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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

聖霊降臨後第10主日礼拝説教 マルコ福音書6章6b~13節

聖霊降臨後第10主日礼拝説教 マルコ福音書6章6b~13節
 共観福音書の弟子の派遣のエピソードにおいて最もシンブルなマルコ書である。平行記事にあるルカ書とマタイ書ではQ資料と呼ばれている伝承の影響を受けて、弟子の宣教における決まりごとがより厳しく詳細になっている。しかし、マルコ書は発生年代がより古いのでこちらの方が史実ということに関しては近いといえるかもしれない。
 ナザレのイエスといえばユダヤ教において「ナザレ派」と呼ばれたほどにその出身地が明らかになっている。マタイ、ルカはなんとかしてイエスをベツレヘム生まれにしようと色々と脚色をし、ヨハネ書になるともう世の創造主として描かれている。そこにいくとマルコ書は特にその出生については描いていない。しかし6章において、イエス・キリストは故郷であるナザレに受け入れられなかったと強烈に描かれている。「ナザレ者」とすら揶揄されたイエス・キリストが故郷ではほぼ受け入れられず、わずかの奇跡しかなすことができなかったというのは、ある意味重要な部分であろう。というのは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」とイエス・キリストの言葉として表現されているし、実際に奇跡が起きなかったという結果を報じているからである。ここにマルコ書の神学の一片をみることができる。つまり、私たち自身と主イエス・キリストの関係が成り立ってはじめてそこに奇跡が起こるということである。キリスト教の神学においてよく言われるのは主からの一方的な恵みである。こちらは何もしなくても主の方から一方的に恵みを与えてくださるというものだ。ところがマルコ書の神学はその筋とはいささか違うようである。かなりの程度でコールアンドレスポンスがありうるということである。そこにあるのは被造物でありながらも主との関係において相当の自由意志が与えられているというまた、キリスト教神学の領域に連れ戻されるのだ。人が主の前に完全なものとして作られていれ罪も滅びもなかっであろうに、どういうわけか主は私たちに自由意志を与えたもうたのである。そして私たちは自身の自由意志によって主に対するという、いわばかなり高い地位を与えられていることになる。そこでナザレのイエスはナザレにおいてはほぼ疑われ、信じられなかった、マルコ書はこの現象について主イエス・キリストの反応として「驚かれた」とある。ギリシャ語ではプロスゲータイであり「驚愕する」という意味も含まれる。主ご自身が「驚愕」されるほどに人々の心、意思はかたくなであったのだった。人の心理の頑なさは確かに時にヒステリックなものにまでなりうる。それは第日本帝国の時代のようにである。皆かたくなに現人神を信じていたし、靖国で再会することをめざして戦地に赴いたのだ。この太平洋戦争は戦史としては実は特筆すべきもので、アジアの小国、大日本帝国が歴史上はじめてアジア以外の大国と戦を交え、マリアナ沖海鮮で敗れてもまだ1944年までの3年間もぎりぎりまで優勢に戦ったものである。日本以外にこれだけの戦闘を繰り広げたアジアの国はベトナム以外にはない。太平洋戦争というとまるでいつも餓死し、爆撃にさいなまれていたように思われがちだが、実際に史実をたどると最後の1年になってもまだ十分に戦えるほどの戦艦、航空機を有していたのだ。「本土決戦」という地獄絵図にむかってまっしぐらにつきすすんでいたのだった。これは、一種の暗示であり、社会ヒステリーの典型である。それがたったの数分の「玉音放送」で終わらせ切腹しようとする熱心な国民に対して「けいきょもうどうをつつしめ」との指令によって静められたのだった。あまりに悲惨な出来事であるために、もはや解説も説明も必要なていであろう。キリスト教の側からしてみれば、この戦争の間に多くの殉教者が殺害されたことも忘れてはならない。この国は主イエス・キリストにたてつき、主イエス・キリストを信じる者を虐待し殺害したのだ。これでは勝てる戦争も勝てるわけがない。案の定、この小さな大国はその後アメリカ帝国の「事実上属国」となって今にいたるわけである。
 まさに今日の聖書箇所でそのことは強烈に言い表される。主イエス・キリストは12弟子を宣教、あるいは戦況に遣わされるにあたり「穢れた霊に対する権能をさずけ」とあるが。まさにここがポイントである。これをこのまま読んでしまうとまるで悪霊ばらいのエクソシストかと思ってしまうが、よくギリシャ語の語彙を読み解くならこれは「穢れた」というよりはアカサルトゥーン「道徳的におかしい」を意味するのである。
 まもなく敗戦記念日が訪れる。日本人が改めてかつてのヒステリックで人を人として扱わない非情な国家体制を自分自身がささえていたことを思い起こすべきであり、後代の者はその過ちを改めて知るべきである。主イエス・キリストはただ12弟子だけを送り出したのではない。これはアポステレインでまさに「送り出す」という意味で派遣というよりはもっと重みのある言葉である。「杖一本」は実は重い言葉である。というのはこれほど好戦的な言葉はないからだ。杖は野獣や悪党と戦うための装備であったことを知る時、宣教とはまさに戦況でもあったことを思わせる。そして「宣教した」は原文ではエクセールサンでありこれは「宣教」というよりは「宣言」という意味が強いことを示したい。主イエス・キリストの宣教者は下手に人を担いでなんとかんとか教会員にすることでは断じてない。むしろ滅び行く末を見据えて、人々に主イエス・キリストの福音を宣言するのである。
 概して、媚びる宣教者がいることは残念な限りである。教会は会社ではないのだからその体質がおかしくなるのであれば声を上げなれればならない。それがまさに「宣教」である。それでも「耳をかたむけようとしない」ならば「彼らへの証として足の裏の塵を払いおと」すのである。「証」はまさに文字とおりエクセルーサンで「証拠」という意味がある。ここにマルコ書の福音宣教のシビアさがあらわれているといえるだろう。宣教者は媚びるのではない、主イエス・キリストの福音を宣言するのだ。それに「耳をかたむけようとしない」のであればそれは「塵」はらわれることになるのだ。
 かくして私たちは12弟子であるのだろうか、それはまさにそうであると言うべきであろう。なにもただ12人だけが選ばれたのではない、この聖書箇所を読んだ者、聴いた者すべてが、たった今より派遣される、送り出されるのである。
 私たちに与えられているのは、かつての大日本帝国が犯した過ちを正すことである。それは「道徳的に」間違った教えであるからである。この敗戦記念日にこの箇所が与えられているのは偶然ではないであろう。私たちは確かにこの主イエス・キリストの福音を新たにこの日本国に宣言すべきなのだ。
by qpqp1999 | 2009-08-13 18:34 | キリスト教