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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

顕現日主日礼拝説教 マタイ福音書2章1-12節

顕現日主日礼拝説教 マタイ福音書2章1-12節
 教会学校のクリスマスのイベントに降誕劇がある。降誕劇はルカによる福音書とマタイによる福音書を合体させて演じられるものである。というのは受胎告知やベツレヘムへの旅や馬小屋での出産を思わせる「飼い葉桶」はルカ書にしか記されていない。降誕劇で人気の東方の三博士は今日の箇所マタイ書にしか記されていない。
 福音書は四つもあるのに、イエスの誕生のエピソードがルカとマタイだけであり、それぞれに全く違う内容になっていることは興味深い点である。マタイ書のこの「占星術の学者たち」はそれまでの1章で記されているヨセフに対する夢の告知の伝承とはまったく違う伝承である。さらにこの箇所は「占星術の学者」のエピソードと「ヘロデ王」のエピソードと本来は別々のものである。というのは「占星術の学者」は「星」によって導かれて来たのだから、わざわざ「ヘロデ王」のもとに行く必要がない。また「ヘロデ王」といえば第二のイスラエル王国、ハスモン王朝のもと、その宰相の子として生まれ、本来なら王にはなれないエドム人であったのに、策略知略を駆使してついに王座を勝ち取とった苦労人であった。また当時の大帝国であったローマ帝国と互角の立場を確保するため当時、帝国でオクタヴィアヌスとアントニウスが対立していた中、最初優勢だったアントニウスと関係を深め、エルサレム神殿にはアントニウス城という要塞を築いたほどである。ところが、ローマ帝国内の紛争はオクタヴィアヌスの勝利になった時にはすでにヘロデはオクタヴィアヌスとこれまた知略、策略を駆使してローマの盟友としてのイスラエルを保った大人物である。聖書では悪者として描かれているからヘロデを賞賛する人は皆無だし、実際ヘロデがその王座を保つため、どれだけ惨い事を行ったかを問うならば、やはり彼の功績よりもその悪行の方が歴史的に目立ってしまうのだった。
 降誕劇で「占星術の学者」が現れるところはよく演じられるけれどもヘロデの物語は無視されることが多いし、それが演じられているのを私は観たことがない。私が小学生の頃、喜んでこの悪役のヘロデ役をかってでて、礼拝堂で悪者ぶりを熱演したのを思い出す。
 史実として策士として有名な「ヘロデ王」が「占星術の学者」に尾行もつけずに「送りだし」ているのはおかしなことなので本来あった「ヘロデ王」の別々の伝承をマタイが組みあわせたとわかる。後述するが更にマタイは別の特殊な資料を用いてもいる。
 マタイは物語の整合性を壊してまでして描きたかったのは「幼子」の誕生に対して「ヘロデ王」はもとより「エルサレムの人々も皆」「不安をいだいた」ということである。「ヘロデ王」だけだったらわかるのだが、どうして「エルサレムの人々」が「同様」なのか、また、どうやって「占星術の学者」と「ヘロデ王」のやりとりが知れ渡ったのかまったくもって不自然である。それだけに、ここにマタイの神学が顕著に表れ、またそう強調したかったのであろうとわかる。
 先ず「占星術の学者」東方といえばペルシャしかないから、この人たちは、二元論的信仰をもち、炎の神アフラマズダーを拝礼するゾロアスター教の祭司ということになる。原典ではマギと書かれ、英語マジックの言語になったものである。そんな得体の知れない不気味な存在が突然現れて、「ユダヤ人の王」の誕生を知らせたのだから「ヘロデ」はそれは「不安を抱いた」のは当然である。
 「ヘロデは不安を抱いた、エルサレムの人々も」とあることは救い主たるイエスキリストの誕生はユダヤからは敵対視され、反対に異教の祭司が自分たちの神を砲っていてイエス・キリストに「ひれ伏す」この対比がマタイのいわんとするところである。しかもこの「不安を抱いた」は原典でエクセラクセイで「動揺する」という意味である。そして「お生まれになった」はゲネーセントスで「生じる」という意味である。つまりイエス・キリストの誕生はイスラエルだけにとどまらず、異邦のはるか彼方まで及ぶ歴史に主が生ける神としてイエス・キリストの誕生を起こしたということが示されている。
 今年も当教会はクリスマス・キャロリングを子供たちの奉仕を得て行った。もう半世紀にわたって行っているが一度も雨がふったことがない。ところが子供たちがみなあつまり、40人が4判に分かれてサープリスを着て蝋燭を持って外にでたら雨が降り出した。伴奏用の私のギターを見るとすでにびっしょり濡れ、雨水がしたたり落ちている。半世紀にわたって雨が降らなかったことの方が不自然だから、これは今年は行けないと中止をついに決断し、お楽しみ会にすることにした。しかし、せっかく子供たちも楽しみにしていたから、集合場所から徒歩30秒くらいのところで賛美しクリスマスの挨拶をした。そして集合場所にもどり人数確認のため並んでいたら雨が完全にあがった。ついさっきまで空を覆っていた雲はなくなり月がまぶしく星々がまたたいている。しかも、今年は寒かったがこの雨のおかげで暖かくなった。雨というつまづきは暖かくなるという恵みに転じたのである。「学者たちはその星をみて喜びにあふれた」というのはこういう心境なのではないかと思った。なにしろ、さっきまで見れなかった星が見えるようになったからである。星はかならず輝くことになることを主イエス・キリストの誕生は示しているのである。
 この「喜び」はエハレーサンで英訳するとリジョイスである。ヘンデルのメサイヤの中のイエス・キリスト降誕を賛美するあの「リジョイス」なのだ。「家にはいってみると」になっているから、ルカ書のようにローマ帝国の人口調査が原因でイエス・キリストはベツレヘムに生まれたのではなく、イエス・キリストはもともとベツレヘムであり、旧約聖書のミカ書の裏づけを得ていることをマタイは強調している。
 「幼子は母マリアと共におられた」とあり1章で主役だったヨセフはいなくなっているから、ここでマタイが「占星術の学者」の伝承をあれこれと操作した形跡が認められる。
そして、またヨセフ伝承にもどって「ヘロデ」の虐殺をのがれてエジプトに、それから尚危機を感じてナザレに移転するという図式が構築されているわけである。果たして史実がどうであったかはしるよしもないが、ナザレ出身として「ナザレ者」と言われた主イエス・キリストの誕生はあくまでベツレヘムであるというのがこの主張である。
 しかし、これは歴史の歪曲ではなく、私たちの生活に生まれる、生じる主イエス・キリストの救いの恵みが架空のものではなく、歴史に生じた、現実のものであるとの主張である。私たちはその主の恵みが生じる人生を歩む奇跡があたえられたのだ。
by qpqp1999 | 2010-01-03 22:01 | キリスト教