牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


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聖霊降臨後第8主日礼拝説教 マタイ福音書13章1~13節

聖霊降臨後第8主日礼拝説教 マタイ福音書13章1~13節
 新約聖書、福音書の一番新しいヨハネ福音書まで含めると、紀元1世紀末に執筆されている。「なんとかの手紙」というのは主にパウロという人の教会とか個人にあてた手紙の写本だ。中にはパウロの名を語っているだけで、まったくの別人が書いている手紙もある。
 8月になり、もうすぐ、終戦の記念日になる。しかし、零戦の色が何色だったかというだけでも、色々な見解があり、よく解らないというのだ。たった70年前の話しであって、写真も、カラーフィルムも開発されていた時代なのに。そこにいくと、福音書なんて、今が21世紀ですから20世紀も前の話しなのです。
 しかも、福音書の原典はなく、写本の写本のそのまた写本しか残っていないのが現状で、歴史的な糸口は依然、謎のままなのだ。ただ、今回のマタイ書においてはっきり言えることがある。それはマタイは主イエス・キリストを最もけがれにみちた罪の子として描き出すところから始まるところである。
 マタイ書のイエス誕生伝ではヨセフ伝承がメインになっていてマリアの出番はほとんどない。しかも冒頭の個所がイエス・キリストの系図で男性系図であるはずなのに女性が入っていて、どの女性も不倫とか異邦人とかできたら、無いことにしてしまいたい人ばかり出てくる。というか、わざわざ、それを書くためにマタイはこの系図を書いたと言っても過言ではないだろう。
 つまり、イエス・キリストは「汚れ」の中に産まれ、「汚れ」の中でその聖なる輝きを発揮させたというマタイの強い意思が伝わってくる。そこで、今日の聖書個所であるが、ここだけ読んでも実はあまり、ピンとこない。できたらそのまえの12章の後半を読んでもらいたい。イエス・キリストはとうとう頭がおかしくなったんじゃないのかという記事が書いてある。いくら「悪霊」がいたとされる1世紀前半であっても、これは、あんまりだと思うくらいの事がイエス・キリストの言葉として、書かれている。
 ついには、とうとう、息子たるイエス・キリストが「おかしくなったのではないか」と心配して母マリアと兄弟がやってくるのだが、イエス・キリストは、もはや、マリアや兄弟は、真の母、兄弟ではないとすら言い放つほどの「異常」ぶりをみせる。
 そして、ようやく今日の個所になる。「家を出て」とあるがどこの「家」だかさっぱりわからない。前章の脈略からすると実家ではなさそうだ。さすがに、実の母や兄弟を退けたばかりなので、個人的にもまいっていたのかイエス・キリストは「湖のほとりに座っていた」のだった。まだ三十歳前後の若者だ。色々、悩みもあるし、考えこむこともあるだろう。極めて現実的な描写だ。
 ところが、そこに人々が押し寄せて来る。既に、イエス・キリストはその地域で「時の人」になっていたのだろう。史実でいうとどうなのかということになるのだが、実際にイエス・キリストは何等の反ローマ活動もしていないのに十字架刑で処刑されているところをみると、当時では中々にローマ帝国の税金や属州となったユダヤの中で喘いでいる、人々に人気のある反保守的な青年であったことが解る。
 既にヘロデ大王は死に、ユダヤはローマ帝国の属州になってしまい、税金もさぞ高くなっていたことだろう。ユダヤ教の神殿税に、属州の地方税に、ローマ帝国の税と三十苦しかもぼったくりに等しい金額に、
にただでさえ、お金のない人たちは困り果てていた。そんな中で、反保守主義を訴えだしたイエス・キリストに期待した人は少なくなかったのだろう。イエスが独りで思いにふけようとしても、すぐに群衆が集まってくる。群衆の期待は何だったか、この人なら今の世を変えてくれるのではないか、税金に喘ぐ今の世を変えてくれるのではないかというような思いを持った人も少なからずいたと私は思う。
 そこでついに有名なたとえ話をイエスは船に座ってするのだった。
「種をまく人が種まきに出て行った。撒いている間にある種は道端に落ち、鳥がきて食べてしまった。他の種は石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし日が昇ると根がないために焼けて枯れてしまった。他の種は茨の間に落ち、茨が伸びて、それをふさいでしまった。ところが他の種は良い土地に落ち実を結んで、ある者は百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。」という個所である。
 実を言うと20節からこの、たとえの解説をマタイは書いているのだが、これは「解説」であるという立場をとっているマタイのスタンスを重要視しなければならないと考える。もし、解説が必要であれば、すぐにでもそれを、この個所で書いたはずだ、しかし不自然な事に、20節以降でこの解説がなされる、注解者によっては後代の加筆と見る学者もいる。
 誰でもが気にとめると思うのだが「他の種は良い土地に落ち実を結んだ」という一節だ。私は一体、どの種になるのかと誰でもが気になるところだ。鳥に喰われるのは嫌だし、日に焼けるのも嫌だし、茨に塞がれてしまうのも嫌だ、出来たら、その「良い土地」に落ちて「実を結ばせたい」と誰でもが思うだろう。
 ところが弟子たちの、なぜ、あのような、たとえで教えられるのかという、問いにたいしてイエス・キリストはむしろ冷酷に語る「見ても見ず聴いても聴かず、理解できないからである」と言い放つ。
 当然、その「良い土地」とはどういう所なのかを知りたくなる。基となっているギリシャ語の写本を見ると、τὴν καλὴνテーンカレーんは「素晴らしい」とかまさに「いい」とかいう抽象的な表現でしかないことに頓挫してしまう。
 そこで、バチカンから聖書学の先生として要請を受けたにもかかわらず、それを拒否して、西成で野宿生活を余儀なくされている人と、共にあるギリシャ語の達人の本田哲郎司祭の訳にあたってみると「適した」と訳してある。私はギリシャ語のスペシャリストでもないし、ギリシャ語が苦手な司祭だから、困ってしまうが、こういう聖書が出版されているのは大いに助けになる。この「適する」というのは、それぞれ、私たちが請け負っている人生の状況を言うのであり、、いかに芽吹くかが問わているとうことだ。逃げ出さない、その適した土地で実を実らせることこそイエス・キリストの十字架に通じるのだ。
by qpqp1999 | 2014-08-03 18:02 | キリスト教