牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

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みす・ゆにばーす

 性転換って・・・テレビで言ってる言葉にちょっと戸惑った。確かに、今のところ性同一性障碍というのはかなり最先端な言い方で、未だに・・・。私の診断書も「性転換」になっている。
 ミス・ユニバースのカナダ予選に出場したジェンナ・タラコバさんが性別再判定手術(これを性転換、性転換手術という・・・)だと分かって失格となったことで、差別だとの批判が高まっている。
 美しいブロンドの髪、すらりと伸びた長い脚を持つタラコバさんは、バンクーバー出身のモデル。男性として生まれたが違和感を感じ、19歳のときに性別再判定手術を受けた。これ日本じゃかなり難しいです。カナダ予選に出場して最終の65人に残ったが性同一性障碍と分かって失格となり、差別だと主催者を非難している
 ちなみに反対の声を一夜にしてあげたのは三万人だそうです。
ジェンナ・タラコバさん、もちろん美しいし、すごい可愛い顔立ちの方ですね
画像さんしょうぅぅぅ
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by qpqp1999 | 2012-03-30 14:50 | 性同一性しょうがい

わんせぐちゅーなー

 iPhoneのワンセグチューナー、テレビが観れるやつを前から物色していましたが、バッファローのが信頼性高いだろうと思って購入することにしました。
 しかし家電量販店とアマゾンとどっちが安いかを検討する。家電量販店に行って、同じ機種を捜してもらうと(かなり一所懸命探して下さった)が家電量販店の方が3000円くらい高い。そりゃアマゾンにしますよね。明日くるし・・・。送料無料だし・・・。ついでに家電量販店でたたき売られてたバッテリーチャジャーを買ったがワンセグチューナーは捜したけど「あ、いいです」と言ったら店の人が、すごいムカついたた顔して、「ちっ」と言った。それくらいでは、びびりません。貧乏人なので3000円が決定権を握っているのです。
 このバッファローのワンセグチューナー4000円代でアマゾンで手に入りますが。多分、すごい受信するのに時間かかると思う。たぶんそれが理由で値段が半額くらいまで下がっているのだろう。承知で買います。万が一東南海地震が起こった時のためのツールです。バッテリーチャージャーも四種類くらい装備しています。一週間は持てる電源です。食料と水は近隣の人にも分けられるくらい持ってないと、自分だけ持っててもだめなので、戦に行くくらいの兵站を確保しています。
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by qpqp1999 | 2012-03-28 19:18 | iPhone

スマホ

 私のブログはアクセス解析が出来るようになっています。アクセス数がどのくらいあったかどうかというもの。
 今日初めての統計はアクセスしている端末の半数以上がスマートフォンからだったことです。それまでは、五分の一くらいか、多くて三分の一くらいだったのですが、半数以上です。一方、普通の携帯電話端末からは十分の一くらいに激減していました。
 世の中だんだとスマートフォンに以降してきているんですね。みなさんは、どんな端末使ってらっしゃいますでしょうか。
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by qpqp1999 | 2012-03-27 20:15 | スマートフォン

生きてるキャラクター

 漫画のネーム第一稿、あげた。今回は、なかなか、スパイスが無くて話がなかなかできなかった。
 でも不思議なもので、パソコンの前に座って、お気に入りのBGMを流して、いよいよペンタブレットに向かうと、自然に次のコマ運びが流れ出てくる。
 そして、自分でも意外な方向に話が展開していく。そして、当初、悩んでいたモチーフがぴったり合わさる。キャラクターが生きて、話の中で動きだすという、不思議な現象。
 正直言って、今描いてる「ノブナガール」の1st season、サイボーグ戦と戦国時代編は超駄作だった。11話からの2nd season異世界編は気にいってる。できれば1st season無しにしたいけど、電子書籍なので、ずーっとアマゾンに残ってしまう。
 うーん・・・
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by qpqp1999 | 2012-03-26 19:47 | 漫画

久しぶりだ

 なかなか漫画の構想がまとまらない。こういう時はいい映画を観て刺激を受けるのがいい。なのでツタヤは貴重な存在だ。
 デイサービス終わって、へろへろになりながら、もちろんすっぴんでカウンターに行ったら店の女子店員(二十代前半くらい)がかなりムカついたような顔をしながら、私のカード入力しつつ、こっち睨みながら、
 「こちら、松本太郎さんのカードですね」
と言うので、地声で
「はい」
と言うと
「た ろ う さんはご来店ですか?」
と訊いてくるので、?と思いながら
「はい」
と言ったら、
「次回からは太郎さんがレジまでおいでください。ご本人以外の方、奥様でもこの会員証はお使いになれません」
と言われた。
おいおい、パスしちゃった(生物学的に女性だと思われた)よ(あまりいい言い方ではない)・・・。久しぶりだな、最近はもう、パスするの諦めて、オッサンもーど全開で行動していたのだが、これからは女声を使うようにしよう、歩き方もドカドカ歩くんじゃなくて、モデル歩きにしようと思った。
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by qpqp1999 | 2012-03-20 18:55 | 性同一性しょうがい
四旬節第四主日礼拝説教 ヨハネ福音書3章13-21節
 四旬節の第四週の主日にこの個所が選ばれているのは、「天から降り」「上る」という言葉と「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」というイエス・キリストの十字架と復活の出来事が示されているからである。確かに、ヨハネ書記者は、この言葉にイエス・キリストの十字架の処刑死と復活を考えている。では、この言葉がどのような文脈で現れてきたのかというと、3章1節からはじまる「ファリサイ派に属するニコデモという人」が夜陰に紛れてイエス・キリストのところに問答しに来たところから発している。ところが、最初は二人の会話になっているのだが、11節になると一人称も二人称も複数形に変わってしまって、13節以降はイエス・キリストご自身がご自身のことを客観的に語り出してしまっている。これは伝承の乱れではない。記者ヨハネが意図してそのように変化させている。ここに至って「あなたがた」はユダヤ教保守層であり、「私たち」はキリスト教徒側であることになる。ところで、問題はこの点にある。単に、ユダヤ教とキリスト教の対立構造にだけ話を縮めてしまうと本来の記者ヨハネの意図から外れていってしまうのだ。現代ではキリスト教徒はむしろ多数派の保守層であり、ユダヤ教徒は少数派になっていて、コンテキストが、この福音書が書かれた紀元1世紀頃とは全く反対になっていることにまず気付かねばならない。そうでないと、単なる新興宗教の一種になりさがってしまうのだ。単純に十字架の贖罪と復活を「信じる」ということと、この記者ヨハネが語っている「信じる」ということとは全く違うことであるということを明確にしたい。
 決して、キリスト教の贖罪の信仰を放棄するわけではないが、明らかにヨハネ書での「信じる」は所謂「贖罪」の信仰にだけ留まるものではなく。まさに新約聖書の最後に書かれた書簡として、聖書全体のとりまとめをし、現代で活き活きとしたものにしているのだ。
 それは16節以降に発見することができる。有名な「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された」から始まる文脈である。いかにもキリスト教的な個所なのだが、この16節以降は意外にキリスト者が忘れていることを指摘してもいるのである。
 まず多くの場合「独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」というキリスト者にこよなく愛されている個所だが、ここで「信じる」とは何を意味するのかをヨハネ書的に考えなければならない。ヨハネ書はイエス・キリストにあって「この世」と対立することも辞さないほどに、実存的な「生き方」を主張した福音書である。実際、紀元1世紀はローマ帝国のドミィティアーヌスのキリスト教迫害と、ユダヤ教のヤムニア会議におけるキリスト教の異端決定の経緯の中で、キリスト者として生きていくのが、物凄く辛い時期だったことを考えねばならない。キリスト者として生きていくということは、当時の法律で禁じられた教えを信じるということであり、社会に対抗して生きていくことを余儀なくされた時代だったのだ。その意味で、この「信じる」というπιστεύωνピストゥーオンという言葉は、私たちが思っているより、もっともっと実存的であったことを真剣にとりあげなければならない。ただ単に「贖罪」の信仰に留まるに終わらず、信じているのならば、それなりの生き方があると書いてあるのだ。πιστεύωνピストゥーオンは「信じる」と訳されているが、これは「信頼する」と訳することもできる言葉である。カトリック教会のフランシスコ会の本田哲郎司祭は「信頼してあゆみを起こす」とまで意訳している。実際、その方がわかりやすく、単なる熱狂的福音主義、すなわち、贖罪信仰だけ信じていればそれで全てというあり方から脱却できるであろうし、事実この先のヨハネ書はそう書いている。「永遠の命を得る」というのは、単純に洗礼を受けて礼拝出席だけしてればよいというようなものではない。まさにヨハネ書の教会が立たされていた、非合法組織の一員となること、反社会的人物とみなされることが「独り子を信じる」と同義だったことを考えれば、その重みは更に伝わってくる。「信じない者は既に裁かれている」という断罪的な言葉、μὴ πεπίστευκενメー ペピステケーンは「信じない」というより「信頼しない」という意味のほうがよりヨハネ書的ではないだろうか。実際、犯罪者として断罪されることを恐れ、社会からそむけられることを恐れ、「独り子」に「信頼」しない者は「裁かれている」のである。この「裁」くもκρίνεταιクリネタイで法的に「裁く」という意味と「分割する」という意味がある。苦難の中で「独り子」に「信頼」するのか、しないのかという問題において、その人が「滅び」るのかどうかにかかってくるのである。この段階で既に、贖罪の神学は遠のき、いかに苦難の中で「独り子」に「信頼」して、つまり「信じ」て生きるのかが問われる構成になってくるのである。こんなに、キリスト者にとって、当たり前だった聖句だが、よく読んでみると、うわべをつくろっているだけの、所謂「信仰」はここでは否定されるのだ。私たちが、ああ、自分は洗礼を受けているから「信じ」ているので救われているのだと、高慢になるのではなく、反対に、「信じる」ということは、自分をとことんまで危機的な状況にそれがおいやるとしても、そこに追いやっている元凶である「独り子」に「信頼する」「信じる」ことが発せられているのである。それがヨハネ神学である。まさに十字架の上で悲鳴を上げるような救い主ではない。モーセが蛇の解毒のために掲げた蛇の像のように、私たちが命をかけて「信頼」できるお方であると発しているのだ。「神の独り子の名を信じていないからである」の「名」はὄνομαオノマで「権威」という意味もある。単純に名前を連呼するという行事ではなく、そこに苦難の中にあっては隠されている「権威」を信頼していないことが追及されているのである。
 「光が世に来たのに、」「光よりも闇の方を好んだ」それが「裁き」だという、つづく「悪を行う者」と続くので、まるで、善良であれと言われているような錯覚に陥ってしまうが、そんな短絡的な意味ではない。ヨハネ書の時代キリスト者であることは善良ではなかった。そんな道徳的なことを言ってはいない。「悪」はπονηρὰポネラで単純に「悪」を意味してはいない、むしろ「辛くあたる」というような意味である。本田司祭は「威圧的」と訳している。現代キリスト者にとってはこの訳のほうがよりヨハネ書的に聖書に触れられる。「真理を行う者は」「神に導かれ」というくだりも「真理」ἀλήθειανアグレーセアンは「真実」であり、ἐν θεῷ ἐστιν εἰργασμέναエン セウー エスティン エレガセメナは「神の労働によって有る」とも直訳できる個所であり、決して、目の前にある、ともすれば社会的な抑圧に対しても神を、独り子の故に信頼して、立ち向かうことを意味しているのである。
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by qpqp1999 | 2012-03-18 13:00 | キリスト教

手作りフィギュア

 夏のワンダーフェスティバル、さすがに主日礼拝を年に二回も牧師が休むわけにいかないので、行けなくなりました。
 しかし、休暇として来年の冬ワンダーフェスティバルには行きます。そのために、届いた「ファンド」という粘土、これで今回は猫を作る予定です。右の写真は、最初にワンダーフェスティバルに参加した時に作った、あのハリウッド男優。ただの人物像として出品しました。
型は残っていますが版権の問題があるので、出品するのをやめるようにしました、漫画を描く際に顔のデッサンに使ってます。
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by qpqp1999 | 2012-03-13 19:32 | フィギュア

表紙モデル級だそうだ

あなたの女子力は 80 点
ファッション、ビューティ、健康、食、すべての女子力を兼ね備えたあなたはまさに表紙モデル級。美のカリスマ目指して女子力アップを続けましょう。
https://apps.facebook.com/bikatsu/
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by qpqp1999 | 2012-03-07 12:44 | 美容
四旬節第二主日礼拝説教 マルコ福音書10章32-45節
 マルコ書ではイエス・キリストは基本的にガリラヤで活動していて、この地はユダヤ世界では辺境の地であった。それが、いよいよ、ユダヤ教の聖地たる「エルサレムに上っていく」ことになる。エルサレムは確かに紀元前10世紀頃にソロモン王によって建てられた神殿であったし、バビロン捕囚の解放後にゼルバベルによって建てられたユダヤ教の聖地である。しかし、いま、イエス・キリストがの「上って」いこうとするエルサレムは、所謂「ヘロデ神殿」であった。ヘロデ大王は生粋のユダヤ人ではなく、また、ローマと結びつくことでその権力を保持していた。そうであるから、可能になった、神殿というよりは神殿都市エルサレムなのであった。これは、ある意味、権力の象徴ともいえるだろう。
 対するイエス・キリストの一行は、辺境からやってきた権力もなければ、学歴も無い貧しい民の集団であった。この対立構造は勿論、史実に遡るし、マルコ書の意図するところでもある。これは強い側にある人に対する弱い側に立たれる主の姿勢であり、挑戦である。そして無謀に近いものであった。だから、「イエスは先頭に立って進」むと「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」のだ。
そこで三度目の死と復活の予告がなされる。これは、これまでの中で、もっとも細かく語られたものである。ユダヤの宗教権力者から死刑とされ、酷い扱いを受け、ローマ帝国によって処刑される。しかし三日の後に復活するというものである。多くの場合、受難予告と言われ、復活予告と呼ばれることは少ない。だが、この予告はあくまでも復活を前提としていおり、この点においてはじめて、全ての敗北が勝利に逆転する真理を示している。
「そして」とやくされるκαὶカイは「しかし」とも意訳することができる。「殺す。しかし、人の子は三日目に復活する」である。負ける「しかし」勝利する、という構図である。
ここで、勘違いした弟子のヤコブとヨハネが抜け駆けする。この二人の弟子は、いつもならペトロとセットになって出てくる弟子だが、この兄弟だけはペトロも無視してイエスに言い寄るのだった。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人をあなたの左に座らせて下さい」と言う。簡単に言うと右大臣左大臣というところだ。
この二人が「とき」をこの世のものとして理解しているのか、来世のもの、イエス・キリストの再臨の「とき」のことと理解しているのかは不明であるが、どの場合においても、この「願い」は前述した、負ける「しかし」勝利するという、復活の概念を理解したものではない。そこでイエス・キリストは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分ってない」と答える。「この私が飲む杯を飲み」とまずある。「杯」は旧約聖書の理解では「喜び」の象徴であると同時に「苦難」の象徴でもある。ここにもκαὶカイ「しかし」の概念が入ってくる。そして、「この私が受ける洗礼を受けることができるか」と問う。この「洗礼」の概念はよく訳されるべき言葉である。単なる「キリスト教の入会式」みたいな洗礼とは断じて違うものである。Βάπτισμαバプティツマは直訳すると「身をひたす」という意味である。洗うとか、清めるという意味とは全く違う。洗うとか、汚れを清めるならもっと別のギリシャ語がある。マルコはわざわざこの「身をひたす」というキーワードを入れているのである。実際、イエスが洗礼者ヨハネから受けた洗礼、バプティツマは、ヨルダン川であった。この川は低みから低みへと流れる川であり、その低みの中に全身を沈めて、低みから改めて、歩みを起こすという、儀式というより、より能動的な働きの象徴であった。その最頂点が十字架の処刑死である。「彼らが『できます』と言うと」「確かにあなたがたは私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受ける」と預言する。実際、紀元44年にヤコブは初代教会の指導者として、当時のローマ側のユダヤ権力者ヘロデ・アグリッパ1世に剣で殺されている。この無理解で軟弱な弟子たちが、どうしてここまでに至ったかは史実が示しているとおりで非常に理解の困難なものである。その理解のキーワードがκαὶカイ「しかし」であろう。弟子たちはイエス・キリストを見捨てて逃げ去った負け者だったが、最終的には「しかし」殉教に至るまでして勝ったのである。しかし、実際にイエス・キリストの「栄光の時」それは最もみじめで敗北の骨頂たる十字架の処刑において明らかにされたのだった。そして、その右と左に同じく十字架で処刑された者について触れねばならない。処刑にするだけならば、ユダヤ教での石打ちでもよかったはずなのに、どうして、十字架なのか。十字架の処刑はローマ帝国の管轄で行われる、最も過酷な処刑方法であった。まず鞭打ってから刑場まで十字架の横木を担がせて歩かせる。しかし、この時点で鞭打ちによって瀕死の状態になっているのが通常であった。映画「パッション」の影響で鞭打ちの壮烈さはよく表現されたが、あたかもイエス・キリストだけがそうであったかのように描かれているのは間違いである。ほとんどの場合、十字架につけられる前には鞭打ちを死なない程度に受けているものであった。この過酷な処刑は基本的に反ローマとしての罪人がなるものであった。何故、ローマ帝国にとって何等の脅威でもなかったのに十字架刑に処せられたかは議論の多く生じるところである。「私の右や左に「は、定められた人々に許される」とあるイエス・キリストと同じく死なない程度に鞭打たれ、十字架に右、左に処せられたのは明らかに反ローマ帝国の活動をした者である。単なる、罪人ではない。むしろ、ローマ帝国の圧政に対して立ち向かった、弱い側にいた人々であった。そのような人々こそが選ばれるのである。「定められた」はἡτοίμασται.ヘトイマスタイで「準備された」「鍛えられた」と訳されるものである。まさに十字架で処刑される者とはそいうう者であった。そしてやがて弟子たちも皆そのようになるのであった。「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた」「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい、人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」「身代金」λύτρονリュートロンはユダヤ社会において、奴隷や捕虜を解放するために支払われるものを意味していた。であるので、「多くの人の解放の代価として、自分自身を差し出すため」と訳されるべきものであろう。多くの人はあらゆる意味で「上に立とう」と努力して生きる。そういう有り方から、イエス・キリストの十字架の出来事は解放してくださるのである。単に罪からの解放に留まるべきではなく、むしろ高みを目指そうとする苦難から解放され、反対に低みから歩みを起こすという信仰のあり方がここに、主イエス・キリストの奇跡として与えられることを学ぶのである。
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by qpqp1999 | 2012-03-04 12:49 | キリスト教

ギリシャ語

 ゴスペルクワイアの練習終わって、漫画書いてたらこんな時間になっちゃった。
 私がギリシャ語、得意ではないのは、かなり父親のせいがある。神学大学でギリシャ語を教えてくれてた先生。この先生当時四十代くらいだったろうか、娘さん、小学校、高学年になるか、ならないかくらいの方が白血病だった。その闘病生活は大学内の寮に私は住んでいて、先生は大学内の職員舎に住んでおられたので、時々見ていた。
 武蔵境の駅の階段を血相変えて、娘さんを抱きながら必死で駆け上がっている先生を幾度となく見た。大変だと思った。
 とうとう。ある日、その娘さんが亡くなった。ここで、あえて天に召されたとは書きません。その先生にとっては、その行き先が天国であっても、行ってほしくなかったからです。そんな、気がしていて、前夜式にも葬儀式にも参列させていただいたが、小さな棺があまりにもかわいそうだった。多くの人々の前で涙を流す先生に対して...、かける言葉もなかった。
 そのことを松阪の父親に連絡したら、この父親が何を血迷ったのか、その先生に慰めの手紙を書いてしまった。一面識もないのに!!しかも内容といったら、「娘さんは天国にいますから、安心してください」というような、内容の手紙を送ってしまった。なんて無神経なと、当時の私でも思った。案の定、先生は凄く憤っておられた。
 そりゃそうだ、大事に大事にしてきた、それも白血病という、非情に厳しい病気との闘病生活をしてきて、なんとか生きてほしいと願い、全生活をそれにかけてすらいた先生が、その娘さん、まだ小学生低学年の子供ですよ、その大事な娘さんが亡くなってしまって、泣き叫んでいるというのに、そういう人に「天国にいますから、安心してください」なんて天国のごり押しであり、決して福音ではない!!!
 おかげで、私まで憎まれちゃって、もっともだ・・・・ギリシャ語の授業のしつらかった事といったら・・・。これは私の問題なのですが・・・。
 でも、意外に多いんですよね。牧師でそういう、人の痛みとか悲しみとか、そっちのけで、「洗礼」とか「天国」とか、ばっかり大事にする人。そりゃ、天国に行ったに決まってるでしょう!!!それより、今、牧師に問われているのは、その別れの悲しみの中にいる人とどれだけ、その悲しみを共有できるかであって、諭したり、云々やるような奴は牧師じゃない!!!
 例外があるとすれば、自殺で亡くなった遺族に対してです。この場合には特に、自殺が何故か、あらゆる宗教や、社会的概念で「忌み嫌われている」からこそ、 何を言う、自殺した人こそ天国に入ってるに決まっていると主張すべきだと私はキリスト教のあり方としてあるべき姿だと信じています。
 そういうわけで、ギリシャ語のクラス過程を経てから、私は一緒懸命にギリシャ語にうちこむようになりました。たとえ、説教のゼミで、私があまりにもつたないギリシャ語を読んだのに聖書学の先生が苦笑したとしても、私は私なりに一緒懸命にやったんです。それは、今の説教つくるのにも繋がってます。活かさねばギリシャ語。
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by qpqp1999 | 2012-03-03 02:29 | キリスト教