牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

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エクソシスト

 私がベイスギターMCを務める新生ルーテルゴスペルクワイアの練習があった。いつも練習のあとにメンバーで教会を掃除する。まずは聖壇の花を撤去する
・・・しようと し た ら
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燭台にささってる蝋燭がねじまがっているむー!!!
もう9月も終わりだっつーのになていゆー日差しなだらうか。きっと燭台が熱くなって蝋燭が曲がったと思われる。エクソシストでも悪霊バズーズはそんなことできなかったのに、日本の熱はすごいむー。
 さあ、明日も漫画の執筆に向けて体調を整えるむー
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by qpqp1999 | 2012-09-29 20:56 | ゴスペル

カムアウト

 私が世間一般に性同一性障碍であるとカムアウトしたのは、わたしが講談社の週刊モーニングで連載した「ストレイキャット」が単行本になったとき、あとがきで編集者からインタヴューされた記事でのことだった。その後、ずっと男性名を名乗りながらも、MTFであることを公にしてきた。
 しかし、知らない人もいる。あん摩マッサージしてくれてる先生は知らなかった、というか、最初に「女性にはしないんですが、男性の方には大胸筋ももむんですわ」と言って、私のおっぱいをわしずかみにして、手がぎょっとしていたので、いつか、話さねばならないと思っていた。大分気ごころも知った仲になったので、カムアウトした。先生曰くに
「やっぱり、そうでしたか。それで胸がでとるんですな。いつも案内してもらってますが、太郎さんの手は女性みたいな肌質やなあと思ってましたんですわ」とすんなり受け入れてくれた。
 ついでに女の声もメラニー方で出してみせると「その声やと女の人の声に聞こえます」と言ってくださった。それから、いっそう仲良しになった。世の中いい人がいるものだむー。
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by qpqp1999 | 2012-09-27 20:45 | 性同一性しょうがい

レディースデイ

 私の行く映画館は、いまだにレディースデイというのがある。私にとっては勝負な日である。はたして、女性と受け止められるかどうか・・・。
 今日は連載している漫画の絵コンテの編集部連絡待ちなので、りドリースコットのプロメテウスを観にいった。そして、今日は水曜日、レディースデイである。都会のように「映画の日」ではなく「レディースデイ」だ。3D上映だと一般は2100円、レディースデイだと女性のみ1400円。はたしてどうなるか。
 「1400円になります」きたむー
 いや料金が安くなったと言うより、女性に見えた、聴こえたということが嬉しかったむー。プロメテウスの物販ものは無かったのでポケモンの蛍光飾りつきのポップコーンカップセットを買って、上映時間を待つ、ついでに記念写真も撮る
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プロメテウス・・・りドリースコットやってくれます。エイリアンの前篇みたいな映画なのだが、ちっとも飽きない、それどころか、エイリアンの時以上にグレードアップして怖くておもしれい。3Dなだけの価値おおありです。観て損はないむー
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by qpqp1999 | 2012-09-26 19:23 | 映画

必殺仕事人

「必殺」シリーズの人気なのが「必殺仕事人」だ
もちろん私も「必殺仕事人」は好きだが
好みなのは「必殺剣劇人」だ、なぜかというと音楽がいい、
ブルーズや津軽三味線をカッコよく聴かせてくる。
ところで私はこのところ
三味線を弾いているのだが
そういえば「必殺仕事人」で三味線屋の勇次は
三味線の糸を加工して、厳密に言うと三味線の三の糸(一番細い糸)にろうそくの蝋と油を染み込ませ、悪人の首に投げつけて巻きつけ窒息死させる技を使うのだが。
いっくら加工したって三味線の糸で人を殺すのは無理があるむー
細すぎるむー
こんなんですよ!?!?
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これは三の糸といってギターの一弦にあたるものだ
切れやすいので、最近はナイロン加工さているそれでもすぐ切れるんだから
人を窒息死させるのは無理だむー。酷い時には、首つり状態にもっていっていたが
絶対に無理があるむー。
そこに、いくと同じ「必殺仕事人」でも おりく は三味線の撥を使って、悪人を殺すのだが
これは本気でやろうと思えばできます。三味線の撥はかなり鋭いむー
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by qpqp1999 | 2012-09-25 19:17 | 音楽

iPhneをガラケーに

先日のいっせいupデートで多くのiPhoneユーザーはびっくりしたが。
多くのスマホ嫌いな最大点はタッチパネルの違和感にあるらしい。
少なくとも私のまわりの方々はそうだ。私自身もそっち側である。そこで
発見したのがiPhone収納型のブルートゥースキーボード
はっきり言うと、iPhoneをガラケーにもどすということです。これです
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いちいちブルートゥースキーボードを展開するのは面倒くさいけど
タッチパネルで苦労するのは嫌だという方におすすめの逸品です2000円切ってます。
私は改造して、以前のカバーとストラップをつけられるようにしまんた。
使い勝手がとても、いいむー
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by qpqp1999 | 2012-09-24 18:27 | iPhone
聖霊降臨後第17主日礼拝説教 マルコ福音書8章27-28節
 新共同訳では「ペトロ信仰を言い表す」というタイトルの部分からはじまる。後述するように、この信仰告白は後でひっくり返されるのだが、基本的にはペトロは模範的な信仰告白をしたというところからはじまっている。
 イエス・キリストの一行が史実においてどのような状態で活動していたかは、残念ながら、今や知ることはできない。非常に多数の人数で活動していたか、あるいは少なかったかということは、もはや資料が福音書伝承のみである以上、議論するだけ無駄である。しかし、はっきりしているのはマルコ書が書かれた当時のキリスト教会では、イエス・キリストこそが「メシア」であるという信仰に立って活動していたことは明らかである。 
「メシア」と訳されている言葉はχριστόςクリストスであることは広く知られていることであろう。勿論、キリスト教のキリストの言葉はこの言葉からきている。
 イエス・キリストについての評判について弟子たちにどう思うか尋ねたところ、ついにペトロが「あなたはメシアです」と言うのだった。この言葉は「油そそがれた者」を意味するアラマイク語ではメシーアッハというものである。これがギリシャ語に訳された段階でクリストスになったわけである。尤も、この称号がイエス・キリストのみに適用さることになったのはマルコ書が書かれた時点であって、そまではかなり広範囲に使われていた。
 このメシーアッハの意味は「油そそがれた者」の意味であって、イスラエルの祭司や預言者がそうであった。もっと、広範囲でみるならば、イスラエルをバビロニアから解放したペルシャの王であるキュロスもメシーアッハであった。この「油注ぎ」は神への奉仕のための聖別を意味するものである。油を注がれた者は神から特別の課題のために選ばれ、それを果たすために選ばれたとさていたのである。
 しかし、マルコ書の文脈では、このχριστόςクリストス「メシア」はそのような一般的なメシアに留まらず、完全なる救い主としての告白としてとらえられている。ところが、その真っ当な信仰告白に対してイエス・キリストは「ご自分のことを誰にも話さないようにと弟子たちを戒められた」のであった。なぜ、真っ当なことを言っているのに、それが戒められるのか。これまで、治癒奇跡等で、その出来事を口外しないように戒められることはあった。その流れであるかといえば、今回に関してはそうではない。そのためには、次の展開を待たなければならない。
 「イエス、死と復活を予告する」というタイトルで始められる、つぎのエピソードがこのペトロの信仰告白を覆すことになる。即ち、「イエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排除さて殺され、三日の後に復活することになっていると弟子たちに教え始められた」である。
 この「長老、祭司長、律法学者」というのは当時のイスラエル、ユダヤ教の、最も尊敬され、信頼されていた人々である。ちなみに祭司長に至っては名前が歴史的事実として残っている。紀元0世紀から30年くらいの祭司長はアンナスかその息子カイアファである。今でこそ、どういうわけかキリスト教は現代では、大変な保守勢力になっているが、マルコ書が書かれた当時はそうではなかった。であるので、イスラエル、ユダヤ教の保守勢力によってイエス・キリストが抹殺されるということなど、考えられないことであったし、当時の弟子たちであれば、尚更であったことは十分に察しが付く。
 しかし、実際のところ、実情は違った。これは明らかに、史実に遡るであろうがイエス・キリストは当時の保守勢力に対して、徹底的に闘いの様相をみせたのであった。その代表がエルサレム第二神殿での大暴れである。この出来事でイエス・キリストの処刑は決まったも同然であった。しかし、夜陰に紛れて拉致し、違法な裁判で死刑に処し、石打ち等の民衆を煽ることができないため、ローマ帝国での十字架刑に事を進めたのであった。
 イエス・キリストのような方が万が一にもそんなことがあってはならない。そういう気持はペトロでなくとも、誰しもが思ったことであろう。ところが、イエス・キリストはそのようにして「いさめはじめ」るペトロに対して「サタン引き下がれ」と言葉を発したのであった。
 ここからが大事な点である。大方のキリスト教徒ならば、主イエス・キリストの処刑と復活という「福音」が無ければ、信仰の意味がないからだと言いだしはじめるであろう。確かに、その側面はキリスト教においては非情に大切で強固である。だが、そこだけにとどまっていると、本来のマルコ書の意図から外れてしまうことにも注意を払わなければならない。この先は文言の翻訳の意味によっても大きく解釈が変わる部分でもある。
 つまり、十字架の処刑によるイエス・キリストの贖罪論が展開さなければ、福音書の意味がなくなるというような現代のキリスト教保守層の意見に窓をさてはいけないということである。まず、第一にこの場面設定から臨むとそのからくりがわかる。つまり「イエスは弟子たちとフィリポカイサリア」「に出かけた」である。この地名ほど保守層を代表している地点はない。カイサリアはローマ皇帝アウグストゥスのカエサルの「カイサリア」であり、フィリポはヘロデ大王の後を継いだフリイッポスのことである。つまり権力の集中する地点としてこの地が、わざわざ選ばれていることには注目したい。つまり、大権力の集中している所で、イエス・キリストはご自身の十字架と復活の意味を解かれたのである。
 「自分の命を救いたいと思う者はそれを失う」「わたしのため福音のため命を失う者はそれを救う」とある。しかし、原典にあたってみると「失う」はἀπολέσειアポーレーセイであり、「破壊する」という意味である。そして「わたしのため、福音のために命を失う者はそれを救う」である。ここでも「失う」はἀπολέσειアポレーセイであり、「破壊する」である。つまり、「失う」という、言わば必然的なものではなく、もっと自主的な、わざわざ「破壊する」という意味が強く込められていることには注目したい。
 つまり、私たちは、自分が天国に入ることができるように、自分の十字架をかつぐというのではなく、イエス・キリストがイスラエルの第二神殿で大暴れしたのと同じごとく、この世にはびこる、弱者や、踏みつけにされている人々をこそ主イエス・キリストにある身内として共に、その苦しみや痛み、そして闘いを共にするべきであるということが、ここに強く強調されているのである。
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by qpqp1999 | 2012-09-23 19:43 | キリスト教

津軽三味線2

 最近、津軽三味線をはじめたが、正確に言うと、津軽ではなくブルーズ三味線だ。だって
ペン他トニックスケールを使っているから。
ところが、ギターと違って三味線はペンタトニックスケールに対応していない。しかもフレットレスなので、弾きにくくて仕方がない。そこで、思った。一層の事、フレットをつけたらどうかと・・・
そして、実行に移した。これです
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やってみると、すごく弾きやすい。
難しい津軽のスケールもすらすら弾ける。
最初からこうすればよかったむー
きっとお免状もらってる人がこれ見たら激怒するだろうな・・・。
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by qpqp1999 | 2012-09-22 19:08 | 音楽

ついにやりまんた

 この3年くらい、ずっと捜し続けていたものがある。
それは、ハウルの動く城のハウルがつけているジブリの物販もののピアスだ。
ハウル公開当初にすぐに買った。高かった8000円位したと思う。
ところが、映画のハウルよろしく、寝てる時もつけていたら、壊れてしまった。
そこで、再度購入しようとしたら、もちろんアマゾンでも売ってはおらず、どこもかしこも完売状態。
やっとのことでヤフオクで見つけて2万円出して買った。
だけど、あまりに高価で極稀品なので、また壊れたら困るので大切に保管していた。
しかし、ピアスたるもの付けなければ意味が無い。そこで、新たに着用用の同じものを捜すが
どこにも売ってない。しかも、すごい変わった形してるので、模擬的なものもない。
ところが、数日前ついにヤフオクに顕れたむー
速攻で入札、待つこと四日間ついに1万円強で落札できたむー
これからは大事につけよう。
二つのジブリ、いい眺めだむー
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by qpqp1999 | 2012-09-20 19:39 | 映画

 基本、戦場で用いられる軍馬はサラブレッドではなくポニーである。
ポニーとはサラブレッドとはちがって背が低く、体も小さい、そのかわり、戦闘状態にちょうど適応するような大きさになっている。日本の戦国時代に活躍した軍馬たちも、いわゆるポニーであった。
 で、今日、昼ごはんを買おうといつものスーパーマーケットに行ったら
ポニーがいたむー!!!
話には聞いていたが、こんなに小さいんだと改めで感動した。
ちょうど乗馬のキャンペーンだったのだが、係の人は快くツーショットを撮ってくれたむー
これです
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ポニーかわゆすー!!こんなカワユスな馬で戦闘を行っていたのかと思うと、複雑な気持ちになるむー
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by qpqp1999 | 2012-09-17 19:12 | 動物
 福音書におけるイエス・キリストの病気や「障碍」の癒しのエピソードはたくさんある。また、史実においても、おそらくイエス・キリストは決して身分の高い者でもなければ、学識豊かな者でもなく、またナザレ出身の田舎者の青年に過ぎなかったことは確認することができる。では、どうして、このような人がユダヤ教保守層にとって危機的存在になったのか、石打ちのリンチで殺そうと思えば殺せたはずだ。実際、使徒言行録では最初の殉教者ステファノは石打ちのリンチで処刑されている。しかし、イエス・キリストにはそれができなかった。その最大要因は民衆からの人気があったことであろう。石打ちができる状態ではなかったのだ。では、なぜイエス・キリストがそんなに民衆から支持され、人気があったのか。非情に残念なことに、イエス・キリストがどのような教えをなしたかについては、かなり新しい伝承にたよるしかない。即ち、紀元2世紀頃までは新約聖書は成立しておらず、もっぱらパウロの手紙、パウロの働きによるキリスト教の構築が表立っており、福音書は最古のものマルコ書でもパウロの殉教より数十年遅い紀元60年になってしまう。この段階になるとイエス・キリストの教えそのものも。既成のキリスト教概念にとらわれがちになってしまうのだ。そこで、福音書記者たちは、イエス・キリストの伝承を元にして、それぞれの神学的立場からイエス・キリストの教えについての語り部となったのである。その、意味で言うなら、病気や「障碍」の治癒奇跡物語は単なるおとぎ話ではなく、福音書記者のメッセージ、イエス・キリストの教えと連動されてはじめて活きた文章となるのである。イエス・キリストは神だから病気を治せましたなどという幼稚な記述では断じてない。その癒しの行為、一つ一つに福音書記者たちはそれぞれの神学的なアプローチをしているのである。そして、それは、まさにイエスが十字架でないと処刑できなかったほどに民衆の人気を得ていた証拠を提示しているのであり、それは、主に、イエス・キリストの教えもさることながら、民衆を魅了するその癒しの奇跡行為が際立ってくることになるのである。つまり、イエス・キリストの人気はその病気や「障碍」のいやしという史実に遡る可能性が非常に高いということである。それほどまでに、イエス・キリストの癒しの行為は多数の伝承を残していたのであった。キリスト教の開祖ともいえるパウロ自身も目が見えなくなる状態から見える状態に移されることで、その信仰心が強くなったことは言うまでも無い。イエス・キリストの癒しの事実はそこにまで食い込んでいるのだ。 
 今日の奇跡の個所は、一般にはマルコ書特有のものとみられがちである。確かに、具体的な並行記事は無い。しかし一方で、マルコ書の編集段階において、他の福音書との連動関係も確認することができる。マタイ15章29-31節に非情に酷似した伝承が用いられている。ここに共通するのは異邦の民の地での活動という一点につきる。ガリラヤ湖畔だからといって、そこがユダヤの地であるわけではないことに注目したい。
 新共同訳では「デカポリス地方を通り抜け」と訳されているが、ἀνὰ μέσον τῶν ὁρίων Δεκαπόλεως.アナ メーソン トゥーン ホリーオン デカポリスであり、直訳すると「デカポリスの境界の真ん中に」である。つまり、これは異邦の地で行われた治癒奇跡であるということである。つまり直前の個所である「シリア・フェニキュア」での「異邦人治癒奇跡」と繋がっていることを示しているのだ。道理で「イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス」と地形的に無理な進行過程を描いているわけである。マルコにとって大事なのは、この治癒奇跡もまた、異邦の民のもとにもたらされたものであるという主張である。そして、その後の展開が素晴らしい。「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れてきてその上に手を置いてくださるように願ったのだ。」ここには深い意味が込められている。即ち、ユダヤ社会では汚れた者、異邦人であり、それが「障碍」に苦しむ者であればあるほど、それは接触することを疎んじられる、汚れたとみなされる状態であったということである。そこに「手を置く」というのは、普通にユダヤ人に手を置くのとは全く次元の違う意味が込められることになる。
 しかし、イエス・キリストは躊躇しないどころか進んで、「この人だけを群衆の中から連れ出し」とある。確かに古代文明において、癒しの魔術や祈祷が行われる際に、その対象者と治癒者だけになることは決して珍しい事ではなかったが、マルコ書の思惑は、そういうオカルト的な事柄を主張しているというよりは、イエス・キリストがその治癒をこれから行おうとする人に対して、二人きりになるという親密さを描いていると言う方が妥当ではなかろうか。当時、忌み嫌われ、しかも異邦の民と真っ向から臨んで下さるイエス・キリストが描かれているのではないだろうか。
 「イエスは」「指を両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」とある。いかにも魔術的ではあるが、福音書記者の思惑はむしろ、それだけ親密にイエス・キリストは「汚れた」とされている人と肌身をつけて関わられたということにつきるのではないだろうか。おそらく普通のユダヤ人であれぱ。異邦の民でしかも汚れたとされている「障碍」に苦しむ人とそこまで密接に付き合うことは到底考えられない出来事であったからである。直前の異邦人の女性の治癒奇跡に続くだけに、マルコ書の論点はここにあるだろう。
 「そして、天を仰いで、深く息をつき」もまた魔術的にとられがちだが、どちらかというと、それくらい一所懸命に頑張ってやっているという方が妥当であろう。イエス・キリストこそ、底辺に追いやられ、どうしようもない状況に陥っている人のためにはそれだけ努力して下さるということなのだ。
 そして、極めつけは「エッファタ」という言葉である。福音書はギリシャ語で書かれているが、イエス・キリストが話していた言葉はアラマイク語である。イエス・キリストは今日の英語のように、世界共通用語のギリシャ語を話すことができない、ある意味無学な人だったのだ。イエス・キリストに出来ることは、自身の使える言葉だけを用いて、精一杯その奇跡をなそうとなされたのであった。それが福音書記者の目指す「エッファタ」という言葉である。
 そこで私たちは知る。イエス・キリストこそ、それこそ忌み嫌われている「汚れた」存在に対して真摯に向き合い、その持てる全てを与えて下さるということを。
 
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by qpqp1999 | 2012-09-16 12:21 | キリスト教