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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

聖霊降臨後第二主日礼拝説教 マタイ福音書9章9~13節

聖霊降臨後第二主日礼拝説教 マタイ福音書9章9~13節
 今年の聖霊降臨後のテキストはマタイ福音書が選ばれている。
マタイ福音書は新約聖書の最初に配置されていて、また今日の聖書個所に登場する徴税人マタイがイエスの弟子となっていることなどを根拠にマタイ福音書こそこのイエスの直弟子であるマタイが書いたものであると考えられていた時代もあったし、今日でもその節を曲げないキリスト教徒も少なくない。尤も、確かに、2世紀前半の「教会史」の中でパピアスというフリュギアのヒエラポリスという所の主教が「マタイはヘブライ語で言葉を記したが、各自はできるだけよくそれを解釈した」と書いており、そこに根拠を置くこともできる。しかし、現実にはこのマタイ福音書は非常に巧みなギリシャ語の語ろ合わせを用いており、尚且つ、どうみてもマルコ福音書を基にして書かれていることから、これは初めからギリシャ語で書かれた書物であり、またマルコ書以降の福音書であることは間違いないので、この記者マタイがイエスの直弟子であって、福音書を記したとはとうてい考えることはできないものである。考えられるのは、このマタイ福音書記者はイエスの直弟子でもなければ、イエスと同時代の人でもなく、成立年代はマルコ書以降でQ資料を用いていることなどから紀元後70年頃に書かれたものであることが考えられる。
 今日の個所でも濃厚であるがマタイ福音書の特徴としてイエス・キリストの言葉や行動が旧約聖書の成就であるという神学と、イエス・キリストの到来後も律法の妥当性は否定されないということが挙げられる。
 そこで問題となるのが、徴税人たるマタイとの交流が律法に違反しないものではないかという議論になってくるし、またマタイもあえてこの問題に取り組んでいるのである。史実のイエス・キリストを知らない福音書記者ではあるものの、この徴税人との交流についてはマルコ書に基があり、ルカもまたこれを用いていることを考えると、確かに福音書記者マタイは史実のイエス・キリストを知らなかったかもしれないが、イエス・キリストが進んで徴税人たちと交流していたことは史実に遡ると考えられる。十字架で処刑されるほど、ユダヤ教最高法院やファリサイ派の人々にイエス・キリストが嫌われていたことからも、この史実性はいよいよ高められるものである。
 徴税人は二重の意味で忌み嫌われていた。まずは彼らのやり口の悪質さにあった。彼らはローマ帝国への税金を徴収する役目をしていたが、その実態は、まず彼らが定められた税金を前払いの入札で購入し、それに利ざやをのせてユダヤ人から税金を徴収するというものであった。であるから、その利ざやが彼らの生活を支えていたのであり、徴集しそこなったら最後、自分が損害を受けるというものであったから、彼らの徴税はせっぱつまった状況の中で行われていた。もちろん、徴集される側のユダヤ人もその仕組みを知っていたから、本来の正当な税金よりも多く徴税されることに腹を立てない人がいないわけがなかった。更に、ユダヤ教の宗教的価値観からも徴税人は罪人として見なされていた。当時ユダヤの地はローマ帝国によって支配されていたが、ユダヤ教は健在であったので、多神教のローマ帝国はユダヤ人から見れば、邪教の類であり、その邪教の僕として働く徴税人は反ユダヤ教として汚れた存在として見なされてもいた。とにかく、罪人と定められた人の中でもとりわけ厳しい立場におかれていたのであった。
 9節でマタイが「収税所に座っているのを見かけて『私に従いなさい』」というところからエピソードははじまる。基のマルコ書、また同時代に記されたルカ書でも招かれる徴税人は「レビ」である。しかし、マタイ書だけがこの名を「マタイ」としている。また10章の12使徒のリストの中にこの徴税人マタイが入っていることも見逃せない。何故、マタイという名前にこだわることになったのかは神学的には答えることの困難なものである。むしろ、読む側の解釈にゆだねられる所が大きいのではないだろうか。そこで大事なのは、記者マタイとこの徴税人マタイが同一人物とみなすことをやめるということである。そうすることによって、このマタイという名にこだわる記者マタイの意図をより正しく解釈することができるからである。私が思うに、マタイはこの忌まわしき徴税人たる人物を、この個所を読む人それぞれにあてはめて考えることを想定しているのではないかと思う。そこで記者マタイはわざわざ、自分の名をこの徴税人にあてはめたのではないだろうか。私たちは、主の前に確かに忌まわしい汚れた存在なのであることを改めて確認するべきことの大切さを主張しているのではないだろうか。
 この汚れた存在とイエス・キリストは食事を共にされる。これが、ファリサイ派の人々の反発を招く。ユダヤ教にとって食事は神聖なもので、食事を共にするということは礼拝にも等しいものであったから、汚れた者と共に食事をするというのは完全に律法違反であった。ここが大切で律法を重んじるマタイがわざわざ、この反律法的な行動を福音として取り入れ記述していることであり、また、この反律法的な汚れた人が12使徒の中に入っているところである。共観福音書で同じ記述があるのに対してマタイだけ傑出している点がある。それは、マタイ福音書ならではの旧約の成就である。「わたした来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」という言葉はマルコ書にもルカ書にもあるが、「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か行って学びなさい」とイエスは律法のエキスパートであるファリサイ派の人々に対して、律法的に更に上位から教えを語られる部分はマタイ書ならではの編集句である。
 このマタイの引用句は旧約聖書ホセア書6章6節からの引用である。律法を重んずるマタイにとって、罪人の救済はイエス・キリストによって成就する律法そのものであって、けっして律法を厳主することに救いを求めるファリサイ派の律法の解釈とは違うものであることがここに明らかになるのであり、これがマタイ書に特有のイエス・キリストの到来においても尚、律法は健在であるという神学であり、福音なのである。
 この汚れた者として忌み嫌われ、実際に罪を繰り返すマタイは、私たちの姿そのものであろう。私はここにあえて記者マタイがその名をここに用いた理由として提案するものである。そしてマタイの主張する律法とは、あくまでも旧約聖書の成就たるイエス・キリストによって起こった救いの恵みの中で初めて本来の意味を発揮するものである。それ故に私たちは、主の「憐れみ」の中に救いと律法の両方を見出す恵みに与かれるのである。
by qpqp1999 | 2011-06-26 14:44 | キリスト教