牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

守秘義務

キリスト教の司祭には守秘義務がある。
例えば犯罪を犯した人が教会に逃れてきたとしても、警察に対して、司祭は守秘義務を行使する事ができると、日本福音ルーテル教会顧問の弁護士の先生がわざわざ、司祭になろうとする神学生を招いてお寿司まで振舞ってくれた上で教えて下さったことだ。
 実情とどこまで整合性があるか知らないが、えらいことだ
# by qpqp1999 | 2016-12-01 08:25 | キリスト教

真田丸

 真田丸・・・。NHKの大河ドラマ・・・。あと二回くらいしかない・・・。
 ようやく冬の陣が終わったところだと言うのに
 いきなり、次回から夏の陣かい!?!?!?
 そもそも真田さえもんのすけ(幸村)は日本史においては、ちょっとしか活躍しなかった。そりゃそうだ。大阪冬の陣に至るまで、九土山で蟄居させられていたし、その期間14年間・・・。それがいきなりメジャーデビューできる筈がない!!!
 それがメイジャーデビューするというのがこの物語の一番面白い所だ。三谷幸喜が何を撮りたいか今のところよくわからなのだが、大阪夏の陣までの間をどうやってつなぐつもりなんだむー!!!
 だって夏の陣だけとったってそれは濃厚な物語が私たちには受け継がれている訳ですよ、
それをあと二回???三回だったっけ???で終わらせようとする三谷監督の気持ちを聴きたいところなんだむー。
# by qpqp1999 | 2016-11-29 18:31 | 歴史

どうするんだむー?!?!?

 どうするんだむー!?!?!?100万アクセスとっくに突破してしまったむー!!!
本当にやるのかむー!?!?!?

# by qpqp1999 | 2016-11-28 17:57 | 歴史

英語

 何だって英語の歌はあんなに難しいんだむー!!!
 今日もクリスマスに向けてのハードロックバンド
 MZU
 の練習をしたんだむー。今回で三週目だというのに、未だに歌の構成とかよく解っていないし、そもそも歌詞がよくわからない・・・。
 バンドの皆さまに迷惑かけてはいけないからと思って、頑張って練習しているんだけど認知症入っているらしくて中々覚えられない。
 とうとうCDまで買って、自動車で移動している時はその曲を聴いている。赤信号だったら歌詞もよんでる。
 それでも覚えられないんだむー!!!
 カタカナにしてしまえばいいと言う人もいるが、私は反対だ。英語の言葉をしっかり理解してその歌を英語で感じて歌わなければ意味がないと思っているむー。
 まだクリスマスまで四週間ある。じっくり練習するむー。
# by qpqp1999 | 2016-11-27 18:20 | 音楽

待降節第一主日礼拝説教

待降節第一主日礼拝説教
マタイ福音書21章1~11節
私たちは救われたいとして信仰に入る。それで救われるだろうか。極端な話、来世にでも行かないと、救われた事にならない。
しかし、イエス・キリストの福音とはそういうものであろうか。もちろん、来世の祝福というのはあるだろうけれども、今、生きているその中で救いが与えられなければ、おおよそ福音とは呼べないであろう。
待降節第一主日にはエルサレム入場の物語が語られる。
「向こうの村に行きなさい、するとすぐろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて私の所に引いてきなさい。もし誰かが何か言ったら
『主がお入り用なのです』
と言いなさい、すぐ渡してくれる」
子ロバというよりは、この単語は雌ロバなである。
ジェンダーアイデンティティーでいうと、雌というのは、もっとも弱いものだとされている。イエス・キリストはそれに乗ってエルサレム入場を果たしたいとしている。
これは預言書ゼカリア書の一文である。
「シオンの娘に告げよ『見よ、お前の王がお前の所においでになる。柔和な方でロバに乗り、荷を負うロバの子、子ロバに乗って』」
ここでズレが生じる。
イエス・キリストは死ぬ気でエルサレム入場を果たしているのに、周りの弟子たちは、
「大勢の群衆は服を道にしき、また他の人々は木の枝を切ってきて道に敷いた。」
とお祭り騒ぎになってしまう。
しかし、イエス・キリストのエルサレム入場は違う。イエス・キリストはあくまでも、皆から軽蔑視された雌ロバに乗って入場を果たした。そこにあるのは、十字架の死を覚悟を決めて入城するイエス・キリストであって、他の弟子たちが
「ダビデの子にホサナ」
というものとは遠く離れた所にあった。
もはやイエス・キリストはこの世に対して敗戦宣言を出しているか、その敗戦宣言から対してむしろ、徹底抗戦を叫んだのがこのエルサレム入場である。
弟子たちは逃げてしまったし、人々はイエス・キリストを十字架につけよと叫びだす。 
こうして待降節第一主日は語られる。
私たちはその暮らしにおいて、勝とうとするが、イエス・キリストはむしろ負けようとする。それが今回のエルサレム入場で示された事柄である。
私たちは、たしかに負けた方にいるかもしれないが、イエス・キリストこそ、その負けた私たちと共におられるのである。
# by qpqp1999 | 2016-11-26 22:34 | キリスト教