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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

顕現後第四主日礼拝説教 マルコ福音書1章21節~28節

顕現後第四主日礼拝説教 マルコ福音書1章21節~28節
 宗教に政治を持ちこむのはご法度だと誰が決めたのだろう。政治の問題はその国民の民意の問題であり、それはキリスト教を信仰する信徒たちの生活の座であり、証しの機会であり、主張すべき所だといことからはじめていきたい。
 私のブログやフェイスブックを読んで下さっている人には重複となるが、ご容赦いただきたい。今、日本国は、日本国民はある岐路に立っている。
 現在、日本国民につきつけられているイスラム国による日本人の人質の解放についてだ。 有志連合つまりイスラム国に対して空爆とかしている米英の仲間になりたくて、安倍はやってはいけない、言ってはいけないことを言ってしまった。
 つまり、日本は有志連合の仲間になってイスラム国と闘いますと言って放った。これは大変やってはいけないことで、この時点で日本国は後藤さん湯川さんが人質になって身代金をかけられている事を知っていたという事態を日本人は厳しく追及するべきだ。
 本当は軍備を提供したい、軍に関わりたいのだが憲法9条があるのでそれができない。なので、難民の支援とか非軍事の面でだけしか協力できないというのが実 情で、それをひっくり返したくて安倍は後藤さんや湯川さんが人質になっていて身代金ふっかけられているのを知っていながら、わざわざ中東まで行って、日本 は有志連合の仲間でーす!!!と言って放った。
 そこで、イスラム国はカチンときて、後藤さん湯川さんの身代金を安倍が伝えた金額にして要求してきた。
 これはね、もう責任とって総理を辞めるべき事態なんですよ。それが、イマイチ、国民に伝わっていないというのが私の一番言いたいことです。
 いいですか、戦争に反対、空爆に反対の後藤さんが捕らわれてしまっている事を安倍は知っていたんです。それなのに火に油を注ぐように有志連合の仲間になりたくて、中東であんな事を言ってしまった。
 なんで、このような話を教の聖書個所にもってくるかと言うと、それは「権威ある者」として教えるイエス・キリストの事を考えるからだ。「イエスは安息日に会堂に入って教え始められた」とある。場所は「カファルナウム」紀元1世紀にはローマ帝国の属州になっていて、ローマ軍の駐屯基地があり、大規模な徴税所があった地域だ。イエス・キリストはその活動を先ず、この地に定めた。
 当時、律法学者は人々の宗教的指導者になっていた。というのはマルコ書が記された時代の話しであることが可能性高いことに言及したい。そもそもユダヤ教というのは神殿宗教で神殿で犠牲の捧げものをして主から赦してもらうという形式をとっていた宗教だ。しかし紀元70年のエルサレム神殿を破壊されてしまってからは、ユダヤ教はそのアイデンティティーを自らの律法によるものとして、よりどころにした宗教にならざるを得ず、結果としてファリサイ派、律法学者が中心的な役割を果たすようになっていった。
 尤も、既にイエス・キリストの公生涯の時点では、エルサレムはローマ帝国の傀儡の象徴にすらなっていたから、すでに律法学者たちの立場は強くなっていた。ところがイエス・キリストは「律法学者のようにではなく権威ある者として教えになった」ことに人々は驚く。ここにはマルコ書の言いたい事が隠されている。つまり、イエス・キリストは決して権威ある者ではなかったからにも関わらず「権威ある者として教えになった」と言う点に注目したい。そこで登場するのが「汚れた霊にとりつかれていた男」である。
 この「汚れた霊」はイエス・キリストをすぐに見抜いて「ナザレのイエス、構わないでくれ、正体は解っている神の聖者だ」という言葉を投げだす。相手を「神の聖者」というのは罵ることにならないのではないかと思う人も多いかもしれないが、悪霊払いの現場においては、その悪霊の名前や地位を先に知って言った方が勝ちという、ちょっと面白い悪霊払いの儀式の様子がここからうかがえる。つまり「悪霊」は先にイエス・キリストの存在を語って優位に立とうとしているということなのだ。
 であるのでイエス・キリストは「黙れ、この人から出て行け」と言い、悪例払いは成功し、多くの人々が驚嘆し、地方にその噂が広まったというのが今日の個所の話しだ。
 しかし、ここにはマルコ書独特のトリックが隠されているそれは「悪霊」がイエス・キリストを指して「ナザレのイエス」と呼ぶ。ナザレは今でこそ聖地になっているし、この歴史の中で十字軍とサラセン人の闘いで奪還戦が行われた地域だが、そもそもはユダヤ教からしてみれば、何等の価値もない、もっと積極的に言うと、「汚れた地域」として認識されていたということを考えてみたい。「権威ある者」のように教えながら、その身分は汚れた地域の出身。このギャップこそがマルコ書の主張したいところなのだ。
 一番最初に述べたように、今、まさに日本人は岐路に立たされている。それは平和国家として日本国の憲法9条を守って、米英のように戦争に参加しないという意思をはっきりさせるか、しないかである。
 そこでこそ、イエス・キリストは「権威ある者」として言うのだ。日本に全くと言っていいほど関係の無い外国で人殺しする戦争に日本人が参加していいのかと突きつけてくる。例えば、今回、イスラム国の人質となっている後藤さんはクリスチャンで、ずっと戦争で酷い目にあった人たちに寄り添う報道をしてきた。どこのテレビ局も行かないから、自分からその恐ろしい地域に入っていって報道したんですよね。特に今回は人質になっている湯川さんを助けたいという一心で産まれたばかりのお子様を置いて、その危険な地域に入って行ったのです。
 今日この聖書個所を読むキリスト教徒は自らを戒めなければならない。今、中東で起こっている事は今や私たちの存在責任の意味そのものに向かっているのです。もし、イスラム国を徹底的に軍事作戦で殲滅したいというならそういうあり方もあるでしょう。しかし日本には憲法九条がある。交戦権を一切認めないという絶対的根拠があるのです。その場合、それが非軍事であったとしても戦争に関わることはしてはいけない。そして、今、二人の邦人が処刑されようとしている今、私たちは声をあげなければならない、もうこんなことは止めにしなければ駄目だと。
by qpqp1999 | 2015-01-24 18:11 | キリスト教