこういう事だろう。
 ヨハネ福音書ではこの事をとりあげて、そうではないキリスト教徒に
「抵抗している」
 書簡でもあるのだ。イエス・キリストは言う
「私が父の名によっておこなう業が、わたしについて証しをしている。」
 これも誤解されがちな聖句で、これだと、まるで、イエス・キリストがやってきた、たくさんの人間には出来ない奇跡の事だと勘違いしてしまう。
 ヨハネ福音書では、そのような奇跡はもはや期待していない。大事なのは、このイエス・キリストの
「業」
 即ち、生きざまを指している。そこで、わかりやすく言えるヨハネ福音書の特色として、イエス・キリストの十字架論が、他の共観福音書三書とは異なっていると言うことである。
 例えば、イエス・キリストは十字架の処刑にあたり、十字架を最後までご自身で担いで刑場まで達する。やり遂げたという感じだ。
 そして、十字架で犠牲の悲鳴を上げると言うよりは、十字架に高く掲げられるというような考え方をする。
 パウロの書簡に物凄く顕著なイエス・キリストの十字架の贖いという概念とは異質なものを主張しているのだ。パウロの書簡が書かれたよりも四十年以上後に書かれたヨハネ福音書は、いよいよ、生きていくのに大変になったその惨状の中で、どのように生きていくかが示されてくる。
 イエス・キリストのように生きて行くということが強調される、それが今日の個所で書かれている
 「永遠の命」
そのものなのである。もはやローマ帝国からは認められない存在となってしまった、そのような中で、あるからそ、イエス・キリストがそうされたように十字架を勝利の証しとして進んでいく、ここに
 「永遠の命」
 があるとして、目の前の、絶望的な状況に対して、毅然と立ち向かっていく事が、強く示されている。そして、はっきりとイエス・キリストは示される。
「彼らは決して滅びず、誰も彼らを私の手から奪うことはできない」
 と!!
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by qpqp1999 | 2016-04-16 19:01 | キリスト教