牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

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わたしがブックラウドで連載している
「ノブナガール」のコンテが上がったので
これから主婦友達と呑みに行くことになったので
まったりと書きます。
以前、YOUTUBEなどでの著作権侵害動画について
ふれました。
確かに、我々は
ちゃんとDVDを買うなり
動画をお金払ってダウンロードして
観る必要があるんです
必要というよりは
これは
義務であり、法律を守るということです
しかしながら
その反面
著作権侵害動画でしか
観れない 聴けない
ものが
少なからず存在しているのです
これは
芸術の埋没です
たとえば
グラミー賞のパフォーマンスで
なんとプリンスとビヨンセが
デュエットしてプリンスのヒットナンバーをメドレーする
という凄い動画があります。
これ、グラミー賞当時観てて、たまたまハードディスクに
録画した人は観れるのに
そうでない人は観れない
という
著作権に関するすごい矛盾がありますね
録画した人は
著作権に違反してないんですか?
そんな話聞いたことありませんよね
そんな事言い出したら
全ての放送動画を録画する権利がなくなります。

私はたまたたま貧乏だったので
この映像を録画する機械を持っていませんでした
この魅力的な
歴史的な
パフォーマンスが観れないんです
これは
著作権を主張している
メディア側の怠慢です
私たちには
この
プリンスとビヨンセのアートを
観賞する権利があるのです

そういう意味で
著作権侵害動画を
規定するなら
それはメディア側の
怠慢による
閲覧、観賞の無効化
されていないものに
限るのではないでしょうか

むー
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by qpqp1999 | 2011-10-28 20:55 | インターネット
10月16日のつづきを書きます
驚くべきことに
自殺が罪と神学的に定められたのは
4世紀になってからのことで
それまでは自殺に関して、それが罪であるとかないとかは
議論された歴史的な痕跡がないのです。
西暦415年にアウグスティヌスという人によってそれは示されました。
アウグスティヌスという人は
古代キリスト教世界において
最大の影響力をもつ理論家。
カトリック教会・聖公会・ルーテル教会・
正教会・非カルケドン派で聖人とされている神学者です。
この人が書いた「神の国」の1巻20章で
キリスト教の十戒の
6戒(カトリック・ルター派では5戒)をもちだして
自殺を罪と定めています。
「人は自分自身を殺してはならないと理解するべきである
なぜなら十戒における「殺してはならない」には
何等の保留条件もなく」「人に都合良い例外はないからである」
と書いています。
実のところ
この神学が現代のキリスト教においても
圧倒的な支持を得ており
その神学的根拠
ともすれば
信仰的根拠にすらなっているのです。
ところがこう書いた直後に
この議論は破綻してしまいます
というのは、聖書に根拠を厳密においていくと
聖書の申命記には
聖戦に関する記述があって
敵国の民を完全抹殺せよというような
神からの命令が書かれててることに触れるからです。
そこでアウグスティヌスは議論を曲げて
「神の権威によって作られた例外が存在する」
と書いているのです。
なるほど聖書には自殺を肯定的に書いている個所が存在し
自殺を否定的に書いている個所が存在しないのです。
肯定的に書いている個所の代表的なものは
「サムソン」関する記述です。
サムソンは士師記に描かれるイスラエルの英雄でしたが
敵国ペリシテに捕らわれの身となり
両眼をえぐり取られます。
ペリシテの見世物に引き出されたサムソンは
ペリシテの神殿に引き出されますが
そこで、神殿の柱を折って神殿もろともペリシテの人々を
殺害した上、自決しました。
アウグスティヌスを悩ませた聖書個所の代表がここです。
そこでアウグスティヌスはかなり苦し紛れに
「彼を通じて奇跡を引き起こした聖霊が
このようにすることを秘密裏に諭したから」
と言い逃れしてしまっているのです。
こんな事言い出したら
宇宙戦艦ヤマトの波動砲みたいに
何にでも通用しちゃう議論になってしまいます。
またアウグスティヌスは
レイプされて自決しキリスト教徒の女性
ルクレティアについても触れて
悩んでいます
というのも
キリスト教の圧倒的多数派の
カトリック教会の聖人の中には
このようにレイプされて自殺した女性が
多数存在しているからです。
このような形でアウグスティヌスの自殺に対する罪という概念は
完全に破綻してしまっているのです。
それは現代キリスト教社会にも通用する問題です。
そういうわけで多くのキリスト者が肯定している
アウグスティヌスの自殺は罪とさだめられるということは
無理があることになってしまうのです。
とは、いえ
私はこのアウグスティヌスという人が好きです
彼は元々
反キリスト教の立場をとっていました。
彼はマニ教というちょっとかわった宗教の信徒でした
また
哲学にも非常に熱心に勉強していた人でした
そんな彼から見るとキリスト教は
当時、強力な勢力になりつつありましたから
好きになれなかったのは
実は私も共感するものです
私も性同一性障碍の関係で
キリスト教社会はもちろんのこと
日本の社会からマイノリティーになっている者です。
そんな私からみると
キリスト教なんてと思ったりしてもしまうものです。
ところが
アンブロシウスというキリスト教司祭の
説教に
アウグスティヌスはイかされてしまったのでした。
だから
キリスト教の説教って
とても大事なんですね。
それを聴いている人を主の福音のうちに導くという
ものすごい役割を与えられているわけですから
その意味でアンブロシウスという人はすごいキリスト者でした
学問的にも宗教的にも完結していたはずの
アウグスティヌスをその説教で虜にしてしまったのですから。
387年のイースター復活祭にアウグスティヌスはアンブロシウスから
洗礼を受けてキリスト者となったのでした。
このように
アウグスティヌスの論を継承して
自殺を罪と定めることに関しては
アウグスティヌス自身の著述で破綻していることを
簡単にまとめてみました。本当は
この問題については
論文や本が一冊書けるくらいのものなのですが
ものがブログですので
できるだけわかりやすく書いてみました。
次のテーマは
よく保守的福音派のキリスト者がよく言う
自殺は
自分以外の全ての人を殺す行為だ
ということに関して書きたいと思います。
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by qpqp1999 | 2011-10-26 20:05 | キリスト教

反保守であること

私は
性同一性しょうがいというだけで
キリスト教社会からはマイノリティーだ
そうなると反保守たらざるを得ない
そこでこのところ
病みつきになっているのが
ヒトラーを手にかけようとすらした
偉大な神学者
ディートリッヒ・ボンヘッファー
という存在だ
この人は
その信仰と神学的立場から
どうしても
当時のドイツの保守たるナチスと
闘わざるを得なかった
多くのカトリック教会まで含めて
ナチスに迎合していき
またそうしない者に対して
断罪していた
キリスト教社会に
反対したのは
まさにこの人
ディートリッヒ・ボンヘッファーだった
この人ほど
マイノリティーに優しく
保守に厳しかった
神学者は
歴史上いないと言っても
いいかもしれない
その意味で
私はあらためて
ディートリッヒ・ボンヘッファーと
向き合おうと思った
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by qpqp1999 | 2011-10-25 23:02 | 政治
スタジオジブリには私
影響受けているし
好きだし
買ってもいるけど
好きじゃないところがある
YOUtubeとかの
動画を片っ端から削除している点だ
今日も
On your mark
観ようと思ったら
無いじゃないか!!!!
もっとも私は
このアニメが収録されている
On Your mark
のDVD、「ショートショート」
予約注文して買ったから
いつでも観れるんだけど
いちいちDVD捜してはめて起動するの
めんどくさいよね???
だからてっとりばやくYOUTUBEで観ようとするが
ジブリって
このあたりにウザいほど神経質なのな

そこが嫌いなんだよね
今流行ってる
マルモリ観てみなよ
平気でYOUtUBeで流れてるよ
まずは聴いてみないと
観てみないと
買わないじゃん???
わたしも漫画家のはしくれだから
著作権にはからむことがあるけど
YOUtUbeってのは
マーケティングの最初の段階ですらあるんだよ
そのあたりがわかってない
宮崎駿率いるジブリって
気に食わないね
作品は好きだけど
そしたらこの
ON YOUr MArk
の動画
宮崎作品の中では傑出したものなんだけど
歌ってる
チャゲアスカの動画が
YUOTUBEにあった
そして観たら
なんと
アスカが
感動のあまり
最初の前半唄えなくなっている
何故って
その当時、日韓の間で
芸能関係の取り決めがあって
チャゲアスの人気は相当にあったのに
韓国でのライブは難しかった
それが実現した時のライヴ映像だったのだ
アスカ、決して歌詞を忘れたわけじゃない
音楽、唄は国境、政治を超えるっていうのは
こういうことだと、その涙が示してるよね
では、堂々といこうぜ
On Your MArk

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by qpqp1999 | 2011-10-24 23:09 | 音楽
聖霊降臨後第19主日礼拝説教 マタイ福音書22章1節~14節
 私は礼拝の司式や説教に臨む時に、アルバとストラ、キグリムを着用しているが、その下は正式なカトリックの伝統を受け継いだ装束ではない。尤も、多くのルター派の司祭もアルバとストラとキグリムを着用しているが、その下は大抵はローマンカラーに背広か、どうかすると単なるスーツだったりする。これは正式なカトリックのミサ、礼拝に臨む伝統から逸脱していることは指摘しておきたい。私はアルバの下は、若者の間で言われるゴスパンクのファッションの服装でいる。私はあえて教会の歴史的伝統を知った上でアルバの下はそのように自分自身を代弁している装束をするようにわざとしている。
 今日の聖書個所、「礼服」を「着」ていなかった人が、外に放り出される。この個所を根拠に説教者がよく礼拝には正装で等と言うが、神学的研究に怠けているものである。
 今日の個所はルカ書に並行記事がみられる、伝承としては、その文章の長さや、文脈の乱れや、支離滅裂さからしてルカ書の方が元の伝承を継承している。マタイはこの「婚礼」のたとえの伝承に自分の主張を着色するため他の伝承をここに結びつけマタイ独特の福音書個所にしている。そのために話自が混乱し、破滅しているが、マタイはそれを承知で書いている。マタイにとって物語の乱れや矛盾はもはや問題ではなく、元の「婚礼」の伝承にマタイなりの伝承を付加することが必要だったのである。
 まず、「王子の」「婚宴」のため「招いて」いた人々を呼びに「使い」を出すが「無視」されたり「商売」に行ってしまったりと、来てもらえない。ここまでは元の伝承に近い。しかしここからが変わってくる、「他の人々は」「家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった」のであった。王子の婚礼に行かないだけでもかなり無理があるのに、この展開はかなり過激な改変といえる、そして「王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」のだった。こんなこと書いてしまうと、そのあとに「通りに出て行き見かけた人」を集めることができなくなってしまうので、物語としては破綻している。しかし、マタイはどうしてもこの「焼き払う」という言葉を入れる必要性を感じていた。それは紀元70年のローマによるエルサレム陥落である。このたとえ話はイエス・キリストのエルサレム入場の後の出来事になっていて、すでにイエス・キリストは聖なる神殿で大暴れしたりして、そのわりには奇跡とか行って人気もあったので、ユダヤ教保守層からしてみれば殺さなければならない存在となっていた。イエス・キリストは間もなくして十字架で処刑されることになるのだが、その天罰としてのエルサレム陥落とその炎上をマタイは執念深く描いているのである。ユダヤの軍を率いてローマ軍と闘い、やがて投降して後の歴史のあらゆる学問や関心に重大な影響を与えるヨセフスの文章を読むとよくわかるのだが、ユダヤ側は相当に頑張って闘ったのだったし、ローマ軍はものすごい手間と損失を被ることになったので、それだけにユダヤ教のシンボルであったエルサレム神殿都市の破壊、炎上はマタイ書が書かれた当時紀元80年くらいには、キリスト教にとっても重要な神学的価値のあるものであった。すなわち、単に天罰としているのではなく、主と人間との極めて微妙な関係にまでその思いは繋がってるいといえるだろう。
 そして改めて「婚宴」の来客者が集められ「婚宴は客でいっぱいになった」。ルカ書との決定的な違いが現れる、ルカ書では「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」が招かれたということに強調点がある。マタイ書では「いっぱいになった」ということが強調点になっている。そして「王」は「礼服を着ていない者が一人いた」ことに気付き、それに怒ったのか「この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ」となる。ここまではいいが、そのあとの「王」のセリフでまたも物語は破綻する。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」である。これだと「礼服を着ていない者が一人」という描写と対立し矛盾を生じさせてましっている。「選ばれる人は少ない」のであれば「礼服を着ていない者」がたくさんいなければいけないはずなのに、物語では「一人」だけである。これは単なるマタイのミスなのかというと、実はそうではない。マタイにとっては「礼服を着ていない者は一人」であり、また同時に「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」のである。この対立した二つの伝承をマタイは同じように大事にあつかっているのである。まず、「縛って」δήσαντεςデーサンテースは13章の毒麦のたとえで、毒麦を焼却するために「束にする」と同じ言葉であることに注目したい。つまり、これは明らかに主の正当な裁きを強調したものである。確かに、キリスト教は世界において一番人口の多い宗教であるから、「婚宴」どうよう、あらゆる民族によって「いっぱい」になっていることは間違いない。ここで、陥りがちな解釈は、せっかく教会に招かれたのに、それにふさわしくない生き方をしたことが咎められて、地獄の炎になげこまれるというものである。それではマタイのせっかくの文脈が台無しになってしまう。「礼服を着ていない者」は「一人」なのだ。他の「いっぱい」の中の大勢ではなかった。裁かれたのは一人だけである。そして、「選ばれる人は少ない」なのである。確かにマタイ書では律法を重んじる神学的特徴がある。であるからこそ、「招かれる人は多い」のであって、「選ばれる人は少ない」のであり、なおかつ裁かれたのは「一人」だったのである。罪に定められる人が少ないという意味ではない。しかし、私たちは確かに、「いっぱい」の中にいるのであり「選ばれ」る恵みに与かる奇跡が強調されているのではないだろうか。そして、その恵みは「選ばれる人は少ない」という非常に緊張した状態で起こる恵みなのである。であるから、教会に招かれたのだから、良い行いをしなければならないというような短絡的な神学が展開されているのではなく、招かれており、尚且つ少ない選ばれし者になりうるという極めて反論的な神学を、このぶつかりあう伝承をあえてつなげたマタイの意図の中に発見するのではないだろうか。つまり、ここで強調されているのは、行いではなく、もちろん服装でもない、わたしたちは「集められる」のでありまた「選ばれ」るのである。ここに展開されているのは信仰のあり方である。私たちにできることは、「集められた」者としていかに「選ばれる人」とされる恵みに与かるのかを探求し、祈り求めることであり、決して行いによってそれが、定められるものでないことはこの「外の暗闇に放り出された」「者」の「黙って」いたという態度にみることができるだろう。私たちにとって主の前での礼服とは、限りない憐れみの中にあるとてつもなく広い「宴席」とそれにふさわしい信仰と信仰から発する生き方なのである。
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by qpqp1999 | 2011-10-23 12:01 | キリスト教
キリスト教の保守勢力
特にカトリック教会では
自殺を大罪にしていて、自殺した方の葬儀もしません
また福音派の中にも極端に自殺を罪と定める教派もあります
そして、おおくのキリスト教の指導者は自殺を罪と定める傾向にあります。
わたしはルター派の司祭ですが
自殺を罪とはしないという神学的立場をとっています。
勘違いしてもらいたくないのは
自殺してもいいと言っているのではないということです
自殺は罪ではないと言っているのです。
自殺された方を罪と定めるのは
自殺された方に対する
冒涜であり
生と死を司る主に対する冒涜ですらあるという
神学的立場をとっています。
この問題については長文になりますので
区分けして後々、書いていきたいと思います。
まずとりあげておくべきは
4世紀の元々反キリスト教徒であった聖アウグスティヌスの
「神の国」が現代においてすら未だ根拠なっていることです。
アウグスティヌスは皮肉なことに
ルター派の開祖
マルティン・ルターの志願した修道会
「アウグスティヌス会」の聖人でもあり、
神学の巨魁でもあります。
そしてこのアウグスティヌス会は中世
学問を重んじる修道会でもありました。
しかし、このアウグスティヌスが自殺について
罪と定めているのは
著書「神の国」の一巻20章にある
十戒の第六戒
「殺してはならない」を論拠にして
その神学を展開しているのですが
よくこの神学論文を読んでみると
意外なほころびや論理的矛盾があちこちにみられます。
それについてはまた後のブログで書いていこうと思います。
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by qpqp1999 | 2011-10-16 19:47 | 自殺

アルコール依存症

私は
家庭が崩壊してから
アルコール依存症になった
一週間で
バーボンのボトル4本あけていた
ものすごい量だ
ちょうど
この春前に
ホルモン治療してたクリニックが
無責任にも勝手に店じまいして
次の医師を紹介してくれなかったので
自分で探したら
松阪にあった
今まで津まで通っていたから
すごく近い
しかもガイドラインにそって
エスとラジオールを注射してくれる
で最初に血液検査したら
肝臓の値が
マックスに最悪な状況になってて
医師が
「松本さん、まず、これなんとかせなあかんで」
という話しになって
ホルモン治療続けられなくなるのは
私にとって死に匹敵するものだったから
頑張って
バーボンの量を減らして数カ月
先月採血検査をした
それでもバーボンは呑みつづけていたから
今日は医師に怒られるかなと
おっかなびっくりで行った
なんと数値が正常値に戻っているではないか
尤も肝臓の炎症を抑える薬も処方されていたからなんだけど
肝臓頑張った・・・
一生、バーボン楽しめるように
これからは
ちょっとだけ呑むことにしようと決めた
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by qpqp1999 | 2011-10-11 18:26 | アルコール

殺人を肯定した神学者

ルター派の偉大な神学者
ディートリッヒ・ボンヘッファー
この人はわずか39歳で
ナチスに殺されているので
その著述書は少ない
しかし、彼の神学は
今なお、最先端であるといえるだろう
ルター派は本来、とても学問的な宗派だ。
現在のルター派の教会の司祭、牧師のどれだけが
その神学的取り組みをしているかは
今のところ自信がない
私は
日本ルーテル神学大学(現ルーテル学院大学)を卒業し
日本ルーテル神学校を卒業した
私が日本福音ルーテル神学大学に入学したその年
、今の日本ルーテル神学校の校長の
江藤直純教授が助教授として着任された
この教授が大のボンヘッファーファンで
とにもかくにもボンヘッファーという感じだった
私は当時、神学生なのに長髪で
ロックバンドや漫画で学園を華やかしていた
およそ学問的ではない存在だった

古参の教授たちからは高評価を得ていたものだ
江藤教授は学問一辺倒で
そんな私をあまり好きではなかったかもしれない
しかし、私にボンヘッファーを教えてくれたのは
この江藤教授だった
また、私の卒業論文の審判教授が
これまた江藤教授であったが
学問的に極めてフェアーで
わたしの卒業論文を非常に評価してくれたものだ
ボンヘッファーのすごいところは
何しろ傑出して最先端であり、アンチ保守であるという点だ
その極めつけが
簡単に書くと誤解をまねきかねないのだが
人殺しも状況によっては神学的に正当化されるという
ありえないことを表明したことだろう。
尤もボンヘッファーは
どのような殺人であれ、それは聖書からすれば罪である
とまずしている点はふまえておかなければならない
しかし
彼はヒットラー暗殺計画に加わったのだ
彼の役目はヒットラー暗殺計画の人々のエキュメニズムと
連合国への情報提供と和平交渉だった
しかし、ユダヤ人亡命に加担したことで逮捕され
やがてヒットラー暗殺計画に関わったことがばれてしまう
敗戦の色濃くなったナチスは急いで
この偉大な神学者を殺した享年39歳
年下の婚約者マリア・フォン・ヴェーデマイヤーとの結婚は叶わなかった
しかし彼ののこした神学はものすごいものだった
当時のドイツは極限状況でその中にあっては
つまり一定の条件にあっては殺人は善であるとしたのだ
隣人のためにその罪を自ら引き受けることは
当時のナチスの支配下においては必要なことだとしたのだ。
神の律法を一時的に違反したとしてもそれは
将来の真の意味での律法の成就につながるとしたのだった。
善を選ぶことが不可能な状況がありうるという極めて特殊な神学だ
大きな悪を避けるために小さな悪を選ばないというのは逃避であるというわけだ
良心は時として自分を放棄して悪に被支配されることになる
当時のドイツではヒトラーを選ぶことは悪そのものだったのだ
その場合、悪と対決するために善を選ぶことが
時に殺人に至るという構造になっている。
本当はこの問題について書くなら
本一冊分くらいの論文にしないと駄目なんだけど
簡単にまとめるとこんな感じかもしれない。
てゆーか簡単にまとめないと誰もボンヘッファーの
卓越した神学に触れられないから。
このブログ江藤教授が読んだら怒るかな・・・
それが、ちょっと心配・・・
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by qpqp1999 | 2011-10-10 18:22 | キリスト教
聖霊降臨後第17主日礼拝説教 マタイ福音書20章1-16節
 立派であることは、決して悪いことではない。よく主に仕え、主のために努力することは決して悪いことではない。また、巷で言われる酒、たばこ、博打、淫らなことに溺れないこともまた決して悪いことではない。このようなことをよく出来る人も世には少なからず存在するし、それはそれで評価されるべきものである。
 たとえば、教会役員に、礼拝出席の怠慢な者、献金を怠る者が選ばれるだろうか。私の知る限り、そうした人が教会役員に選ばれる事は無い。ほとんどの場合、礼拝出席に熱心で、奉仕にも熱心で、献金にも熱心な者が教会役員に選ばれる。この状態もまた決して悪いことではない。礼拝出席に怠慢であれば、教会の実情も知りえないし、献金を怠るようでは信徒としてのあり方が問われるだろうし、奉仕に熱心であればやはり教会の働きそのものに触れることになるから、教会の運営を担う教会役員には、そうした人が選ばれてしかるべきであろう。
 その反対の教会員たちもいる。礼拝出席はあまりせず、献金も未納にし、奉仕なんてまるでしない。これが、いいことか悪いことかなのかは、実のところ私たち主の恵みの中に生きる者にとっては評価のできないものなのである。もちろん、常識的に考えて、そういう教会員はおよそ信仰者ではないと評価されがちではある。
 今日の聖書個所で問題になっているのは、評価の問題ではないということである。これを、今日の聖書個所と混ぜてしまうと混乱が生じてしまう。その点を確認してから聖書個所に臨みたい。
 今日の個所は新共同訳聖書においては「ぶどう園の労働者のたとえ」と題されているが、この物語はマタイ書にしか見られない伝承である。ただ「後にいるものが先になり、先にいる者が後になる」はルカ書にもみられる伝承で、この部分だけは、聖書神学において浮遊伝承と呼ばれている。福音書記者がこの伝承を自分の描こうとする伝承にむすびつけたり、書き起こしたりして用いるのである。
 このたとえで最初に「雇」われた人は明け方から働いている。そして最後に雇われた人は「五時」にぶどう園に向かった、極端な差である。この個所の解釈によく用いられるのが異邦人伝道である。まず先にユダヤ人が救われ、その後に異邦人が救われるというユダヤ人ありきのキリスト教会に対する問題提議としての福音書記者の主張として取り上げられる。しかし、今日、この聖書個所に向かい合っている日本のキリスト教会にとっては、そのようなモチーフはまるであてはまらないし、意味がないといってもいいだろう。ユダヤ人優位の宗教感を是正するためのモチーフはせいぜい紀元2世紀くらいまでの問題でそれ以降であれば、異邦人キリスト教会が主流になり、逆にユダヤ人はマイノリティーにすらなってしまうものである。
 この、たとえが史実のイエス・キリストに遡るかどうかは、議論のあるところであるが、このたとえの持つ主の恵みの価値観については、まさに史実のイエス・キリストに遡るものであるということはできるだろう。それは、当時のファリサイ派の宗教感と完全に対決するものであるからである。じつは、このぶどう園のたとえはファリサイ派のラビの文献にもある。また、その内容もちょっと似ている。簡単に言うと、同じようにぶどう園の主人が労働者を雇いに行く、するとよく働く人がいたので感心した主人がその労働者を連れて散歩に出る。つまりこの労働者はちょっとしか働かなかった。そして、支払いの時になって一日中働いた者もこの散歩に出ていた労働者も同じように一日分の賃金をもらった、そこで一日中働いた者たちが、散歩にでかけた労働者は二時間しか働いていないのに、これは不正ではないかと抗議する。するとこの主人は「この男は二時間でお前たちが一日中働くよりももっと働いたのだ」と言う。そして「そのようにラビ・ブン・バル・ヒアは律法の研究において有能な学者が百年かかってもできないことを二十八年でやった」としめくくられているものである。
 マタイがこのラビの文献を知っていたかどうかはわからないが、知っていなかったとしたら相当に偶然に対立的なたとえの伝承を用いたことになる。少ししか働かなかったものが一日中働いた者と同じ賃金をもらうという点に関してのみ、両者は共通しているが、対立しているのは、ファリサイ派のラビ文献では、一日中働いたものよりよく働いたから同じ賃金であるという点であり、この違いは今日の聖書個所を理解するのにとても役に立つ。マタイ書では明け方から六時まで働いた者が、夕方五時を過ぎてから六時までしか働かなかった者と同じ賃金である理由は、主人の恵みの意思にある。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」という一節である。
 つまり、どれだけ頑張ったかとか、どれだけ立派だったかとか、あるいはどれだけ怠惰であったとか、どれだけ不埒だったとかについては一切関係なく主の恵みは与えられるというキリスト教ならではの主イエス・キリストの恵みの真髄が語られているのである。
 これは、そういう意味で現在のキリスト教会、特に、組織化したり保守化したりしているキリスト教会、またその共同体に対する挑戦的な教えであるとすらいえるだろう。最初に述べたよにう評価されるべきものは評価されてよいが、それが主イエス・キリストの恵みの授与には一切関係しないという主の真理である。
 主イエス・キリストの恵みを知れば知るほど、それは教会出席にも熱心になるし、献金についても大変な成果をみせるし、奉仕についてもそれを惜しむことは無くなるだろう。それは、それで祝福の対象になっていることは間違いないものである。しかし、およそ、キリスト教徒とは思えないような不埒者であっても、主イエス・キリストの恵みは、熱心なキリスト教徒と同じように、また同じだけの恵みを与えて下さるということである。
 実によく、史実のイエス・キリストとファリサイ派の信仰の対立構造が浮き彫りにされている。決して、不埒で怠惰で怠慢であってもいいという話しではないけれども、現実の問題としして、主イエス・キリストの恵みは、主イエス・キリストの方から一方的にもたらされるものであって、私たちの生活ぶり、あるいは教会への関わりぶりによって変わるものではないということである。時に神学で「安価な恵み」と言われる救いだが、「安価」どころか、いただけるという意味ではとても「高価な恵み」とすらいえるであろう。
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by qpqp1999 | 2011-10-09 13:15 | キリスト教