牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

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植民地支配

私の好きな
日本の映画監督の一人が
崔 洋一さんです。
特に
「犬走る」
が好きです
ですが
崔 洋一さんが一年くらい前かな
NHKの「日本の、これから」
でパネリストをしてて
大日本帝国が朝鮮を植民地支配してたのを
肯定するような発言してる日本人青年に対して
「36年間にわたる植民地支配
がそれによって肯定されるという考え方の人は、
基本的に歴史を語る資格がない」
とかなり頭、暑くして怒って発言したんです
それ、ちょうど私、漫画描きながら観てたんですけど
私的には
崔 洋一さんに賛成で
よく言って下さった
こういうガキには
ガツンと言わなきゃと
思ったりもしたんです
崔 洋一さんは在日韓国人2世だし
当然それくらいガツンといくのは当然です
そしたら
その「基本的に歴史を語る資格がない」
という発言が
ネット中に出回ってしまって
崔 洋一=反日
みたいなことが
あっちこっちで言われだして
とうとう、ウィキペディアでも大々的に
書かれてて
インターネットの時代ってすごいなと思いました。
私が思うに
崔 洋一さんの言ったことは正しいと思います
詳細を書いてる奇特な人がupしてるので
参照します
http://dametv.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-b72b.html
これを日本人がどう受け取るかは
それぞれ個人の問題だけど
やっぱり
万引きが犯罪なのと同じように
植民地支配は犯罪だと
私は思います。
そして、
人殺しが犯罪なのと同じように
原爆や焼夷弾、等々による
アメリカの日本の非戦闘員の虐殺は犯罪だと思います。
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by qpqp1999 | 2011-11-28 18:52 | インターネット
HIVヒト免疫不全ウイルス
発症するとエイズと呼ばれる症状になる

異性間の性交渉より
同性間、特に男性同士の場合の方が
HIVに感染する確率が高いかを
考えてみました。
異性間の性交渉の場合だと
もう月経が無くなった女性とするので
ないかぎり
妊娠する可能性がありますので
男性も進んでコンドームをする確立が高くなる
ところが同性間での性交渉となると
アナルセックスしても
絶対妊娠しないので
生でしたがる男性が多いというのが
一番の理由だと思います。
実を言うと
アナルセックスをコンドーム無しですると
反対に挿入する側のペニスが
大腸菌関係で病気になるリスクが高いのですが
まあ、コンドームしない人が多いのです。
とはいえ、
異性間の性交渉でも
HIVに感染する確率は決して低いものではなく
3%といわれています
これは33人の人と性交渉をもったら
感染するという数字になりますから
決して低いものではありません。
たとえば今の彼女とか彼氏とかの
元彼女 元彼氏の そのまた元彼女 元彼氏の
そのまた元彼女の そのまた元彼氏
がHIVに感染していたら
感染することになります。
しかもHIVの検査は
その性交渉があってから8週間たたないと
結果がでませんから、
昨日、HIV検査陰性だから生で大丈夫と
言われても、そんなこと信用できるわけないのです。
私も、HIVに感染してる可能性を感じる関係があって
8週間まってるのはかなり不安なものでした
陰性でしたが
それがきっかけで
もう、相当に信頼できる人とでなければ
性交渉を持ちたいとは思わなくなりました
援助交際で不特定多数の人と性交渉をして
HIVに感染し、発症してエイズで亡くなった
若い女子たちの、その数の多さはおどろくほど
です
夜回り先生で有名な水谷修先生の話しでは
援助交際でHIVに感染した男のやることは
次の女子を狩ることだ
と言っておられたのが印象的でした。
セックスするなら
セイファーセックス
コンドームをつけてしましょう。
これは自分のため、愛する相手、あるいはその夜かぎりの相手であっても
その人のためです。
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by qpqp1999 | 2011-11-26 18:52 | HIV

いやあな季節がきた

今年もいやあな季節がきた
もちろんクリスマスだ
もう、いい加減にやめてくれないかと
思っているのが
新生ルーテル教会で行われる
キャロリングだ
尤も、うちのキャロリングは普通のキャロリングとはちがう
キャロリングとは
まさにキャロルを唄ってまわることなんだけど
クリスマスの降誕祭に
各家々の戸口で主に
「きよしこの夜」とかを蝋燭を灯して賛美する。

普通は信徒の家をまわる
のだが
うちはそうではない
子どもたちを集めて
松阪市内の慣れ親しんだ
人々の家々をまわる
それらの人々はクリスチャンではない

この、子どもを集めるのが
まず一苦労する
とにかくビラをまかなければならない
これが私にとっては非常にきついものがある
ただでさえ怪しいオッサンなのに
そんな人にビラを小学校の前で蒔かせるなんて
間違ってる。そうでなくとも、110番通報されて
パトカー3台くらいやってきて警官8人に取り囲まれて
バトルしたこともあるくらいだから
もちろん、わたしもいい加減のイベント無しにしたいが
両親が
「やらな、あかんの!!!」と
半ば、玉砕覚悟で臨むものだから
私もひきずりこまれるのだった
そこで、
今年はビラを蒔くときに
子どもを選ぶことにした
どっちみちキャロリングに集まってくれる子どもは
ビラをみて来てくれる子どもたちだから
こっちも来てもらいたいような子にしか
蒔かないことにした
つまり
いっかにも、悪ガキでキャロリングで
唄は歌わないし、蝋燭で遊ぶし、危険きわまりない行動を
とりそうな子どもにはもう蒔かないことにした
と腹をくくってビラまきすると
なんだよ
みんな普通にビラ受け取るじゃないか
こっちが選ぶ余地もなく
拒否する子どもの方が少ない
結局私が選ぶことはなかった
結局、やはり
この神聖な儀式のためには
主イエス・キリストが
お選びになるのだなと、つくづく思った。
だけど
クリスマスなんか大っきらいだ
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by qpqp1999 | 2011-11-24 20:27 | キリスト教
聖霊降臨後最終主日礼拝説教 マタイ福音書25章31-46節
 私は、殊更に宗教史を勉強した者でないから、こうきりだすのは今一つ不安ではあるが、私が知っているかぎり、神という存在と人という存在を愛と言う真理に基づいて、最も近づけたのは、その距離を限りなく近づけたのは歴史上の人物、イエス・キリストであろう。
 私が思うに、三世紀にわたって過酷な迫害と差別を受けたのにも関わらず、ふたを開けてみたら、三世紀にはキリスト教人口がたくさんになっていて、最初にキリスト教を公認宗教と定めた三世紀のローマ帝国皇帝コンスタンティヌスはすでにキリスト教が異端問題をかかえて混乱していることを初めて知って頭を抱えることにすらなっていたのであった。
 実際キリスト教教徒の人口は世界人口の四分の一である、地球上で最も信者数の多い宗教である。尤も日本ではまだまだマイノリティーであるし、少し前に松阪市殿町のカトリック教会において、ジャック・オヘール神父様と話した時の彼の言葉が忘れられない。「今、松阪市には海外からの労働者でカトリック教徒は2000人いるはずです。しかし、礼拝出席者は40人です。残りの1960人はどこへ行きましたか?」である。私が思うにこのカトリック教会の悩める現実は現代日本の仏教の悩める現実と類似しているということである。たとえば、般若信教なんかは、邦訳してみるととてもすごい哲学的にいいことを言っているし、ルター派の司祭たる私からしても魅力的なものである。しかし、実際には現代の日本においては呪文の一種になり下がり、せいぜい写経の課題ですらしかなくなってる。世界規模においてはキリスト教も似たような問題を抱えている。それは、生まれたらもうキリスト教徒みたいになっていて、圧倒的多数の保守勢力になっていることである。それに伴う弊害はぬぐい去ることができず、いまもキリスト教に対して主ご自身が問題を掲げておられるとすら感じる。私自身がセクシャルマイノリティーであること自体、キリスト教保守勢力からは疎んじられ続けているものである。
 そういった現代の背景を考えると今日のマタイ書独自の福音書個所はまさに聖霊降臨後最終主日にぴったりな個所であろう。共観福音書に並行記事はない。また新共同訳聖書ではこの個所を「すべての民族を裁く」という恐ろしい題がついている。わたしの勤める新生ルーテル教会の運営するデイサービスセンターで介護員が「どうしてキリスト教はこんなに広まったんですか?」という問いを受けた。私はすかさずに「それはキリスト教がイエス・キリストにより、愛という真理に基づいて神と人との距離を限りなく近づけたからではないでしょうか」と言って、キリスト教史をその後30分にわたって述べたが、彼女は退屈せずに、むしろ楽しんで聴いてくれたものだ。
 今日の個所は二つの伝承をマタイがまとめている一つは「人の子は」「天使たちを皆従えて来る時その栄光の座につく」という黙示的伝承そしてもう一つは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのはわたしにしたことなのである」という伝承である。これらが違う伝承であることは最初は「人の子」だったのが次には「王」に変わっていることからはっきりわかる。
 現代の日本におけるキリスト教の布教のあり方には問題がある。多くの場合、キリスト教を信じないと地獄に行きますよというような、布教の仕方をしている場合が多い、またそのような脅迫観念は人を敏感に反応させ、それに応える人も少なくはないのも事実ではある。だが、それでは他の宗教と対して変わりない。尤も仏教は限りなく哲学なので、現代日本における極楽とか成仏といった概念は本来的には破綻しているものであるが、江戸時代からの風習で日本国民のほとんどがこの戒めに捕らわれてしまっている。とはいえ、ではキリスト教がそれに反論して、キリスト教でなければ天国に入れませんと主張するのも大人げないと思うようになった。確かに、主イエス・キリストの贖罪における罪の赦しと救いの恵みは尊ばれるべきものであり、キリスト教の主軸でもあるが、しかし、他の宗教にはないキリスト教独特の、神と人との距離の近さ、愛によって結ばれている救いの慈愛の深さを証しすることのほうが、より有益なのではないかと感じている。
 まず「羊と山羊」が分けられるという裁きの前半が描かれる。そして、その裁かれた理由が「天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは私が飢えているときに食べさせ、のどが渇いているときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸の時に着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてきたからだ」である。そして裁かれるのは、それらの時にして「くれなかった」という事に結論を得ている。
 「行為儀人」を幼稚に解釈してこのマタイ書の文脈を乱す説教者も少なくはないが、明らかにここでは、信仰というよりは、その「行為」が問題になっていることは間違いない。おどろくべきことに、ここで救われた者たちは「主よ、いつ私たちは」「したでしょうか」という戸惑いの言葉が強調されてることであり、裁かれた者たちが「いつ私たちは」「しなかったでしょうか」である。自覚していないのだ。もはや、ここにあるのはその人のあり方、それだけが追及されている。
 危機にある人を助けるか否か、もっと簡単な事例であっても人を助けるか否かがここで強く問われている。尤も、「私の兄弟であるこの最も小さい者」「にしたのは私にしてくれた」という文脈から紀元3世紀までの間、苦難の宣教を強いられていたキリスト教徒たちをマタイが指していることは踏まえておくべき点ではある。だが、キリスト教が保守勢力となった現代においては、少なくとも、11月下旬にはキリスト教徒でもないのに、クリスマス飾りをし、クリスマスプレゼントをしあうほどにまでなった、現代においては、まさに、この「父」に「してくれた」かどうかが問われることになるのである。
 「行為儀人」とこの個所の恵みの最大の差は、天国に入るために何かを行ったという自覚が全く無いことであり、地獄に行くことになった理由に全く自覚がないことである。つまり、聖霊降臨後最終主日、最後の審判の日に与えられた聖書個所は、私たちの生き方を、まるで実の父であるかのように、主が見定めておられるということである。
 最後の「裁き」は、そこにいる「最も小さい者」マタイ書の時代に言いかえるなら「キリスト教徒伝道者」。そして、あえて、現代でいうなら、保守勢力から弾圧を受けている、宗教を問わないあらゆる人々に、愛によって結ばれている主との関係において無自覚に「した」のか「しなかった」のかということであることを私たちは学ばされるのである。
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by qpqp1999 | 2011-11-19 19:14 | キリスト教

百年に一度の演奏

upしたら最後
「時報女」が出てきそうなので
ずっとupるのをためらってきたが
はやりこの
プリンスとビヨンセの歴史的な演奏は
多くの人に視聴されるべきだと思って
upり松
バンドの編成は私的にはこの当時が
かなり好きです
この動画には
アルトサックスにキャンディー・ダルファーが
いるのもサプライズでした
実はアルトサックスにはメシオ・パーカーが
いるので
アルトサックス二つになっているのも見逃せません
ラストで扇風機の風で
スカートがめくれそうになってるのを
さりげなく手でおさえてる
ビヨンセ川ユス・・・
ごーくれいじー ごごっごー ごっごっごー

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by qpqp1999 | 2011-11-18 18:49 | 動画

とにかく

とにかく
帰ってきたぜ
悪魔め
後悔するんだな
ふふふのふー

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by qpqp1999 | 2011-11-16 20:18 | 性同一性しょうがい
10月26日の
続きを書きます。
すでに、アウグスティヌスの神学論文に関して
自殺を罪と定めるのは
神学的に破綻していることを書きましたが
それでも
そんな組織神学、歴史神学、聖書神学、等々の神学を
無視して
ほんとに意地はってるだけで
キリスト教において自殺を罪と定める
牧師や司祭がいるのは
残念なかぎりです
私にしてみれば、そんな人たちの言っていることは
大東亜戦争またの名、太平洋戦争で
自殺せざるを得なかった多くの民間人の
自殺すらも罪とさだめるものであることに
何故、気付かないのでしょうか。
サイパン島のバンザイクリフで自殺した民間人は
罪に定められるんですか?そんなこと
主イエス・キリストご自身が定めませんよ。
こういった宗教指導者たちはもっと聖書を勉強すべきです
Q資料と言われる福音書の伝承を読んだことがないのでしょうか
「人を罪人だと決めるな」ルカ書6章37節
あるいは第四福音書を読んだことが無いのでしょうか
「だれもあなたを罪に定めなかったのか」「わたしもあなたを罪に定めない」ヨハネ書8章10節
これは決して聖書の一部分だけを斬り出して書いたものではなく
ブログのために要約したもので、この問題だけで論文や本が軽く書けます。
「太平洋戦争」での本土戦たる沖縄で自殺した人たちが
罪に定められますか?そんなわけないでしょう。
自殺はどのような形態や背景があれ
自殺は自殺なのです
そこで、私が一番カチンときた
神学なんかほとんど持っていない
保守一辺倒なある牧師の論説を批判したいと思います
それは
「自殺は自分意外の全ての人を殺す行為だ」
というものです。
聖書的に一切の根拠が無いのはもちろんのこと
あらゆる神学的立場からもそんなことは持ち出せません
それどころかそれは
自殺で亡くなった人に対する冒涜であり
ルター派の司祭たる私からすれば
人の生死を司る主イエス・キリストに対する冒涜ですらあります。
人を殺すというのと自殺するというのは
まったく次元の違うものです
人を殺すというのは
自分が自分以外の誰かの生命活動を恣意的に停止させる
ということです。
ここで、大事なのは自分以外の、ということです。
自分で自分の生命活動を恣意的に停止させるのとは
全く違うものなのです。
きっとその牧師は
自分が死ねば、他の人の全部の存在を消すことになるから
とでも言いたいのでしょうが
そんなことはあり得ません。
どんなに自殺したって
他の人たちは生命活動を続けていきますし
その人生を歩んでいきます。
他の人たちの生命活動を自殺によって停止させるなど
到底不可能な話しです。
ましてやキリスト教で言う死後の世界があるのなら
ますます自殺で「自分以外の全ての人」の存在を消すことができなくなります。
ただ、このブログを読んで
勘違いしていただきたくないのは
私は
自殺はいいことだから
しても構わないと言っているのではないということです。
えらい売れたけど顰蹙も買って廃版になった
「完全自殺マニュアル」を読んだ時は
正直、怒りがよぎりました。
というのは、その本では
自殺を「人生の」「リセット」と評していたからです。
テレビゲームじゃないんです
自分を殺すことで「人生」を「リセット」できるわけありません。
そこにあるのは、人生の停止です。
宗教性を全く無しに言うなら
単に生命活動していた細胞体がその生命活動を恣意的に停止させ
土にかえる、それだけです。
しかし、一方で
私が思うに
自殺するということは
その自殺された方がよほど孤独で無いかぎりは
遺族や友人、もしかしたら恋人を
悲しませることになるということに触れないわけにはいかない
ということです。
もはや自殺が罪だのとかどうとかよりは
こちらの方がより現実的な問題かもしれません。
次回はこの問題について神学的に書きたいと思います。
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by qpqp1999 | 2011-11-12 01:52 | 自殺
性同一性障碍関連とか
なんやかんやで
早く死にたいと思っていたし
誕生日を重ねるごとに重たい気持になっていた
しかし、今年だけは違うな
できれば
このBonnie Raitt様みたいな
カッコいいおばあさんみたいな高齢者になりたいものだ
このライヴ動画の時点で
Bonnie Raitt様はなんと64歳!!!
カッコよすぎ・・・
私と共通している唯一の点は
ボトルネックを中指にはめて
演奏しているところでしょうか

今年は誕生日に
ケーキではなくて
タイガーマスクのだてなおとみたいに
たこ焼きを大人買いして
バーボンでやるかな
来年もできるといいけど
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by qpqp1999 | 2011-11-10 19:39 | ブルース
聖霊降臨後第21主日礼拝説教 マタイ福音書22章34-40節
 新共同訳聖書において「最も重要な掟」と題されるこの個所。もちろんマルコ福音書が元になっており、それを資料にしてマタイもルカもその福音書を書いている。おそらく、この三つの共観福音書の中で最も簡素にこれを書いているのがマタイ福音書であろう。この個所においてマタイの関心事の一つはサドカイ派、そしてついにはファリサイ派の律法学者を論破する点を強調している。そのため、この有名な教えについての説明は一切ない。ないというよりはマルコ福音書にあるようにファリサイ派の律法学者の再確認や、それを肯定するイエス・キリストの言葉がマタイによって意図的に消去されているのである。
 では、マタイがこの教えを軽んじているのかというと断じてそういうことはない。というのも、このイエス・キリストの教え。言わば「黄金律」ですらあるこの教えは、イエス・キリストが元祖であるという点において、これは注目されるべき言葉であるからである。「黄金律」となると様々な宗教において同じようなことが言われているのであって、キリスト教独自のものでは現代ではない。しかし、紀元0年の時点でこの教えがなされたのは間違いなくイエス・キリストに遡るものなのである。
 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』律法全体と預言者はこの二つに基づいている」である。
 ほとんど説明の余地がないほどに完結な教えである。しかし、イエス・キリストの生きていた紀元0世紀はそうではなかった。ラビの計算では律法には613の掟があった。この数は人間の骨の数に由来するともいわれている。「せねばならない」と「してはならない」があったのだ。当時のユダヤ社会では、全ての人がこの律法に戒められていたのであった。しかし、普通に考えて613もの律法を守ることはおろか、覚えることすら困難であったから、特にファリサイ派の律法学者たちはこの律法をいかに日常に反映させるかについて考える必要があった。この数多くの掟のうち、どれが優選されるのか、はたまたどれが最も重要な掟なのかは議論のさ中にあったのである。というのも律法は主なる神が定めたもうたものであるので、ここに人間の解釈が入りこむ余地がなかったというハードルもあったのだ。実際に日常を生きるにあたって、人はこの律法、掟を守らねばならず、そのためにどれだけ、その律法、掟が、その人にとって実存的な問題になるのかが悩みの種であったのである。そこで、宗教教育のプログラムのために、重要項目の順位を考える必要があったのだった。それを、あっさりと打ち出したのが主イエス・キリストだったのである。
 イエス・キリストが示したのは申命記6章とレビ記19章だった。当時も実は「隣人愛」に律法の集約を試みるラビはいた。しかし、これは2世紀になってからのことである。またアレクサンドリアの学者フィロンも哲学的にこの「黄金律」を語っている。しかしいずれにせよ、どの人の説もイエス・キリストより後の人の話なのだ。その意味で、マタイ福音書において、ものすごくシンプルにこの「最も重要な掟」が書かれたことは、それだけでその教えの強烈さを更に強化させているといえるだろう。
  このイエス・キリストが発した「黄金律」は、その後多くの宗教、道徳、哲学に取り入れられていった歴史的な経緯がある。現代では、そのため、キリスト教に限らず、多くの宗教で、また道徳や哲学において「隣人を自分のように愛しなさい」は用いられている。しかし、この元になっているのは史実のイエス・キリストに遡るものであることを知る時、主の奇跡の一つをここに垣間見ることができるのである。特に、宗教的にキリスト教的に言うならば「神を」「愛」するということは「隣人を自分のように愛」するという教えになる。しかし、ここからが重要で、どうかするとまさしく「黄金律」のように通り一辺倒の言葉になり下がってしまいがちな教えでもある。「人道的」な「価値観」が進化した現代においてはこの「黄金律」はいまさらキリスト教に教えられなくても、当たり前に知っていることですらある。
 しかし、道徳や哲学とは全く違うところは「隣人を自分のように愛」するということが、前提として「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」ということにあるところである。この点において、キリスト教のこの教えは他のいわゆる「黄金律」とは区別されるべきものなのである。
 「神を愛する」ということとと「隣人を自分のように愛」するということが両輪であることは言うまでもないが、これは現代の日本社会においては普通に通用してしまう教えであり、別にキリスト教徒でもない人でも、あるいはそいういう人の方が、社会的にマイノリティーな人々に対して、それを実践しているといえるだろう。
 ここで、究極的な問題を提示するとするならば、それは極限状況における「神を愛する」と「隣人を自分のように愛」するということに掘り下げる必要があるであろう。たとえば、それは第二次世界大戦前夜からその最中、先後におけるまで起こったナチスの人に対する侵略である。また日本において言うなら、キリスト教はプロテスタント教会はみな日本基督教団にまとめられカトリックはそままの二つになされ、また礼拝の前には日の丸をかかげ、宮城遥拝が強制させられた歴史的な極限状況である。尤も、日本の場合は儀式的にそれをしていればよいだけのことであったから、バチカンはこの戦争は4年くらいで終わるから宮城遥拝を教会として認めたのであった。信仰あるプロスタントや福音派の牧師たちはこれに反対して、殉教者を出してもいたりする。そのような段階で「隣人を愛」するとはどういうことを意味するのか。「神である主を愛」することが前提になっている以上、宮城遥拝には反対しなければならない。しかし、それをすることで大日本帝国に忠実な「隣人を愛」することを止めなければならないという崖に追い込まれるのであった。ナチスの場合は更に酷かった。圧倒的多数のドイツ国民を「愛」することは、多くのユダヤ人を虐殺することに賛成ることに他ならなかったのである。
 私たちはこの「神である主を愛しなさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」という掟を非常に重いものとしてとらえる必要がある。それは、場合によっては、闘い、抵抗し、主の平和にある、あるべき状態を創るために、主の加護のもとにあって、時には人と対決しなければならいということである。それもまた「隣人を愛」する一つのあり方なのだ。
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by qpqp1999 | 2011-11-06 11:59 | キリスト教