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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

信仰とは

 キリスト教で洗礼受けるなら、それは、そこに信仰ありと牧師とか教会役員とか偉い人たちが判断して行われるものではないだろうか。
 それって、どうなんだろうと、神学生の頃からつくづく思っていた。
 なにしろ、私は幼児洗礼で、生後数カ月のうちに洗礼を受けてしまったのだ。
 そんな赤ちゃんに信仰なんかある訳がない・・・。
 いや、主イエス・キリストとの関係の問題だから、そう断言することは、矛盾する話しだ。
 そこで、今日、フェイスブックの友達になってくれている。牧師がある本を引用して書いていて、とてもその引用が、ふーむと思って考えてしまった。
 こうです。
 「神の前で義人として立つこと、神の前で義とされるということは、人間にとって、自分自身からしては、彼がどんなに敬虔であったとしても全く不可能である。罪人に義を宣告なさるのは神ご自身なのであり、それがどんなにふさわしくない罪人であっても、神の自由な恩寵において、神は恵みの神としてそれをなさる。それは、人間がただ信仰においてのみ、神に信頼つつようやくとらえることの許される恩寵である。三つの神徳(信・望・愛)の中で、ルターにとって一番大事になったのは、信仰であった。信仰によって、正しくない罪ある人間が、神の義を受けるのである」(ハンス・キュンク「キリスト教思想の形成者たち」新教出版社、p.198)。
 要するに、ルターにとって大事だったのは
 「信仰」
 だったと言う。
 実は、この表現。原文読んでいないから、なんとも言うことができないが、この日本語訳を読む限り、ある
「信仰」
 ここで、この文脈でみてみるとなんと
信仰は所謂、条件ではなくなっているといことが大事だ。
 よく、
「信仰が浅い」とか
「信仰が深い」とか

言うキリスト者は多いのだが、
そもそも信仰がどれくらいふあるか、ないかなんて、誰にもわからなんですよ。
 私が牧師になって一番最初に洗礼授けた人は[障碍」と共に生きておられた青年だった。
 洗礼、授ける一週間前、私はその方のお父様の御臨終を見届けて、臨終の祈りをし、前夜式をしました。日本福音ルーテル修学院教会での出来事でした。
 夜明けに息を引きとられるまで、その息子である青年と私は病室にいました。お父様が亡くなると、
「モノでも扱うかみたいに」
看護師の方が手際よく、チューブとか色々外して、御遺体を霊安室に運ばれました。
 葬儀も終わった後のこと。その青年は修学院教会の牧師館で暴れました。理由はよく解りません。なにしろ、理由をきいても、普通に対応できなかったからです。
 そもそも、会話が
「普通」
 に出来ません。
 そしたら、その青年が通う、
「施設」
 の施設長が私とサシで話しを求め、日本福音ルーテル修学院教会での彼の洗礼をしてもらいたいという事になったのでした。
 私は困った。洗礼準備会なんていうものは、ろくに出来なかった。なにしろ、普通に会話が出来ないんですから。
 「あなたの罪の贖いのために主イエス・キリストは十字架につき、復活され、永遠の命を・・・」
みたいな理屈が通用しないのです。
 もしかしたら、話を聞いて、彼なりに理解していたかもしれないが、私からみて、到底そんな状態ではなかった。では、そんな彼は洗礼受けることが出来ないのか!?!?
 ってなったら、それはキリスト教において
「=救われないのか」
 という事になってしまうので、私は
「そんな、事はないだろう」
 と半ば、怒りを持って、反応しました。
 その人が、確かに、キリスト教の言う、救済論を理解できないかもしれないが、彼は救われるはずだし、たった今、お父様を亡くされて、うちひしがれている彼と共に主イエス・キリストがおられないはずはない。と反射的に感じたのでした。
 そうして、洗礼式になりました。彼は、式文の要求する返答が出来ませんでしたが、水の滴礼を素直に受けいれました。
 私は思った。使徒信条を暗唱出来なくても、あるいは理解できなくても、救われるのは当然なことだと。
 信仰に深いも浅いもない。あくまでも
「信仰」
 というのは、その個人と主イエス・キリストの関係において成り立っているものであり、他人が、あるいは権力者がとやかく、文句つけたり、つけられたりする義理もなければ、関係もないと。
 だから赤ちゃんだって、救われるんです。小児洗礼受ける赤ちゃんがキリスト教信仰の内容、理解できていますか。そんなわけ、絶対ないですよね。
 そして、私たちはその赤ちゃんと主イエスキリストの関係について、どうこういう立場にないんです。あるとすれば、そこにおいて成立している救いをたたえ、涙する事だけだと。
 だから
「信仰」
 っていうのは、ごく個人的なものであって、誰か人が、あれこれ、決めたり、認めたり、認めなかったりするものではない、
 そこで救われる人の出来事だと
 私は思うのでした。
by qpqp1999 | 2015-11-03 19:01 | キリスト教