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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

聖霊降臨後第21主日礼拝説教 ルカ福音書17章11-19節

聖霊降臨後第21主日礼拝説教 ルカ福音書17章11-19節
 「重い皮膚病を患っている十人の人を癒す」と題されたこの個所はルカによる福音書にのみみられる特殊伝承である。これはルカが意図して構成したエルサレムに上る上での、備忘録なのである。一つめは9章51節のサマリアの村人の拒否であり、二つ目は13章22節の終末に対する警戒であり、三つめが今日の個所となる。いずれも、エルサレム神殿主義からイエス・キリストに基づく救いの逆転を示している。
 差別の問題を改善するため新共同訳では「重い皮膚病」と記されているが、これはλεπροὶゲプロイでいわゆる「ハンセン氏病」である。現代日本ですら、未だ差別が続くこの病気は、いわんや起源0世紀にはまさしく「汚れた」病として差別され、非道に扱われていたのだった。
 この個所でまず議論が繰り返されているのが「サマリアとガリラヤの間」という地点がどこかということである。あまり実りの無い議論なので、深く考えることは、無いのだが
ここでルカが意図しているのは、イスラエルと異邦人の中間地点にあるということである。つまり、エルサレムに上るにあたり、ルカはここで異邦人の救いの問題を定義しているのである。尤も、今では万国の人々がイエス・キリストにあって救われるというのは常識ですらあるが、このルカ書の書かれた時代起源70年頃は決してそうではなかった。キリスト教がユダヤ教と袂を分かつのもこの点が一番大きいであろうし、当時としては異邦人の救いの問題はキリスト教教会において大きな問題だったのである。
 一番、問題をややこしくしているのは、当時のユダヤ教の状況にもあった。ルカ書が書かれた当時は、すでにエルサレム神殿は起源70年のローマ軍によって陥落させられ、廃墟になっていて、神殿主義たるユダヤ教はなりたたず、律法を守ることによって信仰と救いを保つという体制に移行していた。そんな、中にあって原始キリスト教は血統による救いの問題とどうしても対峙しないわけにはいかなかったのである。
 ただ、ここで注意したいのは決してこれは起源7世紀の問題ではなく、21世紀にさしかかろうとしている私たちにとっても重要な意味を持つということである。その意味は私たちの信仰の本質が問われているということに他ならない。このエピソードの顛末でイエス・キリストの言葉として「あなたの信仰があなたを救った」という一文で明らかになっているであろう。ここで、ルカが問題としているのは律法ではなく、信仰であるという点につきるのである。しかし、この信仰というものが、一体どういうものなのかという極めて微妙な問題に対して、今日の個所は取り組んでいるのである。
 イスラエルの民と異邦人の民が混合しているそのさ中、イエス・キリストのお通りだということで、「ハンセン氏病」の人々が必死になってイエス・キリストに願う。ここでは十人である。「で迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声をはりあげて」とあるが、いわゆる「ハンセン氏病」の人々は非常な差別にあっていて、いわば世の中から排除され、隔離されていたのである。それ故、その人々は一般の社会に近づくこともできなければ、関わることも禁じられていたのであった。まして、適当な治療法も無い中ではその人々は完全にその人格を損なわれ、社会から隔離されていたのであった。だが、今や、その人々にとって潜在知遇のチャンスが巡ってきたのだった。あらゆる病を癒すというイエス・キリストがそこを通るのではないか。「ハンセン氏病」によって苦しみ、差別され、社会から排除されているその人々は「イエス様、先生どうかわたしたちを憐れんでください」と「声を張り上げ」たのだった。
 ここで「イエスさま」はわかるが「先生」とはどういうことなのかと気になっていたので私訳を試みたところこの「先生」というのはἐπιστάταエビスタータで「司令官」とも訳することができるものであった。単なる「先生」ではなく「司令官」という意味があるのである。つまり、あらゆる権限を持つ者として、この「ハンセン氏病」の人々はイエス・キリストに期待、否、それ以上の信頼をもって臨んだのである。つまり、不可能を可能にし、できないことをできるようにしてくださる特別な存在として、その人々にとってイエス・キリストと遭遇できることは極めて貴重なことだったのである。
 はたして私たちはそれだけの緊張感を持って、主に対しているだろうか、イエス・キリストに対しているだろうか。いくら祈っても、それは叶えられず、結果として悲惨な事だけが残る現実の中で私たちは、主イエス・キリストにどれだけの信頼と信憑性を持っているだろうか。まずはここでルカはその点について追及してくる。私たちは、決して諦めてはいけないのだ。なぜならばそこに主イエス・キリストがおられるからである。そこに信仰の真価が問われてくるのだ。執拗に私たちは主イエス・キリストを信じるべきなのである。その時点で物事はがらりと変わってくるのである。「イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て《祭司たちのところに行って体を見せなさい》と言われた」のだった。ここに私たちの願いに対する万能の主イエス・キリストの現実的な奇跡性が強調される。この「見せなさい」は単に見せるという意味ではない「見せなさい」と訳されているἐπιδείξατεエピデーセテは「立証する」という意味がある。主イエス・キリストが支配されるこの次元にあってはそれを立証することが求められているのである。これが、現代を生きるクリスチャンの一つの証である。私たちは、その信仰生活の中で一体どれだけのことを主イエス・キリストにあって立証しているであろうか、私たちは立証することを主イエス・キリストから求められているのである。はたしてこの十人はその言葉の通り、祭司のところにいくのだが、そこにはすべての支配者である主イエス・キリストにおける奇跡の立証といウ証の役目が与えられていたのである。
 ここて゛賛美という訳が16節と18節にあるが、これは全く違う単語である。18節は確かに「賛美する」と訳せるものだが16節は違う。Δοξάζωνドグサーゾンは「賛美」というよりは「敬意を示す」と訳すのが適当な言葉である。十人の中で何人がイスラエルの民で何人が異邦人かはわからないが、この異邦人はエルサレム神殿に向かうよりも先に主イエス・キリストに敬意をはらわんとて戻ってきたのだった。まさに私たちの信仰のありようが問われている。私たちはどれだけ主イエス・キリストを支配者としてとらえているだろうか、そしてその奇跡の後にどれだけ証するだろうか。
by qpqp1999 | 2010-10-10 12:08 | キリスト教