人気ブログランキング | 話題のタグを見る

牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

聖霊降臨後最終主日礼拝説教 マタイ福音書25章31-46節

聖霊降臨後最終主日礼拝説教 マタイ福音書25章31-46節
 私は、殊更に宗教史を勉強した者でないから、こうきりだすのは今一つ不安ではあるが、私が知っているかぎり、神という存在と人という存在を愛と言う真理に基づいて、最も近づけたのは、その距離を限りなく近づけたのは歴史上の人物、イエス・キリストであろう。
 私が思うに、三世紀にわたって過酷な迫害と差別を受けたのにも関わらず、ふたを開けてみたら、三世紀にはキリスト教人口がたくさんになっていて、最初にキリスト教を公認宗教と定めた三世紀のローマ帝国皇帝コンスタンティヌスはすでにキリスト教が異端問題をかかえて混乱していることを初めて知って頭を抱えることにすらなっていたのであった。
 実際キリスト教教徒の人口は世界人口の四分の一である、地球上で最も信者数の多い宗教である。尤も日本ではまだまだマイノリティーであるし、少し前に松阪市殿町のカトリック教会において、ジャック・オヘール神父様と話した時の彼の言葉が忘れられない。「今、松阪市には海外からの労働者でカトリック教徒は2000人いるはずです。しかし、礼拝出席者は40人です。残りの1960人はどこへ行きましたか?」である。私が思うにこのカトリック教会の悩める現実は現代日本の仏教の悩める現実と類似しているということである。たとえば、般若信教なんかは、邦訳してみるととてもすごい哲学的にいいことを言っているし、ルター派の司祭たる私からしても魅力的なものである。しかし、実際には現代の日本においては呪文の一種になり下がり、せいぜい写経の課題ですらしかなくなってる。世界規模においてはキリスト教も似たような問題を抱えている。それは、生まれたらもうキリスト教徒みたいになっていて、圧倒的多数の保守勢力になっていることである。それに伴う弊害はぬぐい去ることができず、いまもキリスト教に対して主ご自身が問題を掲げておられるとすら感じる。私自身がセクシャルマイノリティーであること自体、キリスト教保守勢力からは疎んじられ続けているものである。
 そういった現代の背景を考えると今日のマタイ書独自の福音書個所はまさに聖霊降臨後最終主日にぴったりな個所であろう。共観福音書に並行記事はない。また新共同訳聖書ではこの個所を「すべての民族を裁く」という恐ろしい題がついている。わたしの勤める新生ルーテル教会の運営するデイサービスセンターで介護員が「どうしてキリスト教はこんなに広まったんですか?」という問いを受けた。私はすかさずに「それはキリスト教がイエス・キリストにより、愛という真理に基づいて神と人との距離を限りなく近づけたからではないでしょうか」と言って、キリスト教史をその後30分にわたって述べたが、彼女は退屈せずに、むしろ楽しんで聴いてくれたものだ。
 今日の個所は二つの伝承をマタイがまとめている一つは「人の子は」「天使たちを皆従えて来る時その栄光の座につく」という黙示的伝承そしてもう一つは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのはわたしにしたことなのである」という伝承である。これらが違う伝承であることは最初は「人の子」だったのが次には「王」に変わっていることからはっきりわかる。
 現代の日本におけるキリスト教の布教のあり方には問題がある。多くの場合、キリスト教を信じないと地獄に行きますよというような、布教の仕方をしている場合が多い、またそのような脅迫観念は人を敏感に反応させ、それに応える人も少なくはないのも事実ではある。だが、それでは他の宗教と対して変わりない。尤も仏教は限りなく哲学なので、現代日本における極楽とか成仏といった概念は本来的には破綻しているものであるが、江戸時代からの風習で日本国民のほとんどがこの戒めに捕らわれてしまっている。とはいえ、ではキリスト教がそれに反論して、キリスト教でなければ天国に入れませんと主張するのも大人げないと思うようになった。確かに、主イエス・キリストの贖罪における罪の赦しと救いの恵みは尊ばれるべきものであり、キリスト教の主軸でもあるが、しかし、他の宗教にはないキリスト教独特の、神と人との距離の近さ、愛によって結ばれている救いの慈愛の深さを証しすることのほうが、より有益なのではないかと感じている。
 まず「羊と山羊」が分けられるという裁きの前半が描かれる。そして、その裁かれた理由が「天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは私が飢えているときに食べさせ、のどが渇いているときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸の時に着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてきたからだ」である。そして裁かれるのは、それらの時にして「くれなかった」という事に結論を得ている。
 「行為儀人」を幼稚に解釈してこのマタイ書の文脈を乱す説教者も少なくはないが、明らかにここでは、信仰というよりは、その「行為」が問題になっていることは間違いない。おどろくべきことに、ここで救われた者たちは「主よ、いつ私たちは」「したでしょうか」という戸惑いの言葉が強調されてることであり、裁かれた者たちが「いつ私たちは」「しなかったでしょうか」である。自覚していないのだ。もはや、ここにあるのはその人のあり方、それだけが追及されている。
 危機にある人を助けるか否か、もっと簡単な事例であっても人を助けるか否かがここで強く問われている。尤も、「私の兄弟であるこの最も小さい者」「にしたのは私にしてくれた」という文脈から紀元3世紀までの間、苦難の宣教を強いられていたキリスト教徒たちをマタイが指していることは踏まえておくべき点ではある。だが、キリスト教が保守勢力となった現代においては、少なくとも、11月下旬にはキリスト教徒でもないのに、クリスマス飾りをし、クリスマスプレゼントをしあうほどにまでなった、現代においては、まさに、この「父」に「してくれた」かどうかが問われることになるのである。
 「行為儀人」とこの個所の恵みの最大の差は、天国に入るために何かを行ったという自覚が全く無いことであり、地獄に行くことになった理由に全く自覚がないことである。つまり、聖霊降臨後最終主日、最後の審判の日に与えられた聖書個所は、私たちの生き方を、まるで実の父であるかのように、主が見定めておられるということである。
 最後の「裁き」は、そこにいる「最も小さい者」マタイ書の時代に言いかえるなら「キリスト教徒伝道者」。そして、あえて、現代でいうなら、保守勢力から弾圧を受けている、宗教を問わないあらゆる人々に、愛によって結ばれている主との関係において無自覚に「した」のか「しなかった」のかということであることを私たちは学ばされるのである。
by qpqp1999 | 2011-11-19 19:14 | キリスト教