牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

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讃美歌461番ブルース

絵コンテ、ネームの構想やっとまとまって
絵に入るにあたり
クリスマスシーズン終わっちゃいそうのなので
私の新生ルーテル教会での
クリスマスコンサートでの
私のレイヴの様子をupります
本当は、出演者の方々全部編集してダイジェスト版つくりたい
ところなのですが時間がなのいで
とりあえず私だけ
讃美歌461番の四節目歌詞が飛んだので
即興でつくりました
「松本太郎テレビ」どぞー

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by qpqp1999 | 2011-12-29 19:19 | ブルース

少年メリケンサック

「少年メリケンサック」無料配信してる
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つい先日DVD買ったばっかなのに
悔しいから
意地でもDVDで観てやるむー
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by qpqp1999 | 2011-12-26 20:41 | 映画

光るうんち

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子どもキャロリング無事終了
光るウンチ絶対子ども喰いつくよねと思って
卸問屋で買おうとしたが五つしかなかった。
寒い夜道を知らない家の人のために唄って歩いてくれる
こどもたちへのプレゼント、贅を凝らしたかった
40人以上いる子どもに対して
この光るウンチは五つしかない。
しかし、他の数そろえられた
ミッキーとかスティッチの40センチくらいある光る棒とか
8個もついてる光るプレスレッドの宣伝効果もあり
なんと40人中ちょうど5人だけが
チョイスしてくれた
それもちょうどキャロリングの最中に親しくなった
私の担当班の子だけに集中され、彼らが最も楽しみにしていたものだった
だけに主は共にありを確信した
明日は午前中デイサービス午後はイヴ礼拝とコンサートが待ってる
漫画の仕事ははかどらない
はやく薬のんで失神しよう・・・
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by qpqp1999 | 2011-12-23 22:54 | キリスト教
三重県の施設である
こどものためのプラネタリウムとかも備えてる施設
みえこどもの城 で 私の新生ルーテル教会の
新生ルーテルゴスペルクワイヤーの演奏があった。
今年で7年目くらいになるが今年はいつもとちがった
なんと開場したとたん人がなだれこんできた・・・
くつろいで座れる絨毯スペースも子どもたちで埋め尽くされている
今年は子どもに受けようとして宮崎駿関連の久石の唄とかドレミとか
ついにはマルマルモリモリまで演目に入れた
大正解めっちゃ受けました。
およそ120人くらいの子どもたちが最後のlet it be に至るまで聴いてくれました
upするのはゴスペル曲ばっかですが是非ご覧ください
「松本太郎テレビスペシャル」どぞー

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by qpqp1999 | 2011-12-19 19:15 | ゴスペル
待降節第四主日礼拝説教 ルカ福音書1章67-79節
 今年は降誕際主日が25日になっているので、今日が待降節の第四主日となり、アドベントクランツには蝋燭が四本点灯することになる。待降節は文字通り、救いが到来することを待つことを改めて再確認する教会歴における意義深い時期である。私たちは、この期間において、主の救いがもたらされる喜びを待つことを学ぶのである。
 .今日の聖書個所はルカ書にしかないものである。とはいえ、ルカのオリジナルではなくて既に、ルカの伝承の中にあったものである。ルカ書にはこの待降節にふさわしい、ルカオリジナルの個所が三つある。それはマリアの賛歌と、今日のザカリアの賛歌、そしてシメオンの賛歌である。これら三つはルカ書にしかみられない。しかし、ルカが福音書を書く時点で既にキリスト教の伝承として存在していた。ただ、あいまいなのはこれが、ユダヤ教の伝承であるか、あるいはユダヤ・キリスト教の伝承であるのかという点である。だが、その議論はこの個所を読んでいくのに有益なのは特にマリアの賛歌とザカリアの預言はユダヤ教色がつよいので、紀元前2世紀のマカバイ戦争の勝利の歌に遡るとも思われる。
 ザカリアの預言で際立っているのは、出エジプトの出来事、イスラエルの民族的な奇跡に基をおいて、イエス・キリストの降誕につなげているところであろう。「主はその民を訪れて解放し」という言葉はまさにそれを示している。イスラエルの民族は飢饉によって難民となりエジプトの地で日夜、日干しレンガを作らされているみじめな存在だった。非常に困窮し、苦しみの中にありまた、弱い存在として隅に追いやられていた民であった。実はこの状況は紀元0世紀のユダヤでも同様で、ローマ帝国の支配下にあり、ヘロデ大王亡き後は完全にローマ帝国の植民地になってしまった。また、人々の暮らしぶりも、相当な金額の税金をローマ帝国おさめなければならい、搾取される側の民族であった。そういった時代背景をルカは知っていたし、ルカが福音書を書いた時点ではもはやユダヤという民族は紀元70年のエルサレム陥落によって、絶望的な状況におかれていたから、このザカリアの預言は、その意味で本当の「解放」という福音についての司会進行の役割を果たしているのである。
 ルカ書はマルコ書と比較するとよくわかるのだが、とてもカッコよくその物語を展開している。それはルカ書独特の小さくされた者こそが、主にあってカッコいい展開をとげるという方向性をかもしだしている。ザカリアの預言こそ、その骨頂の一つである。セレウコスというアレクサンダーの後継者の支配に対抗して闘い独立を得たマカバイ戦争の勝利は、イスラエルの主にあるエジプトに対する勝利と同一視すらされていた。「それは我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくだる」のである。
 現代の私たちにこの預言がどのような意味を持つのか。それは、やはり当時のユダヤの状態におけると同様に、この社会にあって力なく、弱く、差別されている者にとってこそあてはまるものであり、またそうではない者にとっては、そういった人々との苦しみや悲しみや痛さの共有が大事なものになってくるのではないだろうか。それこそが、ザカリアの預言している内容の骨子なのだ。
 実にザカリア夫妻は高齢でありながら子どもがいなかった。おそらくザカリアのエリサベトに至っては月経もなくなっていたくらいの年齢である。そこに「天使」「ガブリエル」が現れてザカリアに「あなたの妻エリサベトは男の子を産む」と予告したのだった。天使が顕れるという異常現象に際してもザカリアはそれがバカバカしいことに思えた。そしたら、そのとたんにザカリアは口がきけなくなってしまう。事態は進展していってエリサベトはついに男の子を産むに至った。この子こそ後の洗礼者ヨハネである。ザカリアにとってはこれは衝撃的なことだった。というのは、ザカリアは「天使」の言葉すらも真に受けていなかったから、まさかそれが実現するなどとは思いもよらなかったのである。
 これは現代の私たちにもそのまま、当てはまることである。特に待降節第四主日においては私たちはこの絶対に成しえない、あるいはあり得ない、主の恵みに信頼すべきこと、また期待すべきこと、そのことを祈り求めることがルカ特有のカッコいい、著述の中で勧められているのではないだろうか。
 「敵の手から救われ、恐れなく主に仕える」という新しい歩みがここに、私たちの実存として発現することになるのである。待降節はある意味、主に期待する季節である。実のところザカリアは期待しなかった。そしたら「天使」「ガブリエル」この天使は唯一の女性の姿というらしいが、は「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる」という不思議な託宣を与えていく。そして、そのとおりザカリアは口が利けなくなってしまうのだが。主の業はどんどん進行していって、もうおばあさんになっているエリサベトが出産するという奇跡を目の当たりにする。この子、洗礼者ヨハネは歴史上の実在の人物であるので、これは大変興味深いところである。はたして、本当にエリサベトが高齢でありながら出産したかどうかを歴史的な事実として考えるのはもはや遊びの領域なので。議論しても意味がない。だが、このような伝承が残っているということは確かであり、ルカがそれを用いるべきだと考えたのも歴史的事実であることには注目したい。
 口が利けるようになったザカリアはその子どもについて預言した「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先だって行き、その道をととのえ、主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」と。この、「罪の赦しによる救いを知らせる」だが、ルカ書でのその後の洗礼者ヨハネの言葉は「蝮の子らよ」「悔い改めにふさわしい実を結べ」であったことを知る時、私たちはキリスト教会が専売特許のようにしてきた洗礼という「儀式」での「罪の赦し」と、ここでルカ書が書いている「罪の赦しによる救い」は別物であることを認識すべきだろう。「罪の赦し」と「悔い改め」は完全に結びついているのである。ではこの二つの問題をひも解く言葉を紹介しなければならない。それは「暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」である。つまり、これは個人的な問題ではなく社会的な問題として主の業として提議されている。この、うきうきするクリスマスにあって、私たちは「暗闇と死の影に座している」ならそれは照らされることを信じることができるのであり、また全ての人がその問題を共有してこそのアドベントなのである。
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by qpqp1999 | 2011-12-18 12:52 | キリスト教

聖書神学

私は聖書研究大好きだけど
最近
大好きって、どうなの・・・
と思うようになってきた。
特に、このブログで掲載している
私の説教には「史実のイエス・キリストの言葉に遡る可能性のある言葉」
みたいにして
福音書の中のどれが
史実のイエス・キリストの言葉かを
半ばわくわくしながら語ってきてしまった。
実は、ちょっと後悔している。
確かに、史実のイエス・キリストの言葉というのは
、それを福音書の中から
色々調べたり、勉強したりして
さぐりあてていくというのは
すごく魅力的なんだけども
それって、どうなの・・・
と思うようになってきた
だって福音書は、そういうなりたちの書物なんだから
そこから、これはああだ、こうだというのって
学問的かもしれないけど
遊びみたいな気がしてきた
ただ聖書学の学者がそれを探求するのは
それが仕事だし、いいんだけど
それだからといって福音書の構成は構成として
しっかり受け止めないと
福音書を読む姿勢としてどうかなと
思うようになってきた。
やっぱり、神学って
遊びの領域でやるものではない学問だと
思う。他の哲学とかならいいんだけど、
信仰を前提とした上で、するものだから
やっぱり、
遊びはよくないなと思うようになった。
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by qpqp1999 | 2011-12-16 15:47 | キリスト教

12月14日

12月14日
忙しいけどこれはブログ書かないかんでしょう
今日は赤穂浪士による吉良邸討ち入りの日。
1945年日本は「太平洋戦争に敗れた」
そして米軍は進駐軍を日本に駐屯させた
実は私の父はその進駐軍で働いていた
その名も
Counter Inteligence Corps 「防諜部隊」

そうです特殊知能部隊です
そこのどんな仕事を父がしていたかというと
厨房の仕事でした
父は大日本帝国海軍で主計兵をしていたので
料理ができた。
大阪府庁が
CICを通じて料理人を応募していた。
倍率は40倍、
40人の募集のうち一人しか雇われなかったが
父はなんとそれに合格したのだった
それがきっかけで敗戦の動乱期に
父の一家は食べ物に困ることはなかった。
そんな1945年の冬12月14日に
いつものように父が帰宅しようとすると
CICの門で米兵が重装備で警戒している
「何してるんですか?」と父が聴くと
米兵は
「あなた知らないんですか今日は赤穂浪士による吉良邸討ち入りの日ですよ
クーデターやテロが起こる危険が大きいのです」と
真顔で言ってたそうだから
不謹慎だけどすこし笑っちゃった
恐るべしは
米軍のそこまで踏み込んだ日本に対する情報の豊かさだ
別に赤穂浪士による吉良邸討ち入りの日だからって
だれもテロしないって・・・と思うんだけど
それくらい米軍は特に進駐軍は神経とがらせていたのだ
赤穂浪士の中では堀部安兵衛武庸
が好きですね
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by qpqp1999 | 2011-12-14 19:37 | 歴史

12月8日

今年も12月8日がきた
ジョンレノンの命日
真珠湾奇襲の日
なんか両方ともあまりいい話ではないが
奇襲攻撃に関しては真珠湾だけではなく
全方位でやっていた
ゼロ戦のエース坂井三郎さんは
フィリッピンを攻撃している
ただ、天候が悪かったので真珠湾の攻撃の方が先になった。
フィリッピンのアメリカ軍は真珠湾の攻撃を知り
戦闘機を上がらせていたが
待てど暮らせど日本軍からの攻撃はない
しょうがないから下りた

遅れて、奇襲攻撃されてしまったという。
また12月8日は
カトリック教会で
「無原罪の御宿り」といって
イエス・キリストの母マリアが
そのまた母アンナが
受精したその瞬間に
原罪を持たない存在たる
聖母マリアが誕生した日の祝祭日でもある
でもさすがに処女懐胎じゃないから聖アンナ様もセックスしたんでしょうね
なんでこの日になったというと1854年12月8日、教皇ピウス9世が
そう決めたからなんだけど
12月8日って色々重なりますね
ということで
12月8日の松本太郎テレビ再放送です
多分まだ、ご覧になってない方もいらっしゃると思うので
upります
どぞー

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by qpqp1999 | 2011-12-08 20:16 | キリスト教

聖貧

「まずしい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」
聖貧の根拠にすらなっていますが
私も貧乏ですねえ
あ、
その貧しいじゃない???
いえいえ、ちゃんと貧乏もこの「まずしい」に入ってますよ
ところが最近めちゃくちゃ忙しい
というのは
いくつもの仕事をかけもちしてるから
教会の司祭の仕事、特にクリスマスシーズンなのでヘヴィです
教会が運営してるデイサービスセンターでの生活相談員、介護員兼務の仕事
朝もはよから大変です
漫画の仕事、これはあるだけ有りがたいが
ものすごいヘヴィです
特に10日に締め切りを控えているのできつい
しかも11日はゴスペルクワイヤーが公共の場所で大々的に演奏するので
そのためのベイスの練習も怠れない、どころか
ゴスペルそのものの練習がヘヴィ
あと、席こそちゃんと芸能プロダクションに置いている
シンガーソングライターの仕事、ま、これは次のオムニバスCDのための
曲作りなんですが
そして、これは仕事ではないけど
ピアノのレッスン・・・
これだけ仕事してたら
さぞかし、お金持ちになれそうなものなのに
悲しいくらい貧乏です・・・
もう、貧乏なおかげで酒代気にして、飲酒量をコントロールしてるくらい
よく器用貧乏といいますが
私の場合
多忙貧乏だむ
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by qpqp1999 | 2011-12-05 20:16 | キリスト教
11月12日の続きを書きます
キリスト教において自殺は罪ではないという
主張には
キリスト教においての葬儀との関連があります。
圧倒的多数のキリスト教において
葬儀は残された遺族、知人、恋人のために
行われるものであって
亡くなられた方のためにするのではないことは
周知のことだと思います。
その意味で
自殺は
自殺で亡くなった方の
遺族、友人、恋人のために
罪であっては決してならないのです。
もはや、これは宗教性の問題です
天国に行けるとか
地獄に落ちたとか
成仏したとか
しないとか
そんなことは
自殺で亡くなった方の話しであって
残された
遺族、友人、恋人にとっては
もっと優先されるべき問題なんです。
ここで、自殺を罪と定めるならば
たたでさえトラウマを受ける事態であるのに対して
より悪影響を及ぼします
牧会的配慮からも神学的配慮からも
その意味で遺族や友人や恋人に対して
自殺を罪と定めることは断じてなされてはならないのです。
何故、死ななければならなかったのか
という
全く無限に問いが繰り返される
この自殺ですが
残された遺族、友人、恋人のためには
自殺は罪と定められるべきではないのです。
これはキリスト教の教える「愛」に根拠をおくこともできるでしょう。
もっとも、ここまで議論が進むと
聖書的にどうなっているかを議論しなければなりません
そこで次回は
聖書が自殺について発信していることについて書きたいと思います。
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by qpqp1999 | 2011-12-04 22:32 | キリスト教