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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

主の洗礼日主日礼拝説教 マルコ福音書1章9-11節


 四つある福音書の中ではマルコ書が一番古いと考えられている。おそらく紀元70年過ぎくらいだと言われている。そして、ルカ書とマタイ書の記者はこのマルコ福音書を資料として知っていたとも考えられている。それは、ルカもマタイも共にマルコ書の順番通りに話しが進み、それに独自の伝承を絡ませて書かれているからだ。両書とも紀元一世紀末近くになって書かれたと考えられている。そういうわけで、この三書は同じ記事を共有しているので共観福音書と呼ばれている。
 今日は主の洗礼日主日ということで、イエス・キリストが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを記念する礼拝である。だが、実はこのイエス・キリストが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたという事実はキリスト教としてはできれば無かったことにしたい出来事であったことは興味深い。それが証拠に、マルコ書ではきっぱりと「ヨハネから洗礼を受けられた」と書いてあるのに後代の記述になればなるほど脚色して洗礼者ヨハネよりイエス・キリストの方が偉かったのだと付け加えられているのだ。マタイ書ではイエス・キリストが洗礼を受けようとすると洗礼者ヨハネが「わたしこそあなたから洗礼を受けるべきなのに」とか言い出して断ろうとしているように継ぎ足して書かれている。ルカ書ではヨハネがいつの間にか領主ヘロデによって投獄された後に、イエス・キリストが民と一緒になって洗礼受けたことになっていて、ヨハネから受けたと書かないように修正されている。共観福音書ではない第四福音書ヨハネ書になると、もはやイエス・キリストの洗礼受けた物語は消去されており、無かったことになっている。
 それくらいキリスト教にとってはこの出来事は無かったことにしたい事だったのだ。何故ならば、それが事実ならイエス・キリストは洗礼者ヨハネの弟子であったと言い放つ事と同議だったからである。であるので、キリスト教という組織が強化され、イエス・キリストが神格化されていく段階の中で、この洗礼の出来事はとてもやっかいな事実となったのだ。しかし最古の福音書のマルコ書がなんのためらいもなく「ヨハネから洗礼を受けられた」あっけらかんと書いてあるので、無視することが難しかったのだ。
 では実際、イエス・キリストは洗礼者ヨハネの弟子だったのかという疑問に私たちは面と向かうべきこととなる。実情だけ観たらそういうことになってしまうのだが、しかし、洗礼者ヨハネの弟子であったにしては、その後の行動や伝承がまるでそれを支持していないことから、洗礼を受けたからといって、そうはっきり洗礼者ヨハネの弟子だったと断言できるほどのものではないのも確かだ。確かに、弟子であった可能性は0だとは言えないが、弟子でなかった可能性も0だとは言えないというのが実情だ。
 そこで、最古の福音書であるマルコ書のイエスキリストの登場が今日の個所だということも、これは大事な事だ。たとえば、「そのころイエスはガリラヤのナザレから出て来て」とこれまたあっけらかんと言っては困ることをマルコ書は書いているのだった。せっかく、マタイやルカはイエスは預言通り、ベツレヘムで産まれたという伝承を拾ってきて、イエスはベツレヘム出身だったのだが、分けあってナザレに育ったといい訳している。つまりガリラヤのナザレというのは、決して救世主の出身地としては納得のいかないド田舎だったし、なにしろガリラヤにはローマ軍の駐屯基地もあって、どうかすると「汚れた」地域だとしてユダヤでは認識されていたので、イエス・キリストを神格化させるのに、これまた、できれば無かった事にしたかったのだが、なにしろ最古のマルコ書がそう書いてあるので、後代の執筆者たちはあれこれいい訳しなければならなくなった訳だ。ちなみに第四福音書ヨハネ書ではイエス・キリストは世の創造の時から存在していたことになっている。
 という事で、この主の洗礼日、イエス・キリストが洗礼者ヨハネから洗礼受けたことをいったいどう受けとめるべきなのか、あるいは、そこにどのような意味があるかを聖書から告げられている。
 上述の通りで、イエス・キリストは「汚れた」地域の出身で、その最初の行動として
ヨルダン川に身を浸したということの重大性を認めなければならない。実を言うと新共同訳で訳されている「ヨハネから洗礼を受けられた」というくだり、原典のギリシャ語聖書にはどこにも「洗礼」に該当する言葉が無いということは、是非とも知っておきたいことだ。あると言えば、ある4節に出てくるβάπτισμαバプティスマが「洗礼」と訳されている。その影響で今日の個所の9節でも「洗礼」という言葉が用いられている。
 このバプティスマという言葉、どっかできいた事ないだろうか、例えば「バプティスト教会」という教派があるが、まさに文字通り、洗礼の儀式を重んじて、全身礼というお風呂みたいな所にはいって全身を水(時にお湯)に身を沈めることを信仰の証したる洗礼として大事にしている教派だ。カトリック、ルター派、聖公会や多くのプロテスタント教会では滴礼として頭に水(聖水)を垂らすことで洗礼式としている。
 どっちが正しいか等という議論は無意味でどちらも救われた出来事として洗礼として大切なものである。だが、これとイエス・キリストの「洗礼」とは分けて考えなければならない。イエス・キリストの「洗礼」の出来事はまさにその顕現の意味が濃厚であることを知りたいし、マルコ書はそれを書いているのだ。「汚れた」とされている地域から出て来て、ヨルダン川でἐβαπτίσθηエバプティーせー、つまり日本語に訳すると「浸かった」「沈んだ」という言葉で描かれる。
 つまり、イエス・キリストはお高い所にとまっている光り輝くような、そして、上から目線で救いをもたらすような、今時の言葉を使うなら「ドヤ顔」している救い主ではなかったということが強調されているのだ。
 罪人と断罪されている人々の中からやってきて、罪人と同じく、身をヨルダン川に沈める事。ここから、イエス・キリストの福音は始ったのだとマルコ書は強く主張しているのだ。そこまで、私たちのところに降りて、共に立って下さるから私たちはこの主イエス・キリストのうちに「天が裂けて霊が鳩のように降って来る」救いを見ることができるのだ。そうであるからこそ、この主の洗礼主日は殊更に私たちにとってはかけがえのない主日となるのである。主イエス・キリストは今日、この個所を読む私たちのところに来てくださったのだ。まさに救いの到来であることを信じてよいのだ。
by qpqp1999 | 2015-01-10 19:47 | キリスト教