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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

復活後第二主日礼拝説教 ルカ福音書24章36-43節

復活後第二主日礼拝説教 ルカ福音書24章36-43節
 この復活祭以降の第二の主日にこの個所が選ばれていることに、最初は戸惑うかもしれない、なにしろ書かれていることといったら、弟子たちが潜んでいるところに、イエスがまた現れて、幽霊だと怯える弟子たちに手と足を見せて、最後には魚を食べた。というところで終わっているので。まるで、これでは単なる復活の確認ということでしか意味をなさないのではないかとすら、思ってしまう。
 しかし、ここで、読んでいて吹きだしてしまうのはイエス様が魚を食べたということだ。なんというか、亡霊ではないことの証明のために、魚を食べたという。しかし、実は、注意して読んでみると、弟子たちはイエスが魚を食べたから信じた等とはどこにも書いてはいないことに先ず注目すべきである。たしかに、復活とその確認の記事であることには間違いないが、ただ単にそれだけのことを語っているわけではない。
 ヨハネ書の謎の最終章でもイエスは「何か食べるものはあるか」と弟子たちにきいているので、伝承的にはこのイエスが食べたという事件があちこちに濃厚に出ていたということが考えられるのである。しかし、今から2000年も前にイエスという人が復活して弟子たちの前で魚を食べてみせたからといって、今日を生きる私たちに一体それが、何の意味をなすだろうか。はたして私たちは、ほら聖書にイエスは魚を食べたくらいなんだから本当に復活したのだ等と言うなら、笑い物にされるだけである。
 そこで、注目したい最初の点は、人間として復活したのなら、それらしく扉を開けて入ってくるべきであるのに、いきなり弟子たちの真ん中に立ったりしたら、それこそ幽霊そのものである。しかし、ルカにとってはこれはエマオ途上の弟子たちへの復活の顕れをも想定に入れた、独自の表現形態であることを考えたい。エマオ途上で現れた復活のイエスも復活した人なのに幽霊みたいに消えていったではないか。そして、今、またそのことを話しているところに再び現れた。この文学的な構造にルカ独自の発信したい事柄が描かれている。
 「あなたがたに平和があるように」との祝福の言葉をもって、イエスは顕れる。これは宣教者のためのキーワードである。それはルカ書10章5節である。弟子たちを宣教の派遣に伴いイエスが命じたことの最初は「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」である。これは偶然の一致ではなく、記者ルカがわざと想定した福音書形態なのだ。つまり、イエス・キリストの復活というのは、まず、宣教的な観念から始まっているということである。イエス・キリストが復活した今、いよいよ、宣教は本格的に始まるということだ。そして、その宣教の先頭にたって、はじめにそれを起こしたのが復活のイエス・キリストであったということである。そして、それは後に信仰の目が開かれた弟子たちに引き継がれることになり、2000年の時を経て、今にまでいたっているということなのだ。その意味で、復活のイエス・キリストというのは、絵空事ではなく、とても実存的に私たちの生活に喰いこんでくるものであるべきであり、私たちはそのために宣教に牧師であろうと司祭であろうと信徒であろうと宣教に派遣されており、それ自体が復活のイエス・キリストの実態であるということになる。私たちが主イエスによって信仰の目が開かれるならば、それは同時に宣教への派遣を伴うということであり、その根幹が弟子たちの真ん中、私たちの真ん中に顕れて「あなたがたに平和があるように」と言われるのである。
 そのようにして、復活の出来事と宣教の派遣ということを考える時に、はじめて、イエスが魚を食べたという記事が活き活きとしたものになってくるのであり、また私たちの在り方そのものの指針になってくるのである。
 宣教にあたり、最も注意しなければならなのが拒絶である。たとえば、「ものみの塔」の人たちは非常に熱心に伝道しているけれども、あの人たちの宣教方針に濃厚なのは拒絶というスタンスである。一見、平和運動でもしているかのようなことを言っているが、その実を言うなら、他のキリスト教は間違っており、「ものみの塔」でなければ救われないという拒絶的な宣教方針である。そこに顕になっているのは「平和がありますように」という祝福の祈りではなく、「ものみの塔に入らなければ地獄行きだ」という拒絶的な宣教方針であるということである。復活のイエスが弟子たちに最初に示した、宣教方針はその全く逆のどのような相手であっても先ずは「平和があるように」と祈るという福音の伝達から始まる宣教姿勢なのである。
 そこで、はじめて魚を食べる復活のイエスの物語が福音に転嫁されてくるのである。実は、ユダヤ教にとって、食べるというのは、とても重要なことであった。食べていいもの、悪いものを厳密に規定していたし、また、ユダヤ教の礼拝の一部は食事そのものなのである。キリスト教はユダヤ教とは違うけれども、このスタンスは同一のルーツになるものであり、食べるということは、普通に考えられている以上に重要なことであるということを述べなければならない。
 「イエスはここに何か食べるものはあるかと言われた。そこで、焼いた魚をひときれ差し出すと、イエスはそれを取って彼らの前で食べられた」という個所。実は、新共同訳では非常にストライクゾーンの広い訳し方をしているので、ここでのルカの独特の主張がう埋もれてしまっている。「彼らの前で」というのはἐνώπιον αὐτῶνエンヌピオーン アウトォーンで、「彼らと共に」と訳せる個所であり、私はこの訳をとりたいと思うのだ。つまり、これは極端な事を言うと、聖餐式そのものでもあり、また、実存的に言うならば、食事を共にするほどに主イエス・キリストのもとに関係を親しく保つということになるのである。
 魚を食べたから幽霊ではなくて、復活したという主張ではなく、主イエス・キリストの復活は、今を生きる私たちと共に、食事を共にするまでに、特にそれがユダヤ教においては、宗教儀式であったほどに、そしてルカ書10章の宣教の派遣に伴って書かれている「その家に泊まって、そこで出されるものを食べ」という宣教指針の元になっているほどに、ルカ書ならではの福音書文学の骨頂がここに顕になっているのである。故に私たちは、それが、どんな相手であっても、まずそこに主の平和を祈り、食事を共にするほどに緊密になるという実存が迫られているのである。それこそが、復活のイエスの実現なのだ。
by qpqp1999 | 2013-04-16 18:43 | キリスト教