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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

待降節第3主日礼拝説教 マタイ福音書1章18-23節

待降節第3主日礼拝説教 マタイ福音書1章18-23節
 私は牧師家庭で生まれ育った。教会学校を行っている教会ならば、たいていはこの時期、イエス・キリストの生まれた次第を綴る降誕劇の練習に入っている頃だ。欧米、キリスト教圏ではこの降誕劇はほとんど季節の定められた行事にすらなっていて、誰がマリア役に抜擢されるのか、またあるいは誰がセリフの無い羊の役になるのか、かなり微妙な心理をとりほぐす役目が教会学校のリーダーに課せられるものだ。
 もちろん、私自身も降誕劇に出たことはある。当時小学3年生の時、9歳になったばかりの私は、普通の降誕劇にはうんざりしていて、普通の降誕劇ではめったに演じられることのないヘロデ大王の小児大虐殺のシーンを入れ、私自身、自らヘロデ大王の役を喜んでやっていたのだった。
 実は私の極個人的な感情としては、あの歯が浮くような降誕劇はあまり好きではない。幸いにして、新生ルーテル教会では現在、教会学校が無いからしないで済むのだが、そもそも降誕劇ほど聖書理解から人々を遠のけるものはないと考えている。というのは、通常の降誕劇では受胎告知に始まって、ベツレヘムへの旅、馬小屋での出産、羊飼いと、占星術の学者たちの訪問によってしめくくられるものである。おそらく、そのうよな事は、福音書記者たちにとってみてすれば、できれば辞めてもらいたいものであろう。このイエス・キリストの誕生の次第を描いているのは4つある福音書のうち2つだけ、マタイ福音書、ルカ福音書だけである。しかし、互いにその誕生の次第は異なっていることに気付いていないキリスト教徒も少なくはないであろう。ルカではアウグストゥスの人口調査命令によってナザレのマリアがベツレヘムに行くことになっているのに対して、マタイ福音書でははじめからマリアはベツレヘムに住んでいて、ヘロデ大王の虐殺を逃れてエジプトに行き、その結果ナザレに定住することになったとしている。また、ルカ福音書ではマリアの受胎告知が濃厚に語られ、ヨセフはほとんどおまけ程度に一回しか名前が出てこないし、もちろんセリフも無い、どうしてマリアの妊娠をヨセフが黙認したのか全く書かれていないのが特徴でもある。反対にマタイ書ではヨセフが基本的な役をしていてマリアが逆にセリフの一つもないまま終わっているのである。
 そこで今日の聖書個所であるが、この伝承は本来、ヨセフが主人公であり、いわばイエス・キリストの誕生物語においてヨセフの役割の大きさを描いたものであったと考えられるが、マタイはこの伝承をキリスト論に置き換えて編集しマタイ自身の福音書にしてある。
 それにしても、ヨセフの寡黙ぶりは非常に印象的と言えるだろう。当時のユダヤは一般に早婚であって男は18歳、女は12歳から13歳が適齢期とされていた。現代の私たちからすればあまりにも早すぎるものではあるが、歴史的な実情がそうである以上、マリアは少なくとも14歳頃には結婚をしていたのである。
 このユダヤの婚礼の状況について詳しく語られたもの書かれたものは少ないので、知っている人は少ないのだが、実を言うと、婚礼はその1年前からはじまるのが習慣であった。つまり、ヨセフが18歳マリアが14歳くらいに設定するとするなら、その時点で結婚の儀式が行われたことになる。ここで、意外なのは、この婚約、時事上の結婚において、婚礼の儀式から1年間は子供を作る行動をしてはならないというのが決まりであった。つまり婚礼から1年間は性交渉することは認められていなかったのである。ところが、その1年の間にマリアのお腹がどんどん大きくなり妊娠していることが発覚してしまうのであった。ヨセフを悪く言うまいとして「ひそかに縁をきろうとした」ということで、マリアを救おうとしたと説く説教者も多いが、現実にはそんなことはなく、ヨセフは律法に基づいて自らの立場を守らんとして「ひそかに」だったのである。というのは、ヨセフがいくら密かに離縁したとしても、マリアの懐妊は動かしようのない事実だったし、そうなれば、マリアは結婚もしていないのに誰かと関係をもったことになり、律法の定める掟にしたがって石で打ち殺されてしまうのは明明白白だったことは見逃してはならない。それほど、律法において特に姦淫に関しては女性に厳しく設定されていたのである。
 では性交渉無しに子供が生まれることがあり得るのかという問題に真正面から取り組む必要がある。イエス・キリストだから乙女から生まれて当たり前というのではあまりにも粗雑ではないだろうか。聖書神学の場にあっては、この処女降誕は当時そんなに珍しいものではなかったことは理解しておいた方がよい。処女から生まれた最大の歴史的人物は勿論イエス・キリストだが、その当時ではたとえばアウグストゥス、すなわちガイウス・カエサル・オクタビアヌスも処女から生まれたことになっているし、そんなことを言い出したらプラトンもピタゴラスもアレクサンダーもみんな処女から生まれているのだ。であるから処女懐胎ということについてあれこれ掘り下げるのは、あまり適当なものではない。むしろ、わたしたちは、この「イエス・キリストのの誕生の次第」において、いかなる恵みがあるかということに信仰の耳を傾けるべきであろう。
 この個所でのキーワードは「その名はインマヌエルと呼ばれる」この名は「神は我々と共におられるという意味である」である。人と人との繋がりほどもろいものは無い。簡単な噂話や中傷、密かに行われる秘密会議による自己正当化等、私たちの社会は片方では「愛だの平和」だのと綺麗ごとをならべておきながら、実のところその正反対に向かって行動している自分自身にどれだけの人が気づいているだろうか。ともすれば、それが親子、兄弟であってもそのような問題は続々と起こってくるのだ。
 そこで今日の個所で尤もマタイ福音書の構成の巧みなことにうならざるを得ない。マタイは、主イエス・キリストの復活の場において最後のクライマックスで弟子との今生の別れにおいて「見よ、私はいつもあなたがたと共にいるのである」と宣言なされた、その大前提としてこの処女懐胎が述べられているのである。「神は我々と共におられる」のである。
 人は基本的に孤独である。どんなに親友がいようと家族がいようと、それらがカチンと自分の考えている方向に乗じてくれるものではない。ともすれば、反発を受け、自分の思ってもいないところから精神的な打撃を受けるものだ。人というのは、あまりにもそこまでな存在でしかないのである。しかし主は違う。それぞれの立場、考え方に対して「共にいてくださる」のである。その訪れこそがクリスマスなのである。
by qpqp1999 | 2010-12-12 19:44 | キリスト教