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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

復活祭主日礼拝説教 ヨハネ福音書20章1-18節

復活祭主日礼拝説教 ヨハネ福音書20章1-18節
 今や、政界人口の四分の一であるキリスト教徒人口である。日本では完全なマイノリティーであるが、世界規模では保守である。しかし、保守勢力は実際のところキリスト教の本質を見失ってしまい、単なる新興宗教になり下がっているのは実態である。それは米国のジョージ・ブッシュのやったことを見ればすぐにわかる。洗礼を受けて、毎週、欠かさずに礼拝出席するけれども、アメリカに何等の手出ししなかったイラクに爆撃を加え、また多くの兵を出して殺戮の限りを尽くした人だ。それがキリスト教であるばすがない。
 キリスト教は徹頭徹尾、反保守であった。聖書を読めるならそんなことは簡単にわかるはずだ。その骨頂が主イエス・キリストの十字架の処刑と復活という出来事である。十字架の処刑ですら、どうしてガリラヤの「身分の低い」「教養」もないアラマイク語しか話せない成年を十字架刑にしたのかミステリーである。よほどの政治的活動家であったり、教養のある人であるならわかるがイエス・キリストはそうではなかった。「石打ち」で処刑すれば済んだものをどうして、反ローマ犯の十字架処刑にまで至ったのか、現在も謎だ。
 更に謎なのは安息日の改定である。本来、安息日は土曜日であり、日曜は「週の初めの日」である。日曜日は休みだと思っている人は多いが、日曜は本来、私たちの月曜にあたる日である。イエス・キリストが復活したのがその日曜だったので、キリスト教とは以来、日曜を聖日として守るに改変したのだ。安息日を改変するというのは、到底考えられないことなので、この点においても、イエス・キリストの復活の出来事の信憑性が問われる。
 イエス・キリストは所詮、田舎者の身分の低い無学歴な青年に過ぎなかった。そこに従った最初の弟子たちも同様であった。多くの者は賤業を生業とする者であった。イエス・キリストご自身も所謂「大工」ではなく、大工が使う石のブロックを作る日雇い労働者であった。ところが、この青年がユダヤ教保守層を危機に追いつめたのは、十字架の処刑という歴史的事実が見事に立証している。ともすればローマ帝国にとっても危機であった。
 この十字架の処刑死は歴史に残る事実である。意外に思うかもしれないが、イエスの直弟子たちも、この十字架の処刑に対して、散り散りばらばらになって、逃げ隠れてしまった。当時、人権すら無かった婦人たちのみが、それでも安息日たる土曜日を終えてからイエスの墓に赴いていることは全ての福音書で一致しているところである。
 今日、与えられるヨハネ福音書では女性たちではなく「マグダラのマリア」だけが墓に赴いている。全ての福音書で一致しているのは、「空の墓」である。およそ100年にわたって書かれ、写本された福音書が、どういうわけか、この復活の一点においては極めて正確に一致しているのだ。しかも、イエスがおもむろに復活したというのではなく、墓に行ってみたら墓が空だったということだ。しかし、それだけでも相当なインパクトがあったらしく最古の福音書マルコ書では、目撃した婦人たちは恐れて、誰にも言わなかったことにすらなっている。マタイ書ではイエスの遺体を盗みとろうとする弟子たちに対抗すべく番兵を派遣しているほどである。おそらく史実ではそんな勇気は弟子たちに無かった。
 十字架の処刑は極めて残虐なもので。鉄制の爪のついた鞭で体を引き裂かれ、数キロの道を数十キロの重さの十字架を担いで歩かされる。そして、手首と足首を太い釘で打ち抜かれて、衰弱死するものだ。弟子たちは逃げ隠れていた。婦人たちは遠巻きに見ていた。そして、今日の復活の出来事である。マグダラのマリアがイエスの墓に安息日が明けてすぐ赴く。すると空だった。二人の弟子はこれを聴いて墓に駆けつける、そして一人の弟子は「信じ」た。厳密に訳すとἐπίστευσεν•エピストゥーセン「信頼する」である。しかし、実際に主に出会ってすらも「信頼」できないのが私たちの現状である。マグダラのマリアはその後、再度、墓に赴いて、「墓の外に立って泣いていた」のである。やがて天使と遭遇することになるが、これは神話の段階である。もともとユダヤ教には「天使」という概念が無かったが、ヘレニズムの影響でそれが用いられることになった。しかし、それでも彼女は認めない、「私の主が取り去られました」と二回目の同じ言葉を言う。普通、天使が現れたら信じそうなものだが、それは福音書であるから、お時話のようにはいかない。マリアは執拗にイエスの遺体の行方を追い求める。すると、ついに復活のイエス・キリストが顕れでマリアに語りかける。「何故泣いているのか」と。マリアは三度目の言葉を言う「あなたがあの方を運び去った」のかと。目の前にイエスを確認しながらそれが確認できないというのは読む側にとっては理解に苦しむが、ここがポイントである。「園庭だと思って」と書いてあるが、これは植木屋さんのことを指してはいない。ユダヤ教においては遺体は汚れたものであり、それに触れることは慎まれていた。そこで、遺族に代わって、その遺体を取り扱うのが「園庭」κηπουρόςケープロスの仕事であった。言わば、賤業の職業である。そういう人にしかマグダラのマリアには見えなかったのだ。それこそが、復活のイエス・キリストだった。一般的に罪人とみなされる姿で、復活の姿を現わされたそれが主イエス・キリストだったのだ。復活の最も重要な点はここにある。今、この世の中で、この社会で、虐げられている、力に怯えている、小さき存在の側にたってイエス・キリストは復活されたのだということだ。つまり、キリスト教において、イエス・キリストの復活とは、今の世界、社会において、弱い存在である人々にとって、最も信頼されまた、実際にその実力を行使される存在たる神の業に信頼して歩みを起こすことであるのだ。そこに、あるのは強い者の側に立たず、弱い者、力なき者の側に立つ、絶対的真理である。
 マグダラのマリアが最初、復活のイエス・キリストを理解できなかったのは、復活の主イエス・キリストが生前のように力ある方のように思いこんでいたからである。しかし、実際の復活のイエス・キリストは世の底辺のそのまた最底辺に生きる人として、復活されたのであり、事実、遺体を取り扱う、汚れた存在としてマグダラのマリアの前にその復活の姿を現わされたのだった、。
 そして、キリスト教が異端宗教から人類の保守勢力に変わったのは、まさに、この信じられないような復活の出来事が実現したからである。今や、世界でイエス・キリストは復活しなかったと言えば、かえって弾圧を受けるような世の中になってしまっている。しかし、復活のイエス・キリストはそれをよしとはしない。むしろ、管理と抑圧に苦しみ、それに対抗する者を真に勝利者たらしめるために復活の出来事を示して下さったのだから。
by qpqp1999 | 2012-04-08 16:39 | キリスト教