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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

 聖霊降臨後第22主日礼拝 マタイ福音書22章34-40節

 聖霊降臨後第22主日礼拝 マタイ福音書22章34-40節
 子供の時に教会学校でこの個所を知って。神を愛することは隣人を愛する事なのだと漠然と納得していた記憶がある。当時、まだ小学生の高学年くらいで、神という概念も牧師家庭に育ったので、半ば洗脳に近い形で把握していたものだ。そんな神を愛するというのは隣人を愛するという事だというのはとても解りやすかっのだった。
 しかし、人生も半ばを過ぎた今になると、そもそも愛するというのがどういう状態を指すのかが難しい問題となってきた。ギリシャ語原典のἀγαπαῷアガパオウがその愛にあたる言葉だ。この言葉を単純に「愛」と訳してしまうと、とても抽象的になって、具体的になにをどうしたらいいのか解らなくなるのが実情ではないだろうか。
 たしかに「隣人を自分のように愛しなさい」と言われれば、少しはわかるような気がしてくる。ところが、この自分を愛すると言う事も、具体的にどういうことなのか、突き詰めようとすると、また解らなくなってくる。
 人は誰でも生命保存の本能に従って、自分を愛するものだと考えたくなってしまうが、一方で、たとえば、煙草やお酒など、健康に悪いことをひと時の快楽のために用いてしまって、自分に害をなすことをやっている。これは自分を愛することになるのか、はたまた、そういう自分を否定して、そういうことを隣人にも要求するべきなのか、頭の中がグルグル回ってしまう。
 今日の個所はマルコ福音書を元にしたもので、ルカ書にも並行記事があって、こちらだとより解りやすく、隣人愛について示している。よく知られている「良きサマリア人の話し」だ。今日の個所と同じようなやりとりがイエス・キリストと律法学者の間でなされる。それで、律法学者が「では隣人とは誰か」という問いに対してのイエス・キリストのたとえばなしだ。
 なるほどサマリア人にとっての敵対勢力であるユダヤ人が追いはぎに襲われて半死半生の状態であるのを同じユダヤ人の宗教指導者たちが、あえて見捨てて過ぎ去ったのに対して、サマリア人はこのユダヤ人を無償で助けて、費用の一切を負担するというものだから、なんとなく隣人を愛するということがわかるような気がしてくる。
 しかし今日の個所ではその、たとえ話が無い。「隣人を自分のように愛しなさい」と言い放たれるだけである。しかし、福音書は互いにその資料を補完するものだという考えで読むならば、ここに「よきサマリア人」の話しで解決することもできるし、それも一つの読み方でそうあるべきだと考える。
 かと言って、それだけで、ルカ書の記述に完全におんぶにだっこのままというのも、どういうものかと考えてしまう。そこで広辞苑の愛という言葉にあたってみると、愛について、「親兄弟のいつくしみあう心、ひろく、人間や生物への思いやり」というのが出てくる。なかなか解りやすくまとめたものだと感心する。
 そう言われてみれば、キリスト教の礼拝の説教で、多くの牧師たちが、この「愛」を説明するのに「親兄弟のいつくしみあう心」をとりあげていたことに気がつく。確かに、そういう感情で「愛」「愛する」と言う事を理解すると解りやすい。だが、それでも世知辛い昨今では親も兄弟もあるものかというような事態がままあるので、これをそのまま、採用するのにも抵抗がある。イエス・キリストの示した「愛」とはそういうものも確かに含むかもしれないが、それだけではなさそうだと考えてしまう。
 そこで、途方に暮れて、インターネットのウィキペディアでこの「愛」というものについて調べると、「キリスト教のアガペー」について書かれている。その辺の牧師先生より解りやすく書いてあった。アガペーはキリスト教における神学概念で、神の人間に対する「愛」を現わす、神は無限の愛アガペーにおいて人間を愛しているのであり、神が人間を愛することで神は何かの利益を得るわけではないので「無償の愛」とされる。また、それは不変の愛なので新約聖書ではキリストの十字架での死において顕れた愛として知られる。またキリスト教においては、神が人間をアガペーの愛において愛するように人間同士は互いに愛し合うことが望ましいとされており、キリスト教徒の間での相互愛もまた広い意味でアガペーの愛である。とある。
 なるほど、これだけ書いてもらうとなかなか納得できる。きっと多くのキリスト教関係者の加筆修正があったのだろう。しかし、ここでまた気がつくのだが、これは、そもそも最初に考えた「愛する」であって、決して具体的な事がなにも書かれていないのだ。それでは意味がない。今、私たちが求めているのは、具体的にどうすることが「愛」なのかであって、哲学的なこと言われてもどうしていいかわからないのだ。
 そこで、はたと気がつく。この「愛」を実際に行った人がいるのではないか、という歴史的考察だ。イエス・キリストはもちろんの事だし、あまりにも典型的なので、イエス・キリストみたいに十字架につきたいと思っても、現実問題それがどういうことか、よく解らなくなってしまう。そこで、史実の人々、例えば、マハトマ・ガンジー、ボンヘッファー、マルティン・ルーサーキング、マルコムX、マザー・テレサといった人々がさっと思い浮かぶ。この中で、マザー・テレサ以外の人は暗殺されたり、処刑されたりしている人ばかりだ。マザーテレサとて生涯をそのまま捧げたようなものだ。そこで、またはたと気がつく、イエス・キリストも暗殺、処刑されていたということだ。ここで、私たちは大きなヒントを得ることができる。つまりアガペーの「愛」には「死」が関わっているということだ。もっと実直に言うと「命」が関わっているということだ。
 「心を尽くし精神を尽くし思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」この起きてには「命」というキーワードが隠されている。何故ならそもそも福音書は十字架の「命」をメインに扱った書物だからだ。だから、私たちが「隣人を愛する」事で「神を愛する」というなら、それは命がけでやれと言う事だとやっと気がつく。人に親切にしたり、大事にしたりすることは勿論大切だ、それにもまして、大事なのはそれが命がけかどうかと言う事だ。そこに、たどり着く時、私たちは正に主イエス・キリストに愛されている事を知るのであり、「隣人を愛する」事を命がけで知ることになるのである。
by qpqp1999 | 2014-11-08 18:51 | キリスト教