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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

聖霊降臨後第13主日礼拝説教 マルコ福音書6章45~52節

聖霊降臨後第13主日礼拝説教 マルコ福音書6章45~52節
 人生というのは、そんなに思ったほど自分の思うようにならないものだ。私は幼少の頃からキリスト教信者として生きてきているが、
 「神様は意地悪だ」
 と思う事が少なくない。神様というと、何か助けてくれたり、願いを叶えてくれる存在だと思っている人は少なくないだろう。それが証拠に日本人の多くの人は神社に行ってお参りの際に願いごとをする。尤も、それが叶えられるかどうかは、あくまでも楽天的な姿勢でしか臨んでいないのが日本人気質のいいところだ。
 それこそ、今日の個所に関連がある。実際のところ、
 「神様は意地悪だ」
 としか考えられない運命を私たちは受け取らなければならない事がある。その時に聖書や二千年も前に生きていたイエス・キリストが何かしてくれますか?と言ったならば、何もしてくれないではないかという事が起こり得る。
 そうして、私たちは絶望の淵に追い込まれる。実はこれが大事で、私たちは一度くらい絶望の淵に追い込まれた方がいいのだ。例えば、今日の聖書個所で奇妙な文言がいくつか出てくるのだが、その最初のものとして。
 「イエスは弟子たちを強いて船に乗せ、向こう岸のベトサイダへ行かせ」
 とあるのだが。
「強いて」
 です。弟子たちに船出させておいて、イエス・キリスト自身は
「祈るために山へ行かれた」
 なんです。無責任にもほどがある。
 せっかく、この説教を読んで下さっている人のために、蘊蓄を語りたいと思います。例えば、
 「ベトサイダ」
 という所はガリラヤ湖の北岸、ヨルダン川が湖にそそぎ込む川口のすぐ東に位置する所だ。ヨハネ書によれば、弟子のペトロ、アンデレ、フィリポの出身地である。
 なので、漁師であったペトロたちにとっては、行きなれた航海であったということになる。彼らは船乗りのプロフェッショナルだったのだ。
 「夕方になると」
と書いてあるが、これは、やや不自然だ、何故ならば、すぐ直前の個所での五千人の給食奇跡物語も夕方だったから、整合性をなしていない。実はこれは、聖書を読む時に大事なスタンスであった。記者マルコも阿呆ではないから、それくらいの矛盾は解っている。解っていて、わざわざ書いた。つまり、伝承を大事にしたということで、この個所の信憑性を語っているわけだ。
 「船は湖の真ん中に出ていた」
とあるが、これギリシャ語原典ではμέσῳカオースである。まさにカオスだったと言うわけだ。真ん中とはカオス、混沌状態だったという事だ。
 そして、船乗りのプロフェッショナルな彼らでも太刀打ちできないほどの逆風がきた。
 そもそもが、イエス・キリストによって船出を強いられたものが、結局、混沌状態に陥って、逆風で沈没しそうな状態になる。こんなことで、キリスト教という宗教は成立するのだろうか。
 「こぎ悩んでいるのを見て夜が明けるころ湖の上を歩いて弟子たちのところへ行き」
 とある。随分とのんびりした話しだ。夕方から逆風に苦しんでいたのに明け方になってから初めて、弟子たちを助けに行くという。つまり弟子たちは強いて船出させられて、その結果、逆風にあって、沈没寸前になるという危機を夕方から明け方まで続けていたということだ。
 なんて薄情なんだイエス・キリストというのは。と考えてしまうのも仕方がない。だが、確かに、湖のカオスで悩み、逆風で生死の境をさまよったかもしれないが、弟子の誰一人として死者は出なかったではないか。
 これが一番大切なマルコ書のメッセージだ。確かに、現実の私たちは瀕死の状態にあるかもしれない。苦しんで、苦しんで、死を願う状態かもしれない。しかし、弟子たちをみるといい。こぎ悩みながらも、逆風と対峙している。
 なぜ、イエス・キリストは弟子たちを強いて航海に出させたか。それは逆風にあって辛酸をなめることを必要としたからだ。果たして、弟子たちは命の危険に及ぶまで、闘わせられることになる。
 もう駄目だと思うくらい。つまり夕方から明け方まで、苦労した人たちの溜息がここで出てくるのだが、そこに初めてイエス・キリストは湖の上を歩いて助けに来るという。
 そもそもそんな事が信じられるだろうか。散々な目に会って、神も仏もあるものかという状況の人に一体イエス・キリストは何をしてくれると言うのか。
 そのキーワードが
「湖の上を歩いて」
 である。いくらイエス・キリストが神であっても、湖の上を歩いてくると言うのは滅茶苦茶だ。事実弟子たちは
 「幽霊だと思い大声で叫んだ」
とある。だが、もっと大事なのはその前の
 「そばを通り過ぎようとされた」
である。助けに行ったのに、通り過ぎるというのは変ではないかと思う。これは旧約聖書の神顕現に由来する(出33章列王記上19章)だ。
 つまり、私たちは命の危機にあいながらも、それでもイエス・キリストは明け方にまでなって遅くなっても助けに来て下さると信じて、粘ることが示されている。信仰とは圧倒的な絶望の中で、あきらめず、命、生をつづけることなのだ。
by qpqp1999 | 2015-08-22 16:24 | キリスト教