復活後第二主日礼拝説教
2016年 04月 09日
復活後第二主日礼拝説教
ルカ福音書24章36~43節
ルカ福音書描いているルカという人はライター失格だ。
今日の聖書個所は、復活のイエス・キリストが弟子たちの前に現れて、
「お化け」
ではないと言う事を証明するために手や足を見せたり、しまいには焼き魚を皆の前で食べてしまったという個所である。
ストーリーテラーたるルカは、この難しい主イエス・キリストの復活の出来事を当初はそれは感動的に描写していた。
先週の個所である。
「エマオへ旅する弟子に接近される復活のイエス・キリスト」
である。
私はこの個所を読んで、泣いてしまったほどに感動した。
ところが、その後の展開で
「?」
とひっかかる事になる。
エマオに行こうとしていた弟子たちがエルサレムに戻ってきて、隠れ家にいる弟子たちのところで
「復活の主イエス・キリストに出会った」
と証しをする。そうするとエルサレムの隠れ家にいた弟子たちも
「本当に主は復活してシモンに現れたと言っていた」
と言う。
ちょっと待って下さい。このシモン・ペトロに復活のイエスが現れたという聖書個所はルカ書においては、この時点で一切無い!!!
精々あるのは
「ペトロは立ちあがって墓に走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った」
だけだ!!!
家に帰ってしまっては駄目ですよね。
しかし、今回はそのペトロも含めて、エルサレムの隠れ家に弟子たちが集結していて、あの感動的なエマオに向かう弟子二人に顕現された復活の主イエス・キリストについて証ししており、また、迎える弟子たちも
「本当に主は復活してシモンに顕れたと言っていた」
と言う。ルカ福音書を読んでいる限り、そんな個所はどこにも見当たらない。一体記者ルカは何を考えてこんなエピソードを割り込む形で挿入したのか・・・。
恐らくは、筆頭弟子のペトロに顕現しないでは済まされないだろうという当時のルカの立場があったのではないかと思う。
しかし、そのおかげで、福音書文学というものの、構成の問題が非情に幼稚なものになってしまっているのも否めない事実だ。
嘘でもいいから、このエマオに旅していた弟子たちのエピソードの後でもいいから、シモン・ペトロへの顕現物語を描いてもらいたかったものだ。
今日の個所は序盤、非情に感動的なエマオに向かう弟子たちに顕現された復活の主イエス・キリストの報告から起こされる。
「こういうことを話しているとイエスご自身が彼らの真ん中に立ち。
『あなたがたに平和があるように』
と言われた」
のであった。
エマオに旅する弟子たちにも顕れて下さり、シモン・ペトロにも顕れて下さったことをお祝いしていたのだから、ここは当然、皆が感動して喜ぶべき個所だ。ところが違う。
「彼らは恐れおののき、亡霊を観ているのだと思った」
である。ここにはエマオに向かっていた弟子たちもいる筈であり、顕現されたシモン・ペトロもいるはずだ!!それなのに、皆が
「お化けだ」
と言って恐れおののいてしまうのだった。
ここで、ちょっと立ち止まってみたい。この
「亡霊」
と訳されているギリシャ語は何であるか
πνεῦμαプネウマ
である。
この単語は私たちが信仰告白で
「信じます」
と言っている
「聖霊」
と全く同じ単語である。
バチカンからギリシャ語の先生として招聘された経験のある
本田哲郎司祭訳
でも
「亡霊」
と訳されているから、不自然な運びではないにせよ。意外な事実だ。
「聖霊」
と
「亡霊」
が一緒になって語られているのだ。そこで、顕現された復活の主イエス・キリストは
「私の手や足を見なさい、まさしく私だ。触ってよく見てみなさい」
と顕現の主イエス・キリストは言う。
「彼らが喜びのあまり、まだ信じられず」
とあるのも、不自然な展開だ、そこにはエマオでの旅で復活顕現を体験した弟子が二人もおり、シモン・ペトロにも顕現したとはっきり書いてあるではないか。
「確かにあなたです」
と言ってもらいたい所なのだ。
そこで、私は思う。ルカは決して、駄目なストーリーテラーではなかった。
私が思うより計算して書いた福音書であるという事である。
つまり、人というものは一回や二回、奇跡を体験したところで、そんなものは、何の役にもたたないということである。
事実、エマオへ旅する弟子も顕現されたペトロも、二回目の顕現の主イエス・キリストに対しては
「亡霊だ」
と言って恐れたではないたか。
それよりも大事なのは、今日の個所の最後の部分で
「『ここに何か食べるものはあるか』と言われた。
そこで、焼いた魚を一切れさしだすと、イエスはそれをとって彼らの前で食べられた」
と言う。
そこまで、しなければ、信じられないか!!!!
というメッセージがルカ書から発されている。
そうだ、そこまで、してもらわないと、私たちは復活の主イエス・キリストに信頼することなど、一切出来ないのだ。
ここで、
「焼いた魚を」「食べた」
というのは、実に密接に私たちの生活そのものに喰い込んでくる復活の主イエス・キリストの顕現があるということを断じてルカは言い放つのだった。
そして、
「亡霊」
だと言われていた
イエス・キリストが正に
「聖霊」
と共に私たちの生活の座に喰い込んできてくださる。顕れてくださるということに信頼して良いのだ。ということを、今日の聖書個所から学ぶのである。
ルカ福音書24章36~43節
ルカ福音書描いているルカという人はライター失格だ。
今日の聖書個所は、復活のイエス・キリストが弟子たちの前に現れて、
「お化け」
ではないと言う事を証明するために手や足を見せたり、しまいには焼き魚を皆の前で食べてしまったという個所である。
ストーリーテラーたるルカは、この難しい主イエス・キリストの復活の出来事を当初はそれは感動的に描写していた。
先週の個所である。
「エマオへ旅する弟子に接近される復活のイエス・キリスト」
である。
私はこの個所を読んで、泣いてしまったほどに感動した。
ところが、その後の展開で
「?」
とひっかかる事になる。
エマオに行こうとしていた弟子たちがエルサレムに戻ってきて、隠れ家にいる弟子たちのところで
「復活の主イエス・キリストに出会った」
と証しをする。そうするとエルサレムの隠れ家にいた弟子たちも
「本当に主は復活してシモンに現れたと言っていた」
と言う。
ちょっと待って下さい。このシモン・ペトロに復活のイエスが現れたという聖書個所はルカ書においては、この時点で一切無い!!!
精々あるのは
「ペトロは立ちあがって墓に走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った」
だけだ!!!
家に帰ってしまっては駄目ですよね。
しかし、今回はそのペトロも含めて、エルサレムの隠れ家に弟子たちが集結していて、あの感動的なエマオに向かう弟子二人に顕現された復活の主イエス・キリストについて証ししており、また、迎える弟子たちも
「本当に主は復活してシモンに顕れたと言っていた」
と言う。ルカ福音書を読んでいる限り、そんな個所はどこにも見当たらない。一体記者ルカは何を考えてこんなエピソードを割り込む形で挿入したのか・・・。
恐らくは、筆頭弟子のペトロに顕現しないでは済まされないだろうという当時のルカの立場があったのではないかと思う。
しかし、そのおかげで、福音書文学というものの、構成の問題が非情に幼稚なものになってしまっているのも否めない事実だ。
嘘でもいいから、このエマオに旅していた弟子たちのエピソードの後でもいいから、シモン・ペトロへの顕現物語を描いてもらいたかったものだ。
今日の個所は序盤、非情に感動的なエマオに向かう弟子たちに顕現された復活の主イエス・キリストの報告から起こされる。
「こういうことを話しているとイエスご自身が彼らの真ん中に立ち。
『あなたがたに平和があるように』
と言われた」
のであった。
エマオに旅する弟子たちにも顕れて下さり、シモン・ペトロにも顕れて下さったことをお祝いしていたのだから、ここは当然、皆が感動して喜ぶべき個所だ。ところが違う。
「彼らは恐れおののき、亡霊を観ているのだと思った」
である。ここにはエマオに向かっていた弟子たちもいる筈であり、顕現されたシモン・ペトロもいるはずだ!!それなのに、皆が
「お化けだ」
と言って恐れおののいてしまうのだった。
ここで、ちょっと立ち止まってみたい。この
「亡霊」
と訳されているギリシャ語は何であるか
πνεῦμαプネウマ
である。
この単語は私たちが信仰告白で
「信じます」
と言っている
「聖霊」
と全く同じ単語である。
バチカンからギリシャ語の先生として招聘された経験のある
本田哲郎司祭訳
でも
「亡霊」
と訳されているから、不自然な運びではないにせよ。意外な事実だ。
「聖霊」
と
「亡霊」
が一緒になって語られているのだ。そこで、顕現された復活の主イエス・キリストは
「私の手や足を見なさい、まさしく私だ。触ってよく見てみなさい」
と顕現の主イエス・キリストは言う。
「彼らが喜びのあまり、まだ信じられず」
とあるのも、不自然な展開だ、そこにはエマオでの旅で復活顕現を体験した弟子が二人もおり、シモン・ペトロにも顕現したとはっきり書いてあるではないか。
「確かにあなたです」
と言ってもらいたい所なのだ。
そこで、私は思う。ルカは決して、駄目なストーリーテラーではなかった。
私が思うより計算して書いた福音書であるという事である。
つまり、人というものは一回や二回、奇跡を体験したところで、そんなものは、何の役にもたたないということである。
事実、エマオへ旅する弟子も顕現されたペトロも、二回目の顕現の主イエス・キリストに対しては
「亡霊だ」
と言って恐れたではないたか。
それよりも大事なのは、今日の個所の最後の部分で
「『ここに何か食べるものはあるか』と言われた。
そこで、焼いた魚を一切れさしだすと、イエスはそれをとって彼らの前で食べられた」
と言う。
そこまで、しなければ、信じられないか!!!!
というメッセージがルカ書から発されている。
そうだ、そこまで、してもらわないと、私たちは復活の主イエス・キリストに信頼することなど、一切出来ないのだ。
ここで、
「焼いた魚を」「食べた」
というのは、実に密接に私たちの生活そのものに喰い込んでくる復活の主イエス・キリストの顕現があるということを断じてルカは言い放つのだった。
そして、
「亡霊」
だと言われていた
イエス・キリストが正に
「聖霊」
と共に私たちの生活の座に喰い込んできてくださる。顕れてくださるということに信頼して良いのだ。ということを、今日の聖書個所から学ぶのである。
by qpqp1999
| 2016-04-09 18:45
| キリスト教