牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

変容主日礼拝説教

変容主日礼拝説教
 ルカ福音書九章二十八から三十六節

 今から四十年くらい前、キリスト教の絵や映画では、どうかするとイエス・キリストを描写する際に、それは
「白人」
 の姿だった。白い衣を着ていて輝かしく描かれていた。
 私の小学生の時の
「聖書物語」
とか
「聖句ポスター」
とか皆そうであった。
 マルコムXが服役している時、キリスト教の授業があって、マルコムXが講師の牧師に喰ってかかったことがあった。
 「あの絵に描かれているイエス・キリストは白人だ、だが、実際のイエス・キリストはユダヤ人ではないか」
と。
 確かに
「映画ベンハー」
とかでもイエス・キリストは金髪だ、そんなユダヤ人、二千年前にいるわけがない。
 私たちは、知らないうちに、
「イエス・キリスト像」
 についてすり込みされてきていたのだ。
 尤も、姿形くらいなら、まだましなのだがイエス・キリストの在り方についても、私たちは随分と
「キリスト教保守層」
による支配的なすり込みをずっとされてきた。
 実を言うと、インターネット等の情報提供によって、このイエス・キリスト像は大分ましになったのが、この数年の事だ。
 大分、二千年前のユダヤ人青年みたいなイメージに近づいてきた。だが、そこでも、すり込みがある。まるで、イエス・キリストは優しくて、いい男で、カッコいい青年として描かれている。
 イエス・キリストが十字架で処刑されてしまったから、二千年近く経ってしまった今、私たちは、史実のイエスキリスト像というものを、どうやっても手に入れることはできない。その事を今日の個所を読む時に心得たいのである。
 今日の聖書個所ではっきりと打ち出されているのは、イエス・キリストの本当の姿がモーセやエリヤによる立証によって、その十字架の処刑という顛末に至るという事であり、所謂
「栄光」
とか
「神話」
とかと程遠いところにポイントがあるということである。
 「顔の様子が変わり、服が真っ白に輝いた見ると二人の人がイエスと語りあっていた。モーセとエリアである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしている最後について話し合っていた」
 である。
 この部分が、
「主の変容主日」
 において大切だ。この主日をどうかすると、イエス・キリストが栄光の輝かしい姿になったと讃えてしまうような方向に行きかねないが、そうではない。むしろ、その正反対だ。
 記者ルカは描く。モーセとエリヤを持ち出して来て、
[エルサレムで遂げうとしている最後]
 について強調しており、それこそが
「変容」
 の一番大切な部分だと強調されている。
 例えば、
「飲酒運転して事故を起こし、子供を殺してしまったら、新聞に書かれる」
 という事になる、勿論、あらゆる刑法によって裁かれることになる。そんな人を崇める事ができるでしょうか。というのが、今日の記者ルカが一番書きたい所だ。
 イエス・キリストの変容の物語の一番大切な事は、その輝かしい変容の中で、イエス・キリストが
「遂げよう」
 としている。世の中で、最も惨めで、人々から糾弾されるような立場で、殺されるという事意外の何者でもないということである。
 それが、
「モーセとエリヤ」
によって実証されるというのが、この
「変容物語」
 の主軸なのである。
 この世のあらゆる、底辺から立つ、最も酷い目にあった人として、イエス・キリストはここに
「変容」
 するのである。
 しかし、そこには主からの栄光が備わっている。それが
「モーセ」
であり
「エリヤ」
なのだ。二人とも旧約聖書の中での最も輝かしい二人だ。
 私たちは、ともすれば、栄光というものを勘違いしているのだ。栄光とは人々から称賛されて、褒め称えらるものだと勘違いしている。それをルカ書は正す。
 栄光とは、人々から差別され、顰蹙を買い、のけものにされているような人、そう言う人にこそふさわしいと書いている。
 それこそが、
「変容」
 のイエス・キリストの姿なのである。そして主は言われる。
 「これは私の子、選ばれた者。これに聞け」
である。であるならば、私たちはこの惨めなイエス・キリストの変容に聞くのである。
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by qpqp1999 | 2016-02-06 19:23 | キリスト教