人気ブログランキング | 話題のタグを見る

牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

キリスト教においては自殺は罪ではない3

10月26日の
続きを書きます。
すでに、アウグスティヌスの神学論文に関して
自殺を罪と定めるのは
神学的に破綻していることを書きましたが
それでも
そんな組織神学、歴史神学、聖書神学、等々の神学を
無視して
ほんとに意地はってるだけで
キリスト教において自殺を罪と定める
牧師や司祭がいるのは
残念なかぎりです
私にしてみれば、そんな人たちの言っていることは
大東亜戦争またの名、太平洋戦争で
自殺せざるを得なかった多くの民間人の
自殺すらも罪とさだめるものであることに
何故、気付かないのでしょうか。
サイパン島のバンザイクリフで自殺した民間人は
罪に定められるんですか?そんなこと
主イエス・キリストご自身が定めませんよ。
こういった宗教指導者たちはもっと聖書を勉強すべきです
Q資料と言われる福音書の伝承を読んだことがないのでしょうか
「人を罪人だと決めるな」ルカ書6章37節
あるいは第四福音書を読んだことが無いのでしょうか
「だれもあなたを罪に定めなかったのか」「わたしもあなたを罪に定めない」ヨハネ書8章10節
これは決して聖書の一部分だけを斬り出して書いたものではなく
ブログのために要約したもので、この問題だけで論文や本が軽く書けます。
「太平洋戦争」での本土戦たる沖縄で自殺した人たちが
罪に定められますか?そんなわけないでしょう。
自殺はどのような形態や背景があれ
自殺は自殺なのです
そこで、私が一番カチンときた
神学なんかほとんど持っていない
保守一辺倒なある牧師の論説を批判したいと思います
それは
「自殺は自分意外の全ての人を殺す行為だ」
というものです。
聖書的に一切の根拠が無いのはもちろんのこと
あらゆる神学的立場からもそんなことは持ち出せません
それどころかそれは
自殺で亡くなった人に対する冒涜であり
ルター派の司祭たる私からすれば
人の生死を司る主イエス・キリストに対する冒涜ですらあります。
人を殺すというのと自殺するというのは
まったく次元の違うものです
人を殺すというのは
自分が自分以外の誰かの生命活動を恣意的に停止させる
ということです。
ここで、大事なのは自分以外の、ということです。
自分で自分の生命活動を恣意的に停止させるのとは
全く違うものなのです。
きっとその牧師は
自分が死ねば、他の人の全部の存在を消すことになるから
とでも言いたいのでしょうが
そんなことはあり得ません。
どんなに自殺したって
他の人たちは生命活動を続けていきますし
その人生を歩んでいきます。
他の人たちの生命活動を自殺によって停止させるなど
到底不可能な話しです。
ましてやキリスト教で言う死後の世界があるのなら
ますます自殺で「自分以外の全ての人」の存在を消すことができなくなります。
ただ、このブログを読んで
勘違いしていただきたくないのは
私は
自殺はいいことだから
しても構わないと言っているのではないということです。
えらい売れたけど顰蹙も買って廃版になった
「完全自殺マニュアル」を読んだ時は
正直、怒りがよぎりました。
というのは、その本では
自殺を「人生の」「リセット」と評していたからです。
テレビゲームじゃないんです
自分を殺すことで「人生」を「リセット」できるわけありません。
そこにあるのは、人生の停止です。
宗教性を全く無しに言うなら
単に生命活動していた細胞体がその生命活動を恣意的に停止させ
土にかえる、それだけです。
しかし、一方で
私が思うに
自殺するということは
その自殺された方がよほど孤独で無いかぎりは
遺族や友人、もしかしたら恋人を
悲しませることになるということに触れないわけにはいかない
ということです。
もはや自殺が罪だのとかどうとかよりは
こちらの方がより現実的な問題かもしれません。
次回はこの問題について神学的に書きたいと思います。
by qpqp1999 | 2011-11-12 01:52 | 自殺