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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

四旬節第二主日礼拝説教 ルカ福音書18章31-43節

四旬節第二主日礼拝説教 ルカ福音書18章31-43節
 見て見ぬふりをする人は決して他人事ではなくて、世界中の多くのキリスト教の人がこの状態におちいてっている。私は、メイジャーなキリスト教会系の宣教活動を見るにつけ、どこの、誰とは言わないけれど、大切な部分を見て見ぬふりをして、ひたすらに「福音」というものを広げているように感じる。そのように感じるのは私がセクシュアルマイノリティーであるからであろう。実際に差別されてみなければ、差別されるとはどういう事か理解はできないものだからである。人を踏みつけにしておいて、いくら「福音」というものを述べ告げ広げたとしても、そこに何の意味なければ、価値も無い。単なる「贖罪」信仰や、単なる「悔い改め」など、実際に、そこに苦しみが伴わなければ、ただの綺麗ごとに過ぎない物であり、そのような物は本来あるべき「福音」とは全く違うものである。
 実は今日の個所の次になるのが、有名な「取税人ザアカイ」の物語でありルカならではの特殊伝承だ。その間にルカ書では巧みにマルコ書を引用し、ルカの手による「使徒言行録」とを視野に入れた、構成をなしている。そこが、見逃せない今日の個所なのである。
 先ずは第三回目の受難予告がなされる。マルコ書に確かに従っているが省略したり、付け加えたりしている部分が目立つ。注目すべきはエルサレムに対抗するナザレのイエスの集団の中にある、保守勢力に対する恐れが省略されている。そしてユダヤ教サンヘドリンの公的裁判も省略されている。これは極めて意図的なものである。ルカ書にとって大切なのは「見」るという事であり、弟子たちにはこれらが「見」えなかったのである。また、追加されているのは「乱暴な仕打ちを受け」ということであり、また「預言者が書いたことはみな成就」するである。この「乱暴な仕打ち」はやがて、復活後の弟子たちが「使徒言行録」で体験することになる。とりわけルカ書にとってはδιήνοιξενディアノーセン「心の目が見えるようになる」が重要なキーワードになっているだけに、ここで「言葉の意味が隠されていて」はまだ、弟子たちの目が本当に見えてはいない状態にあったことを指す。
 人間の対応する情報はおよそ8割が視力に頼っていると言われる。実際、目を閉じて、行動しようものなら、とたんに、あちこちにぶつかって、大変なことになる。恐ろしくて道を歩くこともできない。ルカ書はそういう「見」える。という信仰において尤も大事な事を、改めてここで強調するのである身体的に見えるではなく、信仰で「見える」である。
 そこで、共観福音書に共通の物語が登場する。やってくるナザレのイエスに対する、物乞いを強いられていた目の見えない人の物語である。マルコ書では、この目の見えない人の名を「バルティマイ」として出しているが。ルカ書では、より、相対化するために、あえてこの名前を省略している。つまり、これは単に、目の見えない人が見えるようになるという奇跡物語ではなく、肉体的には見えている人の見て見ぬふりしている状態に対する半キリスト教的な態度に対するアンチテーゼなのである。見えていながら、見えていない、そういうキリスト者が、実はいかに多いことか。この目の見えない人は見るようになり、十字架のイエス・キリストに従って行ったのだ。賛美しながら、それこそが、まさにイエスにあって痛みをあらゆる人と連帯するということなのである。特に、紀元3世紀に保守的勢力になり、現在では世界で最大の人口を誇るキリスト教徒が、いかに見えていないかということをルカ書は鋭く追及しているのである。
 保守的なキリスト教徒は言うであろう。「同性愛者」など見たくもなければ、接したくもないと、また「性同一性障碍」の人に対して、その「女装」に対して、ものすごい嫌悪感を抱くであろう。そういう事態こそが、結局のところ、差別の糸口を探り出し、結果的にはより多くの被差別者を踏みつけにすることになるのである。いくら礼拝に毎週出席しようと十分の一を献金しようと、そのような事は、絶対的な教会組織に対する従順でしかなく、実際に社会から踏みつけにされている人との主イエスにあっての連帯とは程遠い。
 ルカはあえて名前を出さず、一般化、即ち、この個所を読む人それぞれの立場におきかえて「ある盲人が道端に座って物乞いをしていた」と書いたのである。これは、実際に目の見えない人を指しているのではなく、信仰の目で見ることができない、あるいは見て見ぬふりをしているキリスト者に対して鋭く迫る聖句なのである。イエスの一行が彼に近づくと、彼は「一体何事ですか」と問う。すると「ナザレのイエスのお通りだ」と返される。この部分はとても重要である。Ἰησοῦς ὁ Ναζωραῖος παρέρχεται.イエスース オ ナザレオス パレーセタイは単なる「お通り」ではなく「通り過ぎる」という神顕現の言葉である。またナザレーオスは使徒言行録で人を救うイエスを示すのに使われているのである。また、「ダビデの子」はまさにその子ソロモン王が様々な奇跡行為を行ったという伝説を踏襲しているものである。しかし、ここで肝心なのは奇跡行為ではない。見えるようになるというのは、どういうことかをルカ書は改めてその固有の神学において展開していくのである。
彼はそれに屈することはなかった、叫び続けたのだ。ἐλέησόνエゲソーンは「憐れんで下さい」は保守的に過ぎる、「苦しみに寄り添ってくれ」という意味である。もっと完結に言うなら「解ってくれ」という意味である。人々や社会に踏みつけにされている人の苦しみに、はるか高みにいる神が寄り添ってくれるのかどうかという事がこの個所でより強調されている。人々は確かに、それを退けようとした、しかし、神は、主は、ナザレのイエスはそうではなかった。「イエスは立ち止まった」のだった。ここで、称号が「ダビデの子」から「主」に変わる。今や、この人は全能の主の前に立っているのだ。そういった自覚はキリスト者は皆持つべきである。つまり、全能の主イエスの前に、一切の差別は無く、人と人の境目は無くなってしまうのだ。その目の前にいる人が「同性愛者」であろうと「性同一性障碍」であろうと「肌の色が何色であろうと」「国籍が何であろうと」それら一切の垣根は取り払われることになるのである。それが「見える」ようになるということである。この点無しにこの物語は語れぬ。
 「何をしてほしいのか」というイエスに対し盲人の言葉は簡素だ「見えるようになりたいのです」である。これは、全人類を代表しての言葉であることを肝に命じるべきである。
イエスの言われた言葉はἀνέβλεψενアネブラープセンであり「見えるようになれ」では断じてない。「見ろ」である。ここにルカ書の真髄が現れる、一見治癒奇跡に見えるが、弟子たちに見えなかったものが、この人には見ることができるようになったのである。
by qpqp1999 | 2013-02-24 14:12 | キリスト教