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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

四旬節第5主日礼拝説教 ヨハネ福音書11章17-53節

四旬節第5主日礼拝説教 ヨハネ福音書11章17-53節
 ラザロが死から生き返る、というヨハネ福音書にしかみられないエピソードである。死者を生き返らせる奇跡は他の福音書にもみられるが、このラザロの死から生き返るというイエス・キリストの奇跡は、非情に濃厚に描かれており、記述の分量も、また微密な描写からもわかるようにヨハネ福音書の大きな骨子を担う役割を持っている。
 ラザロが生き返ったとしても、その後また死んでしまったということは、この記者ヨハネが一番よく知っていることである。ヨハネ福音書の成立はおそらく紀元1世紀近くだから、当然、ラザロが生きているはずもなく、マルタもおそらく殉教の死を遂げたのではないかと言われている時代である。つまり、単なる死人の生き返りということは、基本的にあまり意味の無いことであり、ヨハネ福音書はこの死者の生き返りの記述を通して、私たちにまさに福音を告げようとしているのである。
 では、その福音とは何かという問題に取り組まなければならない。東日本大震災で日本は、特に被災した人たちは、非情な困難の中におかれている。日本といういわゆる先進国ですら、最初の救援が現地に入れたのは震災から10日もたってからであり、今も尚、件名の救助活動が続き、また被災した人たちの苦しい生活は、極めて深刻な現状である。そこに追い打ちをかけるように原子力発電所の事故と、放射能の深刻な事態は世界規模で懸念されていて、いったいいつまでかかるかわからないくらいの悲壮さである。あれだけ、日本の原子力発電所は安全ですと言われていたのに、やはり、当初、原子力発電所の建築に反対していた人たちの言っていた通りになってしまった。
 そのような状況の中にあって、今日の聖書個所がどれだけのメッセージを伝えることができるのか。絶望的な死という問題に対峙して、それを簡単に生き返らせるという奇跡を起こしたイエス・キリストのことをどれだけ熱く語っても、無残な死を体験した人たちにとっては、むしろ腹立たしいものにすらなるのではないかと思ってしまう。
 実を言うと、本来ユダヤ教、特にモーセ5書を読むとよくわかるのだが、基本的に来世、死後の世界というものや、終末の復活という概念はどこにもみいだせないのである。イスラエル王国が滅亡し捕囚の時代にゾロアスター教等の影響を受けながら、次第にファリサイ派のような来世という概念が生じてきたのは歴史の証明するところである。実際、ユダヤ教でもサドカイ派の人々は来世や終末の蘇りは否定していた。キリスト教においても、当初はどのような宗教概念を持っていたかは議論されているところであるし、最古のキリスト教の文書はイエス・キリストに会ったことも話したこともないパウロの手紙であり、福音書はそれより何十年も後になって書かれたものであることは、キリスト教徒でも意外に知られていない。キリスト教に来世観や終末の復活、罪の贖罪の宗教的概念を構築したのはパウロであって、それが史実のイエス・キリストに遡るのか、またパウロの言うようにイエス・キリストの十字架の処刑が、罪の贖罪としての主の業であったかどうかというのでさえ史実を追い求めるなら、かなりハードルの高い次元に至ってしまうであろう。実際、無教会派の人たちは史実のイエスを追い求めていてイエス・キリストを追い求めているのではないと、あるセミナーで私の質問に答えて下さったものだ。
 記者ヨハネがルカ福音書をしっていたかどうかは不明だが、このエピソードにおいてはマルタとマリアの立ち振る舞いが、非情にルカの描写するマルタとマリアに近いことには驚かされる。これだけ時代も場所も離れていて、これだけ一致するのだから、史実においてもマルタとマリアはこのよな感じだったのかもしれない。積極的に行動するマルタがまず最初にイエスの所に来る。しかし、実はマルタが行ったのではなく、イエスが来られたという方が正しい。11章の前半を読めばわかるが、この時点でイエスはユダヤ教の最高法院サンヘドリンから敵視されていて、ユダヤに入るのは命がけのことであった。「主に香料油をぬり髪でぬぐったのは女」はまさにマリアであったことが記されており、そしてその弟ラザロが病気に苦しんでいる様子がイエス・キリストに伝わってきたくだりが描かれ、イエス・キリストはラザロのために「もう一度ユダヤに行こう」と言われたのだった、しかし、このじてんで「二日」が経過していた。そして、イエスがベタニアに入られるとすごにマルタが来てラザロの死を確定的なものとして、訴えたのだった。ここで、大切なのはこのラザロの生き返りは、イエス・キリストの受難と深く結びついていて、ヨハネはそのためにこの絵ピソードに力筆しているのである。イエス・キリストは十字架につくためにユダヤに来られ、そしてその最初の徴としてラザロを生き返らせたのである。このラザロの生き返りは仮死状態からの蘇生でないことは「四日もたっていますから、もうにおいます」と非情に濃厚な描写をしていることからはっきりわかる。ここでイエスは「涙を流された」とある。実はこれはとても大事な部分で、主なるイエス・キリストはそれがどんな哀れで罪深い者であったとしても、その人の立場にたって、その人の側にたって、共に泣いてくださる神、「主」なのであるさらに、その前には「興奮して」とある、つまりイエス・キリストの挑戦もここに含まれているのである。この絶望的な状況に際した者に対して「わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも決して死ぬこときない」というヨハネ神学の骨頂がここに顕になる。すなわち、人の生理学的な死を問題にしているのではなく、そこに人が人として存在している状態に対して、そこにそれだけの主からの尊厳が与えられており、それは死という絶望的な状態に際しても決して損なわれることがないという信仰なのである。いわば、来世を信じるかではなく、この人の主が賜った主の愛する人の尊厳がここに示されているのであり、それを肯定するか、否定するかということが迫られているのである。それが「このことを信じるか」という一言に集約されてくるのである。ラザロの生き返りの描写は、全ての福音書の中で最もシュールと感じる。「におう」状態なのに墓は洞窟で大きな石でふたをしてある。「その石をとりのけなさい」とのイエス・キリストの言葉はむしろ敢然としている。そしてイエス・キリストが祈るのである。これこそが最も重要なことではないだろうか、「祈り」は単なる妄想ではなく、活ける主との交わりであり、「願う」ならばそれはそうなると信じていいのである。かくして、ラザロは生き返り、このことがイエスキリストを殺そうとサンヘドリンに決心させたのであった。まさに十字架の贖罪という生き返りが起こるその地点なのである。
by qpqp1999 | 2011-04-10 20:06 | キリスト教