牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

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ヒヤーウイーゴー

 編集長からネームのOKが出た。ひやーういーごー漫画執筆。画像は私の漫画作業アトリエです。
 今日はペンテコステでしたが、偶然にも「日本海海戦」の記念日でもあります。圧倒的なロシアの「バルチック艦隊」を「大日本帝国海軍連合艦隊」が破った日です。「日露戦争」最近だと思ってたけど100年以上前の話なんですね。
 平和がいい・・・ペンテコステなだけに、現在の戦争のことも考える記念日になっていると思います。
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by qpqp1999 | 2012-05-27 19:38 | 漫画
聖霊降臨際主日説教 ヨハネ福音書15章26節-16章4節
 聖霊がエルサレムにいた使徒たちに与えられ、いよいよ教会が誕生したという記念主日である。確かに、イエス・キリストの弟子たちはエルサレムで活動をしたが、それは今日考えられているような教会という体裁のものではなく、あくまでもユダヤ教の一分派であったことは確認しておくべであろう。尤もなことに、弟子たちの拠点は依然としてエルサレムであり、神殿での活動が行われており、使徒書からはそういうユダヤ教の本山であるエルサレムの集団がより優勢な力をみせており、そうではない「キリスト者」たちは格下に見られてすらいたことがわかる。キリスト教の根幹を作ったといっても過言ではないパウロですら、当初はエルサレムで活動している「キリスト者」たちと、どうかすると対立すらしていたのであった。
 そういう歴史的な事実からひも解いて行くと、一体「聖霊」とは何であるのかという認識の問題が浮上してくる。まずもって、ギリシャ語原典の「霊」を示す言葉が、今日与えられている福音書と使徒書ではちがってしまっている。ヨハネ福音書であればπνεῦμαプネウマという「霊」に関してπαράκλητοςパラクレートスという解説があり、使徒言行録ではπνεῦμαプネウマということだけになっている。
 キリスト教がユダヤ教の一分派からキリスト教となり力を徐々につけていく段階で本来一神教であるはずのユダヤ教の分派であるキリスト派は、いつのまにか父なる神、子なる神、聖霊なる神という多神教になってしまったのだった。そういう宗教としてのキリスト教の成立過程を認識した上で、「三位一体」という教義が現れてきたのであり、そもそも、論理的にこの状態を説明するのは無理であることを知るべきである。しかし、論理的に無理であったとしても、キリスト教のとる信仰の立場は、やはり父と子と聖霊は一つであるということは保たれなければならない。ひっくり返して言うなら、それらが一つであろうとなかろうと、キリスト教の発する救いというものには、あまり影響をもたらすものではないということも一方で事実である。「三位一体」でなければ恵みがないかといえば、そんなことはない。そういう中でヨハネ福音書に接する時、実は、この論理的に解説不可能な「三位一体」の原点ともなる言葉に満ち満ちでいることに気付かされる。「私を憎む者はわたしの父をも憎んでいる」「わたしが父のもとからあなたがたにつかわそう」というようにヨハネ福音書の記された紀元1世紀に既に、三位一体の伝承、教義があらわれているのである。つまり、そういった信仰のあり方の中で三位一体は成立することになるのである。
 熱狂的な「福音主義」の教会においては、「聖霊」というものを極端に重要視している。「聖霊」というものをまるで心霊現象のように発現することがなければ、それは「救い」の外にあるというような主張である。これは完全なる「救い」の「絶対化」であり、宗教の中にそのような「絶対化」が起こるとき、そこには暴力が発現することに注意しなければならない。むしろ、この「聖霊」に関しては、「絶対化」ではなく「相対化」される作業が信仰の中で起こる時に、真の恵みを体験することになるのではなかろうか。
 使徒言行録が書かれたのがおそらく紀元80年かそれ以降と推察されている。まだ、この使徒書が書かれた時期では、キリスト教にはなっておらず、ユダヤ教の一分派として成立していたと思われる。それゆえ、エルサレムにおいて「聖霊の降臨」があるわけだ。しかし、ヨハネ福音書の記された時代は明らかに1世紀くらいで、ユダヤ教から異端とされて、もはやシナゴーグから追放される事態にまで追い詰められていたことは、ヨハネ書をざっと読むだけですぐにわかる。今日の個所はあからさまにキリスト教が迫害される状態にあり、殉教の事態まで起こることが記されている。つまり、ユダヤ教の一分派であった「キリスト派」「ナザレ派」がキリスト教になったのは、「聖霊降臨」によるのでもなければ、「異言」を発して、さまざまな国の人たちに話しだした時点でもなく、異端として迫害されるようになってからであったということは、キリスト教史を把握する上で重要である。
 紀元70年にエルサレムは陥落し、ユダヤ教は神殿を失い、ファリサイ派がユダヤ教の中心的存在になり、紀元85年以降続いて行くヤムニア会議において、改めてユダヤ教は新しい宗教の体裁を整えようとした、その際に、18の祈願の改定の中にキリスト派を異端とすることが決定され、キリスト者たちはシナゴーグから追放されることになったのだった。ローマ帝国でもドミティアーヌスがはじめてキリスト教の弾圧にものりだしたのだった。そんな状態ではキリスト者でいるということは、迫害され、ともすれば殺されるという極限状況に追いつめられたのだった。そこで書かれたのがヨハネ福音書である。1章から明らかなように、イエス・キリストと「世」の対立構造が濃厚に記されている。今日の個所ではより強烈に「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかもあなたがたを殺す者が、皆、自分は神に奉仕していると考える」とまで踏み込んでいる。
 迫害され、社会から追放され、処刑されるという事態のどこに救いがあるのか。実は「聖霊」というのは、迫害される、今日の日本でいうならさまざまなハラスメントに苦しめられる、そのような時に活きて働くイエス・キリストの力であるということが明らかにされていることに注目するべきであろう。また、宗教を超えて、人権が侵害されている、命が侵害されている現代社会の状態について、まさに「相対化」されて、それらの苦しみの中にこそ主イエス・キリストから「つかわ」される「聖霊」の働きが生み出されるのである。それは、時に人権を弾圧している政府にたいする抗議であり、それは時に身近に起きているハラスメントに対する取り組みである。そのような実存的な働きを支えてくださるのがまさに「聖霊」ヨハネ書では「弁護者」παράκλητοςパラクレートスであるのだ。このパラクレートスは「協力者」という意味を持ち、尚且つ、裁判のための用語でもある。 「これらのことを話したのは、あなたがたをつまづかせないためである。」ここに至って、キリスト者が言う「聖霊」というのは、私たちがあらゆるハラスメントに苦しみ、あるいはあらゆる痛み、悲しみの中にある時に、主イエス・キリストを呪うのではなく、逆にイエス・キリストから発している「協力者」たる「聖霊」の存在に依存していいのだということ。また、おおいにその「協力者」と共に、その苦境をあえて進んでいく力が与えられることを恵みの体験として証しするべきであることが書かれている。この「聖霊降臨際」この、奇跡たる「聖霊」の働きに実存をもって信仰生活を実践する恵みを確信したい。
by qpqp1999 | 2012-05-27 19:34 | キリスト教

礼拝堂見学

 週に一度くらい、ゆっくり寝たいそれが土曜日なんだけど、明日、東京から日本福音ルーテル関係の方がうちの教会を見学に来られる(うちにはオルガンがあるしドラムセットやギターアンプ、ベイスアンプまで装備しているから、めずらしい)ので、対応しなきゃならなくなった。明日も早起きかよ・・・尤も早起きは、早朝覚醒でするのですが、心ゆくまで布団の中にいたいという開放感がもらえる一日が無くなったのは辛い。
 来られる方は名のある大学で宗教哲学を教えてこられた先生で、私が神学生の時にお世話になった方だ。この方の論旨は決して解放の神学ではないが、かなりそれに近い、解釈をもちだしている点は評価できる。しかし、それはあくまで哲学的学問的な問題であって、実存的な「福音の相対化」とは無縁の学問的お遊びであることは否めない。
 私も大人になったので、そんなことでカリカリして喰ってかかったりしないけれど、ゆっくり眠れなくなったのは残念な限りだ。
by qpqp1999 | 2012-05-26 00:29 | キリスト教

珊瑚海戦

 漫画の仕事に追われていたら、もう五月終わりだ。五月に日本史として記憶にとどめておくべきは1942年5月8日に行われた。「太平洋戦争」での「珊瑚海戦」だ。世界史史上初の空母対空母という機動部隊戦闘が行われた闘いだ。
 正規空母は米二隻、日三隻、艦載機は日本が勝る。しかも当時の戦闘機は無敵の零戦に対してアメリカはF4Fで戦力差においても日本が優勢だった。結果は米はサトラガ撃沈レキシントン航行不能、日は翔鶴沈没瑞鶴被弾だった。サトラガをうしなったアメリカは次のミッドウェーでえらいことに追い込められるのだが、歴史は人が思うようにはいかない。
 動画は岩本哲三さんの闘いを再現しているが、一部、坂井三郎さんの闘いが混じっている。なので、途中零戦の機体がかわってしまって、よくわかんなくなるが、よくできた動画です。これ観れば、珊瑚海戦がだいたいわかります。

by qpqp1999 | 2012-05-24 19:44 | 歴史
主の昇天主日礼拝説教 ルカ福音書24章44-53節
 イエス・キリストが十字架刑で死に、三日の後に復活し、弟子たちに顕れ、ついに弟子たちがその後に起こることを告げてから天にあげられるという物語である。福音書という書物はルカ書の場合、紀元70年以降から1世紀の間に書かれたものであり、ギリシャ語で書かれているから、当然、生前のイエス・キリストを知らないし、復活の顕現も体験していない者であり、そういう者の書いた書物である。当然のことながら、この福音書記者ルカは当時、まだユダヤ教の一派であった「ナザレ派(キリスト派)」であるなかで、どれだけイエス・キリストを神格化しようとしているかは大前提になっている。しかし、神格化しようとするというよりは記者ルカにとってイエス・キリストは神以外のなにものでもなかったから、このように書くのは当然のことなのである。かくして、実際に地球が丸いことも知らず、空の上がどうなっているかも知らない者の書いた記述になってしまっており、ニヒリスティックな無神論の立場をとる人たちは、この昇天の記事をあざ笑うかもしれない。確かに、昇天という現象自体は、現代社会においては、非情に不自然なものでありながらも、ルカ書が強調しているのは、天にあげられたことではなく、その事でイエス・キリストと弟子たちとが繋がったということであり、それは、この個所を読む私たちに直結する恵みでもあるということは見逃すことが出来ない。今回の話しは24章におけるルカ独自の資料から導き出されている。前述した通り、キリスト教はもともとユダヤ教の一分派であったし、福音書が書かれた当時もヨハネ福音書を除いて、どれもがぎりぎりのところでユダヤ教の一分派なのであった。キリスト教がユダヤ教から異端とされキリスト教になるのは1世紀以降の話しである。聖書の順列から読むと新約聖書は福音書が先にあるので福音書のほうが古い書物だと勘違いされがちだが、実際には使徒書の方がはるかに古いキリスト教の書物である。そこで、おどろくのが、使徒書にはイエス・キリストがどうしたとか何を言ったとか全く書いて無いのに対して、福音書ではそういうイエス伝承がふんだんに使われている点であろう。つまり、紀元70年以降になった時点でもイエス・キリストが言ったり、行ったりした伝承集は存在していたのである。それらが全くの作り話ではないと言えることは、年代も執筆者の疎通もない状態で多くの一致を四つの聖典福音書にみることができることで立証できるであろう。
 昇天物語については実はルカ特有の伝承といってもいいものである。マルコ書にもみられるものの、これは後世の書き足しであるこがほぼ確実に判明していることから、意外なことにイエスが天にのぼられたというのはルカ書特有の伝承なのである。だが、ルカが意図しているのは天に昇っていったからイエス・キリストこそ本物の神様だというものではないというところから読み解いていかねばならない。
 まず記者ルカが強調しているのは、旧約聖書の成就としてのイエス・キリストの十字架の処刑死と三日後の復活ということである。「モーセの律法と預言者の書」まではわかる。当時ユダヤ教ではこれらの書物が権威であったからである。しかし面白いことに「詩篇」がついている。それは記者ルカが多分に「詩篇」の成就としてこの福音書を書いてきたことに由来する。そして、いよいよルカ書ならではの伝承が姿を現わす。「イエスは聖書を悟らせるために彼らの心の目を開い」たのだった。とても有名な聖句なだけに、あまり感動しないかもしれないが、実を言うと、「心の目」という訳の「目」にあたる単語はギリシャ語原典には存在しない。新共同訳の意訳である。そのまま読むと、まるでイエス・キリストが奇跡を起こして、人の信仰を開花させて信仰の目が見えるようになるというような解釈になってしまうが。よく読んでみるとそうではない。τότε διήνοιξεν αὐτῶν τὸν νοῦν τοῦ συνιέναι τὰς γραφάς[1] トーテ ディクスネーン アウトーン トーン ヌーントゥー スゥヌエナーイ タース グラファースで「そして聖書を理性ので一致して共有し完全に明らかにした」が直訳である。人にとって聖書とは記者が、その当時の宗教的強者や団体を強化するために書かれたものとして読まれるべきものではない。その向こうにある本来、記者が強調したかったことが読まれるべきなのだ。つまり、記者ルカはイエス・キリストの人生において起こったこと、そしてその後の伝説も含めて、それらは旧約聖書の成就であったということがこの昇天物語の中の中心主題になっているのだ。なるほど、聖書という書物は読みようによっては、いかようにも解釈ができるものであるが、多様性を失わないことを前提にキリスト者はこの書物を主の言葉として「一致して共有し、完全に明らかに」すべきなのだ。その中心主題は「キリストは苦しみを受け、三日めに復活する」である。これこそが聖書全巻の発する、そしてキリスト者に限らず無神論者にいたるまで共有されるべきメッセージなのだ。「苦しみを受け」るしかし、「復活」するのである。イエス・キリストが生身をもって投じたこの歴史的事実が、人類に対して無くなりかけている希望を生み出す原動力になっていることに気付きたい。
人は言うだろう、弟子たちはイエスを裏切った罪の意識の中でイエスの復活の幻を見たのだと。しかし、世の中そんなに甘いものではない。「12人」がそろって幻を見るような精神状況にあったとは到底考えられないし、もしそれが幻であるならば、殉教してまで、つまり拷問と処刑という到底、尋常では受け入れられない事態を受け入れていった歴史的事実についてどう説明できるだろうか。それが、今日のイエス・キリストの昇天物語に反映されているのである。「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によって」「のべ伝えられるように」もかなり意訳が入っている。εἰς ἄφεσιν ἁμαρτιῶνエイス アフェサン アマルティオーンは「罪の赦し」ではなく「印を失ったことを回復させる」という意味である。まさに文字通りである。現代社会において強者となったキリスト教は完全に「印を失っている」それは強者の前に弱者が虐げられるという実態である。それをキリスト教会自体が容認しているのである。それは「回復」されなければならない。また社会全体を見ればすぐにわかる。どれだけ強者がはびこり、弱者を虐げているか。そのようなことは、完全に本来あるべき人としての「印」を失っているのであり、それこそが「罪」なのだ。だから、それを断罪するのではなく、「回復させる」べきなのである。それこそが、イエス・キリストご自身で顕わされた十字架の処刑死と復活ではなかったか。そうであるからこそ、現代を生きる私たちはこの希望に信仰をおくべきなのだ。
by qpqp1999 | 2012-05-20 12:17 | キリスト教

土田世紀

 弟のブログを久しぶりにチェックしたら、漫画家の土田世紀さんが4月の末に亡くなっていることがわかった。
 量産を始めてからの土田世紀さんの作品はあまり好きではなかった。いかにもアシスタントが描いた絵だったし、ロングショットを多様する様式をやめてしまっていたからだ。それでも講談社のアフタヌーンの「永ちゃん」まではむさぼるように読んでいたものだ。もちろんデビュー作の「未成年」これも講談社のアフタヌーン。はその素晴らしさに圧倒された。圧倒的な面白さ、それを裏付ける画力。しかも年齢が当時、神学生だった私より五つも年下だ。これは天才だと思った。
 私の漫画もこの土田世紀さんの初期の作品に相当影響うけている。とくに、背景に関して、白黒のコントラストをきかせた、どうかすると写真をコピー機でコピーして貼り付けたのではないかという背景。実際、彼はそういうテクニックも使っていた。
 「高」は講談社のモーニングで連載だった。凄かった。くしくも五年後に私は講談社の「ちばてつや賞」で準大賞をいただいて漫画家としてデビューした。なんていうか天才的な人ほど早く亡くなってしまう気がする。ジミヘンドリックスしかり、アーリアしかりこの人たちはミュージシャンだけど。ホイットニーヒューストンやマイケルジャクソンもそうだ。天才は早く亡くなってしまう運命にあるのか。
 しかし、それは迷信だB.Bキングはまだ現役ブルーズギタリストだし、プリンスだって長生きしそうだ。漫画家で最高齢者はおそらく「アンパンマン」のやなせたかしさんだろう。この人はミュージシャンでもある。「手のひらを太陽に」の作詞者が「アンパンマン」の作者と同じだと、どれだけの人が知っているだろうか。その次に高齢漫画家として水木しげるさんがいる、この人も現役、その次くらいに松本零士さんがいる。バリバリの現役だ。
 じゃ、私は?と聞かれたら、あまり長生きはしたくないというのが本音だ。そういう人間に限って、長生きしてましうんだろうな。もし長生きできるんなら、「イエス伝」はもちろん「使徒伝」とか「パウロ伝」くらいまで描きたいものだ。
by qpqp1999 | 2012-05-17 19:05 | 漫画

110番通報

 先日「松本太郎テレビ」の突撃取材しようとしたらカメラ壊して、「訴えるぞ」と脅してきた、市議会議員であるそうな●●●●●という男が、前のように歩道を占拠して、旗をガードレールにくくりつけて、でっかい拡声器で騒音を鳴らしてる。街宣活動をしているのだ。
 前の時は、トラブって警察に訴えたら刑事課の刑事さん二人が
 「ええこと、してくれるのはええけど、それしたら、政治活動の妨害であんたが被疑者になるから、そういう時は110番してくれな」と言った。
 そこで、今日も件のやつが歩道を占拠して、ガードレールに旗をくくりつけて街宣活動してたので110番通報した。ちょうど、漫画の締め切り明けだったので、警察官が本当に来るのかどうか、待って見ていた。待てど暮らせど警察は来ない。●●●●●は嬉々として街宣活動を続け、通りすがりの女子高生にエロっ気満満で声をかけている。これだけでも犯罪だ、絶対に政治活動ではない。しかもこの●●●●●は暴力団とコネがあるから怖くて、名前も出せない。
 そしたら、日も暮れたので●●●●●は旗をたたんで近くのコンビニに駐車してある軽トラックにすごすごと帰っていった。なんだ警察は動かないんだ。路上ライブの取り締まりには鬼のようになって捕りかかるくせに。と舌打ちして、20分も待ったのを後悔して帰ろうとしたら、物凄い仏頂面した警察官四人のせたパトカーとすれ違った。きっと現場に仕方なく行ったんだろう。
 遅いんですよ。そんなことだから、交通違反者は取り締まれても、暴力団とか殺人とか、麻薬とか、極悪犯罪は取り締まれないんだ。もっとしっかりしろ警察 弩!!!
by qpqp1999 | 2012-05-10 20:09 | 警察
復活後第四主日礼拝説教 ヨハネ福音書15章1~10節
 ヨハネ福音書は、それまでユダヤ教の一派、ナザレ派として認められていたのが、ヤムニア会議によって異端と退けられた時期に書かれた。また、ローマ皇帝初の本格的なキリスト教弾圧を行ったドミティアーヌスの迫害にも直面していた。年代はおそらく一世紀前半か、少し前だ。おそらく、直にイエス・キリストに触れた人はいない時代である。シナゴーグからの追放と違法宗教としての取り締まり。この大きな苦難の中で書かれたのだ。
 今日の個所には並行記事がない。ヨハネ書の独自伝承である。ここでモチーフとなるのが「ぶどうの木」である。「ぶどうの木」はイスラエルの象徴でもあり、教会論が展開されていると読む人もいるが、ヨハネ書の文脈からは妥当ではない。反対に教会という組織論を壊してまでしてイエス・キリストとの個人的なつながりが強調されているからである。この点については非常に読むべきものがある。
 聖書そのものが、そうであるが、編集は人が特に、その宗教集団の強者が自分に都合のいいように編集されたものであることは言うまでも無い。確かに聖霊の導きによって書かれたかもしれないが、そこに意図されているのは、明らかに、その時点でのキリスト教強者である。ところが、不思議なもので、福音書になるとその論があまり通じなくなってしまう。というのは、福音書という聖書の伝承集が編纂されたのは1世紀までに実に四つの書簡しかなかったからである。二世紀半ばになると、色々な福音書が書かれ出すが、どれもフィクション的な読み物の色合いの強いものばかりだった。いかに宗教管理者層が手をいれようにも、せいぜい、順番と呼称ぐらいのもので、内容には触れることができなかったのである。その、意味で特に聖典福音書には重みがあり、特に、今日のヨハネ書に関してはその部分で、むしろ大勢としてのキリスト者に否をとなえるような個所ですらある。
 組織体制になっていい事がどれほどあるだろうか。組織体制になればなるほど、その秩序と勢力の維持のために、保守化が進み、弱い存在、差別されている存在は抑圧される傾向になっていく。私が最初にその洗礼を受けたのは日本福音ルーテル教会での新任牧師とその「牧師夫人」を呼びつけた、教団の牧師のあり方についてのオリエンテーションであった。実を言うと私は性同一性の関係からネクタイをすることに非情な違和感を抱いていた。男性としてのネクタイなど生理的に受け付けない感覚であったので、無意識のうちにネクタイをしない服装でいた。そこに前田貞一という当時の総会議長が怒りを発した。「これからは、こういう席に来る時には、こういう格好(ネクタイに背広)にしてきなさい、それ以外のものは通用しない」と一喝された。また、西教区の教区長だった森勉は「太郎くん、こういうときは、二階に行って、渡辺先生からネクタイをかりてくるんだよ(場所は市ヶ谷教会で、当時の市ヶ谷教会の牧師は渡辺純幸、後に日本福音ルーテル教会の総会議長になる、そして私はこの教会で最後の神学生としての研修にあたっていた)」と言われた。物凄い、違和感と嫌悪感を抱きながら、ネクタイを借りに行くしか私にはなかった。それから二十年ほど経て、聖書を学び、そのメッセージに近づけば近づくほど、そのような事態が非情に非キリスト教的なものであったことを強く感じるようになり、また、間違っているということに気づくようになった。その場にイエス・キリストがおられたら、反対に前田貞一に対して一喝してどなりつけたことだろうし、森勉に対しては皮肉たっぷりに嫌みを言ったに違いない。それが、今日の個所たる「私はまことのぶどうの木」である。
 キリスト教徒でいることは、もはや世の中が許さなかった時代。イエス・キリストにつながるとは何を意味するかをヨハネ書記者は痛恨の思いで書いている。なぜ、「ぶどうの木」が象徴に選ばれたのだろうか。私たちが「ぶどうの木」を連想する時、高い所に栽培されたぶどうの木を連想しないだろうか。それは、現代の栽培力によって成り立っているものであって、イエス・キリストの時代はちがった。ぶどうの木はパレスチナ地方の植物の中でも最も地面に近いところに生息する植物であった。まさに地べたを這いずり回りながら生きていた植物であったのだ。イエス・キリストはあえてこの植物を象徴として語る。つまり、今の保守や権力に抑圧された中にあっては、イエス・キリストにつながるということは、地べたを這いずり回るような生き方を強いられるといいうことであった。決して、ネクタイをピシッときめて「男らしく」立つというようなものではないというのが、大きな象徴である。「私の話した言葉によってあなたがたはすでに清くされている」は実にヨハネ福音書らしい描写である。「話した言葉」は単なる言ったことではなく、イエス・キリストの生きざまそのものを語っている。神の子として生まれながらも、この世からは排斥されて、またその「世」に対して堂々と立ち向かい、ついには十字架の栄光に至るのである。ヨハネ書にとって十字架は決して、惨めな負けた姿ではなく、この「世」に勝ったその栄光の出来事そのものであった。ユダヤ教保守層にも、ローマ帝国にも勝ったその瞬間だったのだ。その出来事の故に、私たちはどんなに苦境に立たされ、踏みにじられても、けっしてそこに敗北や滅びは無い。むしろ、あるのは主の栄光そのものなのである。その意味では、新米牧師の研修会で、ネクタイをしていないという一点において、罵倒された私は、その瞬間に保守権力層に勝利したのだとうことを改めて思い起こすことになる。皮肉なことに電力消費を減らすためのクールビズが政府から勧められていて、ノーネクタイが逆に保守にすらなってしまっている現在をみると、キリスト教の教団ですらが、いかに無価値なものに対してこだわりを持ち、聖書から逸脱し、本来、聖書にある通り、「清くされ」た者に暴力をふるっていたかがよくわかるのである。
 暴力は一番わかりやすい暴力団に代表されるものにとどまらない。現代の保守化したキリスト教教団、あるいは教会においても、「聖なる」ものとして、弱者に対して振るわれているのだ。中世の十字軍顔負けの状態だ。で、あるならば、私たちは「まことのぶどうの木」たるイエス・キリストにつながっているべきである。κἀγὼ ἐν ὑμῖνカグゥー エン ヒュミーンは「私からあなたたちにつながっている」と訳されるべき個所でもある。社会や保守層から疎外され、様々な意味での暴力を受ける時、私たちは自覚し、信じるべきである。あの主イエス・キリストこそが、そうではなかったか、と。そして、そうであるからこそ、主イエス・キリストの方から、保守や暴力にさらされている私たちにこそ、繋がってきてくださっているという、主の真実を発見するのである。
by qpqp1999 | 2012-05-06 12:30 | キリスト教

鏡の中

 成功してからのプリンスは大々的に、キリスト教色強いというか
もうパープルレインまで「イエス・キリスト」の歌にしちゃったけど
マイケルはというと、宗教よりではなくて社会派だったことがわかる
 そりゃお金持っていたから、色々と言われていたけど
この人やっぱり好きだな。
この曲、歌詞がすごくよくて、字幕つきの動画ないものかと
思って い た ら ありました
なかなか削除されないとこみると
この動画観た人が感動して「ムーンウォーカー」買うのを
期待しているのかもしれない

by qpqp1999 | 2012-05-03 19:30 | 音楽