牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

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顕現節第一主日礼拝説教 マルコ福音書1章14-20節
 マルコ書は共観福音書の中で最初に描かれたもので、紀元60年くらいと言われている。そしてマタイ書とルカ書はこのマルコ書を資料にして書いていることも知られている。顕現節第一主日の個所としてイエス・キリストの第一声が選ばれている。福音書の中で最初に書かれたイエスの言である。福音書の中の第一声ということで非常に注目される個所だ。
 マルコ書において「ガリラヤ」と言う場所は特別な場所だ。いわば社会の底辺にあたる場所なのだ。史実においても反ローマ勢力のゲリラの拠点でもあったし、貧しい人々の住む場所であった。マルコはわざわざ、この「ガリラヤ」をイエス・キリストの活動の拠点とする。そしてエルサレムに行き、数日で処刑され、復活した後に「ガリラヤ」にもどるという構図がマタイ書の流れの中にはっきりと表れている。その意味で「ガリラヤ」は大事なポイントなのだ。つまり、社会の上層ではなくて底辺からの出発というモチーフが掲げられているのである。今日の個所で、最初の弟子たちが選ばれるが、彼らは漁師だった。漁師は安息日の前日を超してまでも血にまみれた作業をする職業であり、賤業とみなされ、当然、罪人の中に含まれて生活せさぜるを得ない人々だった。わざわざ、選ばれたのだ。
 だが、最近本田哲郎司祭の功績もあって「小さくされた者」がにわかに注目されはじめている。しかし、「小さくされた者になろうろ」「へりくだろう」「貧しくなろう」ということほど偽善にまみれているものはない。そのような姿勢がどれだけ「貧しく」「小さく」された者を侮辱し、傷つけていることか。かといって、と、言われてもどうしていいやら解らなくなってしまうのが現実であろう。私自身、日本福音ルーテル京都教会の牧師であった頃、釜ヶ崎で越冬の夜回りで毛布やおにぎりやお味噌汁などを配っていた時、やっとの思いで寒い中眠りについた野宿を余儀なくされている方に声をかけるのに抵抗を感じていた。ある時などは声をかけると、「しのぎ」と呼ばれる強盗に間違えられて、悲鳴を上げられたものだった。反対に、ある人に毛布を渡そうとすると彼は「あんたはどうすんの?」と真顔で訊かれて、内心ホッとしたものだった。全くもって偽善に凝り固まっているのだった「神の福音を述べ伝えて」の「福音」とはそもそもそ何なのか。高校生の頃の私なら即答で「イエス・キリストを救い主と信じること」と答えたであろう。大きな意味では間違っていないが、そこに込められているのはイエス・キリストの贖罪の信仰を持てば救われるというものだった。マルコ書の「福音」はそうではない。また「神の国」もいわゆる天国を指すのではない。βασιλεία τοῦ θεοῦバセレイア トゥ セオウは神の支配、神につながる世界を意味している。主の祈りの「御国が来ますように」と同様である。ここで、問題になるのが聖書の訳である。μετανοεῖτε καὶ πιστεύετε ἐν τῷ εὐαγγελίῳメタノイテ カイ ピスティウエテ エヴァンゲリオである。新共同訳では「悔い改めて福音を信じなさい」になっている。「悔い改めて」はμετανοεῖτεメタノイテで、名詞になると有名なメタノイアになる。しかし、「悔い改め」ろと言われても、よほどの悪人でない場合、大抵は真面目に生きてきた、万引きとかしない人であるから、どこを、どう悔い改めていいかわからななくなる。結果として「へりくだろう」「貧しくなろう」になってしまう。そこで.このメタノイアという言葉をよくみてみると、メタは「超える」「変える」であり、ノイアはヌースで「筋道」「道理」ということになる。多くの私訳がなされているが、ここで改めて訳してみると「筋道を超える」「道理を変える」である。単に「心を変える」ではない。イエス・キリストの視点に立って「筋道を超える」ことであり「道理を変える」ことなのだ。では、イエス・キリストの視点とは何だったかを問うならば、それは「ガリラヤ」を活動拠点においたことであり、最初の弟子を賤業である漁師にしたことである。しかも、神がかり的にシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネが「ついて行った」のである。ここに「福音」「神の国」のポイントがある。主が弟子をお選びになる。それは賤業の漁師であった。エリートのインテリではない、正反対の地位も無い、学も無い差別されている人々だったのだ。
 「悔い改めて福音を信じなさい」と新共同訳で訳されているが、「筋道、あるいは道理を変えて福音に信頼しなさい」と私訳するものである。「信じなさい」だと、まるで、魔法を信じるかのような錯覚に陥ってしまうが、「信頼」するならば、より身近なものとして体感できると思ったからだ。そして、「筋道を変える」「道理を変える」というのは、あらゆる既存の概念を捨て去って、自分自身の価値観すらも捨て去って、主であるイエス・キリストにおいて実現した「福音」に照らし合わせて、生き方を変えなさいということになるだろう。ここにキリスト教のキリスト教たるゆえんがあるといえるだろう。これを実践するならば、キリスト教という宗教は時に、宗教を超えるものでさえある。というのも、本来あるはずの宗教の「筋道」「道理」というものをイエス・キリストの視点から変えることによって宗教の壁を越えてしまうものだからである。
 たとえば、原始キリスト教会はユダヤ教以外の何物でもなかった。使徒書を見れば、割礼がどうしたこうしたとかユダヤ教絡みのことがたくさん書かれている。つまりキリスト教はキリスト教という宗教という枠に留まらない大きさをもった主の働きそのものなのだ。ただ、ユダヤ教と違ったのはイエス・キリストという「福音」があるか無いかであった。そして、この「福音」こそメタノイアそのものであり、それこそがキリスト教の主軸となるものでもあった。それは賤業たる漁師を真っ先に弟子にするという姿勢であったし、「ガリラヤ」という地域を選んだ姿勢でもあった。
 そうであるから、もしも対する人がキリスト教徒でなかったとしても、主イエス・キリストの視点からして、それは「筋道」「道理」に叶う人であるならば、無条件に受け入れ、痛み、悔しさ、無念さを共有することが求められるようになってくる。その「筋道」「道理」とは主イエス・キリストがお選びになった、人々から差別されている人たちであり、世から抑圧を受けている人たちであり、そこに痛み、悔しさ、無念さを抱えている人たちであった。これが、マルコ福音書の主イエス・キリストの第一声なのである。
 かくして我々はキリスト教が通常の宗教とは違うことに気づくことになる。あくまでも、主イエス・キリストの視点から洞察し、考え、行動する。ここに「福音」がある。というのも、「福音」は単なる絵空事ではなくて、実際にそのように洞察し、考え、行動する私たちに奇跡を与えて下さる生ける主の働き「神の国」だからである。
by qpqp1999 | 2012-01-22 12:23 | キリスト教

とうとう体にきた

昨年の11月下旬頃から
急激に忙しくなってきて
12月に入ったら、教会、漫画。デイサービス、ゴスペルクワイアのライブと
重なってきてえらいことだった
全部終えた次の1月
体力的に、時間的に、物理的に無理だから
やめてくれと昨年のクリスマス前から口を酸っぱくするくらい
言っておいた
教会のお子様向けイベント
「新年お楽しみ会」
阿呆か!!!
両親が勝手に暴走して子どもたちに案内出したら
10人もあつまっちゃった

両親は何もしない
するのは私
だから出来ないって言ってんのに、無理やりやらされる。
やる限りにはしっかり子どもたちに楽しんでもらわないとだから
そりゃあ、一生懸命やりましたよ
子どもたちは楽しんでくれました。
帰りしなは自動車の後部座席から姿が見えなくなるまで
手を振ってくれました。

喉が痛いのがハンパでなくなってきた
一晩一睡もできずにコーラと喉に吹き付ける薬でしのいで
月曜さあ病院行こうと思ったら
休日じゃねえか!!!
市販薬でしのいで
その晩も一睡もできずに
つまり二日寝てないわけだ
やっとのことで病院に行くが
なんで、そんなに健康そうな人がいっぱいいるんだよ
と言う感じで病院は満満
2時間まってやっと診察してもらって処方してもらう
薬できるのまつのに25分
朝8時半にはついたのに家に戻ってきたら12時じゃないか
でも漫画の締め切り落とせないので漫画、日曜に失った時間分まで描く
締め切りはまもったそれが水曜日
そしたら木曜に父親がインフルエンザになって帰ってきた
病原はお前だと言われ
デカい病院で検査、鼻にチューブつっこまれたりレントゲン撮ったりした
肺に白い影が・・・
MRI撮った
結果は陰性、私は病原じゃなかった
しかし
肺炎になっていた
だから無理だって言ってたのに
入院寸前の状態だったよ・・・
それが金曜日
デカい病院のデータ持って、また今日かかりつけの病院へ
抗生物質もらいに行く
やっばり2時間待たされる
2時にはついたのに
帰ってきたら6時じゃないか
これが今日、土曜日。
もう、へろへろになりながら、なんとかかんとかおかゆ食べたら
父親が元気そうにしてやってきて
「顔色が悪いぞ。大丈夫か」
私、半ばむかつきながら
「だから肺炎なんだって」
と言うと
「体調管理せえよ、死ぬぞ」
って・・・
お前らの暴走のせいでこうなったんだよ
ばかやろー

by qpqp1999 | 2012-01-14 19:08 | キリスト教
顕現主日礼拝説教 マタイ福音書2章1-12節
 福音書の中でマタイにだけみられる伝承である。まず、この個所を読むにあたって、クリスマスページェントのことは忘れなければならない。このクリスマスページェントのおかげでルカ書とマタイ書が合体されてしまって、それが多くのキリスト教徒の聖書理解にすらつながってしまっていることは問題である。ルカ書では罪人の代表である羊飼いたちだけが、救い主の知らせを受けた。マタイ書ではまず最初に異教徒の祭司がこの救い主の知らせを星占いによって受け、ヘロデ大王を中心にエルサレム中が拒否したのである。この点からまず、話しを起こすことで、顕現主日の恵みが与えられるのではないかと思う。
 「占星術の学者」とあるがμάγοιマーゴイはギリシャ語ではなくペルシャ語のギリシャ語読みなので、この「占星術の学者」はゾロアスター教の祭司。当時、ゾロアスター教の祭司は占星術つまり天文学の専門家であったし、薬学、夢解釈にも通じる学問的な権威でもあった。現代のマジックの語源にもなっている。しかし、ユダヤ教からしてみれば、救いの外にいる異教徒に違いはなく、汚れた宗教の祭司であったことは間違いない。
 そして、マタイがイエス・キリストのメシアとしての証拠として、一つの問題をかかえていたことが、はっきりする。それはイエス・キリストが「ナザレ者」と呼ばれていたことである。尤も、マタイ書の2章23節でそれすらも「旧約聖書」の成就として解釈してはいるものの、それだけでは不十分だと考えられたのであろう。新たに、イエス・キリストの誕生の地がベツレヘムであったということを強調していることは確かである。マタイ書はルカ書とちがってヨセフにまつわる伝承を冒頭に用いているが、今日の個所ではヨセフは一切登場しないばかりか、「幼子は母マリアと共におられた」とあるので、まったく別の伝承をたくみに編み合わせていることがわかる。特に、マタイ書ではヨセフとマリアは、はじめからベツレヘムに住んでいたことになっている。「家に入ってみると」からもわかるように、ここに飼い葉桶の登場する暇はないし、おおよそ家畜のための小屋や洞窟ではないことは明らかである。
 「占星術の学者」が赴いたのはエルサレムのヘロデ大王のところであったことになっている。ヘロデ大王はエドム人で、その出世のためには幾度もの危機を乗り越えてきた大人物である。特に、ローマ帝国の第二回三頭政治の動乱期にはアントニウスに親しくし、ユダヤの独立を保ったし、やがてオクダヴィアヌスが全権を支配すると速やかに命がけで談判してその政権交代の波にも乗ったのだった。確かに、その政権の維持のためにハスモン王朝の血をひくマリアムメとその息子、その他の息子たちまで粛清した事をみれば極めて冷酷な人物でもある。晩年は精神的にも健康的にも壮絶なものではあった。であるので、この「占星術の学者」を送りだす時に、尾行をつけないというのはおかしな話であるしマタイがいくつかの伝承を編集していることは間違いない。マタイの意図としては、まずはイエス・キリストはベツレヘムで生まれたこと、そして何故「ナザレ」に住み移ることになったかをこの、物語によって説明しているわけである。
 そこで、私たちは主の顕現について、この個所から恵みを受けることになる。マタイはただ単にベツレヘムでの誕生、エジプトへの逃避行を描くためにだけこの物語を書いたのではない。おどろくべきは異教の祭司が「ひれ伏して拝」んだことであろう。イエス・キリストの顕現、福音というものは、多くのキリスト教徒が考えている以上に宗教という枠を超えた奇跡であるということである。イエス・キリストはキリスト教徒だったかといえば、断じて違う。最後まで生粋のユダヤ教徒ではなかったか。
 つまり、この異教徒たる「占星術の学者」が「ひれ伏して」「拝んだ」ことから主イエス・キリストの顕現というものは、その人個人、一人ひとりにもはや宗教の枠を超えて与えられる恵みだとわかる。極論するならば、キリスト教の教会で洗礼を受けていなければ、その顕現に与かれないというものではないということだ。そのような、ことを言い出したら、たとえば、中世において幼児洗礼を認めなかった再洗礼派があったではないか。そうなると、一体、どちらの洗礼が正しいものだったのかという意味の無い議論をしなければならなくなってしまう。そこで、改めて今日の個所に向き合ってみると、マタイは「旧約聖書」の引用の際に大きな変更をなしている。当然マタイは七十人訳聖書を知っていたであろうから、これはあきらかにマタイが勝手にこの個所に都合よいように変更している部分がある。それはミカ書5章であるが、原典では「ベツレヘムよお前はユダの氏族の中でいと小さき者」となっている。これをマタイは「ベツレヘムよお前は決していちばん小さいものではない」にしている。七十人訳聖書の写本はすこぶる厳選であり、1世紀と4世紀の写本を照らし合わせても写し間違いはほとんど認められないものである。それだけに、マタイはわざわざ、この「小さい」を「小さいものではない」にしたことは、かなり過激なことなのである。ますますもって、異教の祭司によってだけ、救い主の誕生が喜びとなったのだ。
 そして、マタイは「小さいものではない」と変更した、その後に、またヨセフ伝承を組み合わせ、エジプトへの逃避行を急遽迫る。つまり、苦難の中に追いやられるという話しにつなげる。即ち、マタイの「旧約聖書」の改ざんは、「小さい」者を、改めて確認した上で、主イエス・キリストの顕現の前には「小さいものではない」という恵みを示しているのだ。私は時に、身の上にある重荷に耐えきれず、絶望の中に追いやられる時がある。朝、床から身を起こすことが異常に辛い時があり、目がさめた時にその絶望が頂点に達する時もある。しかし、祈りをもって身を起こそうとする時、場合によっては起きなくてもいい、そのような中でも私はイエス・キリストがこの世に到来したという事実をもって、その希望の原点とすることが可能になる。これは歴史的な事実なのだ。歴史に働きかけて恵みを与えられる主なのであるから、当然、現代を生きる私たちの生活の中にこそ、その顕現は発現することを信じられるのだ。「小さきもの」としてある状況、痛み、苦しみ、さびしさ、悔しさ、そして怒り、そのような中にある時、「小さいものではない。」として、そこに主イエス・キリストが顕現されることを知るのだ。それは、そのような苦難の中にある人と接点をもってイエス・キリストが与えられたという希望のうちに歩みを起こすことでもある。もはやこの次元においては宗教や、あらゆるイデオロギー等のハードルは取り払われ、救い主が与えられているという事実だけが、私たちを活かす恵みとして顕現するのだ。
by qpqp1999 | 2012-01-08 12:05 | キリスト教

いつまで休んでんだよ怒

 漫画の原稿刷り出そうとしたら、あと少ししか原稿用紙の備蓄がない!!!
松阪はド田舎なので画材屋が一軒しかない・・・正月三が日はまあ仕方ないとして
この私ですら元旦からずーっと仕事してて、この4日をどれだけ待ちわびたことか
今日もデイサービスから帰るついでにビデオ屋に行って(DVDになってんのになんでビデオ屋
なんだろう。しかしDVD屋って読んだらなんかHなDVDを連想してしまうからなのは私だけ!?!?)
そんでもってすごい遠回りして画材屋の前まで行ったら、隣の玩具屋(子ども用のね、おもちゃっていうとHなおちゃを連想してまうのは私だけか!?!!?)は開店してるのに
画材屋だけシャッター閉まってる。こんなことだから松阪市駅前はシャッタータウンになっちゃうんだ・・・
なんかシャッターに張り紙してあったが、せっかく行ったんだから読めばよかったと後悔してるが
もう自動車とめて降りる気力がなかったのでもう、帰ってきた、漫画の原稿進めないと・・・
尤もデータ入稿だから原稿用紙にいちいち刷り出さなくてもいいんだけど
なんか、昔からの習性で
漫画は最終的には原稿用紙に紙になんないと・・・っていう強迫観念にも近いものがある。
悔しいので、アマゾンで買うことにするかな
アマゾンプライム会員で送料無料でお急ぎ便だと
二日後にはつくしね
どうせ刷り出すのは最後でいいわけだから
はたまた、どうせ刷り出しの前にチェックのための刷り出ししてるわけだし
一応は紙になってるからな
 しかし、私一人がボイコットしても、ここの画材屋に何等の影響力があるわけでなし
我を張っても仕方ないか・・・
すごい無力だな私・・・
by qpqp1999 | 2012-01-04 14:36 | 漫画
すいません
もう昨年の12月は恐ろしく忙しかったので
あまりブログかけませんでした。
新年早々からまた漫画の原稿に入ります
というか
このデイサービスが休みの三が日に
できるだけ漫画の原稿進めたいのでした
今日、元旦はキリスト教では
主の命名日であり
イエス・キリストの割礼際です
というわけで
皆さま、あけましておめでとうございます。
by qpqp1999 | 2012-01-01 16:41 | キリスト教