牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

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ボディコン

私は
バブル絶頂期の定番ファッション
ボディコンが好きだ。
私のヒット作品だった
講談社のモーニング誌での
「LOVE PLANET」なんか
ボディコン全開のファッションで埋め尽くされてて
それが読者にけっこう受けていた
余談だが70年代頃の自動車を登場させているのも
読者からのファンレターで結構評価を得ていたものだ
ボディコンのいいところ
それは私の体形がけっこう女性的なことと
なにしろ
おっぱいの谷間を全開にできるので
ほぼ女性として通る
あと私は足が細いので
ボディコンには映えるのだ
でボディコンの季節も終わりなので
今年の私のボディコン画像をどうぞ
b0130652_14165243.jpg

なんで
背景が和室?!?!?
ボディコンなら
ディスコのお立ち台でしょう
その謎は後日おしらせします
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by qpqp1999 | 2011-09-25 14:21 | 縛り

やっつけてやった

世間にはびこる
悪質な
詐欺商法
私もこの被害者になりそうだったのだが
そこは
性同一性障碍MTF
まだ改名してないから
名前は男性名
で女性の姿で
声も女性
もちろんはみ乳出しで
挑む
まんまと
詐欺商法の詐欺師は
だまされて
私にやっつけられたのだった
改名してなくて
よかったケースって初めてだ
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by qpqp1999 | 2011-09-19 19:50 | 詐欺商法
聖霊降臨後第14主日礼拝説教 マタイ福音書18章1-14節
 福音書において、史実のイエス・キリストの言葉に遡るとされている個所は少ない。実際に主イエス・キリストが語られた言葉を判別するのは難しい。しかし、今日の個所にある一つの言葉は、多くの神学者たちが史実のイエス・キリストの言葉である可能性が高いことを主張している。その言葉は3節「子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」である。
 この言葉はマタイ書においては、弟子たちによる質問への答えとして描かれている。「弟子たちがイエスのところに来て『いったいだれが、天の国で一番偉いのでしょうか』」である。それに対する答えが「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」である。
 ここで、「子供」についての価値観の現代と紀元0世紀の隔たりを考慮しなければならない。2000年も時代が進むと人権意識もだんだんと進んできて、現代では「子供」はとても大切な存在で、決して軽んじられる存在ではないことは言うまでもないであろう。「子供」たちは私たちにとってかけがえのない存在である。しかし紀元0世紀においてはそうではなかった。「子供」には現代のような価値観が与えられておらず、むしろ軽んじられていた弱者であった。弱者という点では現代とも共通してはいる。「子供」には大人のような力がない。自分で生活していくこともできず、誰かに頼らなければ生きていくことが困難な状態である。そして前述の通り、軽んじられ、言わば差別すらされていたのである。
 神学者たちが、このイエス・キリストの言葉を史実の言葉として主張しているのは、イエス・キリストの主張している点がまさに当時のユダヤ教、保守、また力のあるグループであったラビと対抗している点である。「ラビ」という称号は「偉大な者」という意味が込められていたから、まさにイエス・キリストらしい「一番偉い者」の紹介なのである。
 「子供」の弱さは、ちょうど「太平洋戦争」が終わった時の戦災孤児たちの境遇を考えればよくわかる。「蛍の墓」という野坂昭如の小説を読めばよくわかる。この小説は「アルプスの少女ハイジ」のアニメーション作品を創った高畑勲が1988年に「となりのトトロ」と同時上映で映画化された。戦災孤児のあまりにも惨い死を強烈に描いた作品で楽しい映画を観るつもりで「となりのトトロ」を観たあとにこの「蛍の墓」を観ることになって、映画が終わってから、ショックで席から立ち上がれない、涙が止まらない等の観客の反応が有名であるほどだ。
 実際のところ「子供」は単体では非常に弱者なのである。保護者がいなければ、生きていくことすらままならないのだ。もちろん力もないし影響力もなく尊敬もされはしない。「一番偉い」しかも「天の国で」という条件でイエス・キリストが示したのはこの「子供のよう」な者であり、ファリサイ派や保守層、あるいは現代においてですらもそう認められているように、偉大な者では決してないのである。
 ただ、現代では「子供」は大切にしなければならない存在としての価値観があるので、その意味では今日の聖書個所をひも解くのに少し、解説をつけなければならない。つまり「子供のよう」な者とは、社会的にマイノリティーな者たちであるということである。一番強烈に言うなら同性愛者でHIVに感染しエイズを発症した人を考えると非常に妥当であるといえるだろう。同性愛者というだけで、これは現代社会においては非常に差別されている。そして、その性行為においてHIVに感染しエイズになった人となると、これは物凄く差別されるマイノリティーということになるだろう。最近は人権意識も進化して精神病疾患や身体障害者に対する差別は表向き、かなり減少した。しかし、同性愛者でエイズ発症者となると、これはどうかすると忌み嫌われているのが現実の状態ではないだろうか。どうかすると、天罰だとすら言われかねない状況だ。あえて言うなら主イエス・キリストの言う「子供のよう」な者とは、この同性愛者でエイズが発症し、社会から疎まれているそういう弱者を指すといえるだろう。そして、そのような者こそが「天国で一番偉い」のであり、私たちは「自分を低くして」この同性愛者でエイズを発症し差別されているような人のように「ならなければ、決して天の国に入ることはできない」のである。また、「わたしの名のためにこのような一人の」人を「受け入れる者はわたしを受け入れるのである」ということなのである。ここまで、突き詰めないと、この個所は現代日本に生きる私たちにはあまり意味がない。単名なる綺麗ごとで話しは終わってしまい、説教もその本質を失ってしまうのだ。
 そして、マタイは更に挑戦的な展開をみせる。そのような同性愛者でエイズを発症している人を差別している者は「大きな石臼を首にかけられて深い海に沈められる方がましである」とすら言いきる。そしてそのよに差別するなら、その差別する手や足を斬り落とした方が「両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは」「よい」のである。またそのように差別するなら、その差別する目を「えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそめったまま火の地獄に投げ込まれるよりは」「よい」ということなのである。
 「子供のような」とはそのような弱者を指すのであり、主イエス・キリストはそのような弱者を「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と念押しをされるのだ。
 世間が差別し忌み嫌う、そのような「小さい者」こそがイエス・キリストにとっては最も大切な一匹の「迷い出た」「羊」なのである。人々が見捨て、自業自得としてその「小さい者」を断罪する時に、主イエス・キリストはその「迷い出た一匹」をほかの「99匹を山にのこしておいて、」「捜しに」行かれるのである。そして「迷わずにいた99匹より、その一匹のことを喜」ばれるのである。
 それであるから「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」のである。わたしたちは、この聖書個所が与えられた今日から今までもっていた差別意識、価値観を変えなければならない。そうすることが、まさに「自分を低く」することなのである。
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by qpqp1999 | 2011-09-18 12:09 | キリスト教

闘い

主イエス・キリストとサタンは
私たちの日常で
常に闘っている
勝率は100%だ
しかし、
今回の私の人生における闘いは
非常に厳しいものがある
主は勝ってくれるだろうか
今年の誕生日過ぎまで
答えは出ない
しかし
ここで主が勝ったら
サタンに勝ち目は全く無くなるだろう
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by qpqp1999 | 2011-09-17 01:56 | キリスト教

いい映画を試す方法

映画と一言で言っても
色んな映画があります
やはり、どんな映画が受けるかは
どれだけ感動してくれるストライクゾーンが
広いかにかかっています
どんなにいい映画でも
このストライクゾーンが狭いと
ヒットしなのです
そこで
私が最近開発した
ストライクゾーンの広い映画の試し方
それは
夕食時に両親(80代後半70代後半)の大好きな
NHKのニュースを観るのを止めてまでしても
続きが観たくなるかどうかという実験
ここんとこ
この方法で実験したところ
まず
「最後の忠臣蔵」が受けました。
ラストの盛りあがりのところでは
両親とも涙をこらえきれませんでした

確かに面白いんですこの映画
「四十七人の刺客」という赤穂浪士の小説を書いた
池宮彰一郎の
同名小説を映画化したものなんですが
佐藤浩市と役所広司のうまいことといったら
いいですねえ
なんというか労が報われるあたりの描き方が
非常にうまいんですね私も5回ぐらい観ちゃいました

最近、無性に「フォレストガンプ」が観たくなって
DVDを買ってきて観てたら
最初は両親とも無関心だったのですが
トム・ハンクスがベトナム戦争に行くくらいから
喰いつきだして
とうとう最後まで
楽んで観ていました。
父親が言うに
「これは反戦映画や、アメリカも素敵な映画創るなあ」と
溜息をもらしていました。
さすがロバート・ゼメキス
感心したのは
この映画の面白みである
昔の実写映像とトムハンクスを合成させて
ジョンレノンとかロバートニクソンとかが
共演してるあたりには全然、両親は気づかなかったことです
つまり、実際に小手先ではなく映画として面白い作品であったのです
今度は
「ショーシャンクの空に」を試してみようかと
たくらんでいます
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by qpqp1999 | 2011-09-14 19:47 | 映画

セックスで駄目な男

セックスで駄目な男と
イケてる男の一番大きな違いは
クンニでもなければ
ペニスの大きさでもない
最初にどれだけ
ロマンチックに愛撫してくれるか
キスしてくれるか
とかいうのが大事だ

このあたりは
大体の男は
自分がセックスしたい一心で
一生懸命にするんだけど
駄目な男と
イケてる男の差は
セックスの後
が最大のポイントとなる


駄目な男は
自分が射精したら

あ、もういいや、はいおしまい

みたいな感じになって
さっさと寝てしまうとか
お風呂行ってしまうとかする

イケてる男っていうのは
そこが違う
自分が射精しても
まだ長々と愛撫をつづけ
キスを続け
抱きしめたり
セックスの後の余韻を
たっぷり
感じさせてくれるという感じだ

少々不細工でも
イケてる男の方が
少々イケメンでも
駄目な男より
断然にいいのだ

世の男子は
セックスにのぞむなら
そのあたりを踏まえると
その後の彼女との関係の
向上につながるだろう

私の女子友達と
せっくすネタになると
たいがいの女子が
同意見で
結婚したら最後
駄目男になって
セックスレスになっちゃう
夫婦もざらではないのにはおどろく
そして、そういう
駄目な男に限って
遊びせっくすを妻以外の人とするのだ
この手の男は女子を
性処理の道具としかみていないので
まぢで最低だと思う
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by qpqp1999 | 2011-09-11 12:58 | 性同一性しょうがい

締め切り

コミックラウドhttp://www.comicloud.net/eng/で
連載している
「ノブナガール」
シーズン2になってからの
二話目締め切り間に合いました
地方に住んでるから
発送するのに
東京に住んでる人より
一日締め切りが短くなるのが
不利なところです
データ入稿なんですが紙に出したのも必要で
シーズン1の時は
関ヶ原の戦いとか描いてたので
モブシーンだらけでしかも
みんな甲冑つけてるという
それは、それは ハードなものでした。
それを通ってきていると
普通の服着た人で少人数しか出てこない
漫画って
(あ、でも内容はバイオレンスファンタジーものになっています
読み応えはあると思います)
余裕ができるので人物描写にエネルギーを使えていいです
実際、主人公の顔の造形とか
講談社のモーニングでシリーズ連載していた
「LOVE PLANET」の時くらいまで描き込めてよかった
最近はスマートフォンの人も増えてきたから
是非とも読んでやってください
アンドロイド対応で読めますし
Iフォンの方はアマゾンKINDLEのアプリ使って
読むことができます
英語版と日本語版の両方が収録されているので
英会話の勉強にもなります
是非にー
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by qpqp1999 | 2011-09-08 19:56 | 漫画
最近の金曜ロードショーは
魅せてくれます
「硫黄島からの手紙」は
いまいちなんだけど見ちゃいましたし
エヴァの次に
「ルパンVSクローン人間」もってくるところがいい
実は、この作品1978年という
昔に作られたわりには
すごく良くできてる
宮崎駿作品の中では私は
「カリオストロの城」が一番好きなんだけど
ルパンシリーズOVAを含めて
二番目に好きなのがこの
「ルパンVSクローン人間」だ
ちなみに一番はルパン三世1の第2話の『魔術師と呼ばれた男』
これ、まさにマモーの基になっているやつです
そしてこの「ルパンVSクローン人間(現代「ルパン三世)」は
なにしろ
ルパンシリーズの中では
一番エロいところがいい
70年代ならではのhな雰囲気がよく出てる作品です
峰不二子の乳首をルパンが触るシーンがあるのって
この作品だけですよね
しかも峰不二子とフリンチの
SMシーンは子どもには強烈すぎます
謂わんとするのは、すなわちこれ
原作の「ルパン三世」に一番近い作品だということです
モンキーパンチ先生もとい加藤 一彦先生の
「ルパン三世」のルパンはこうでないといけない
ルパンは悪漢で好色でスマートぢゃなきゃ
何しろルパンが人を殺す・・・
宮崎作品ではあり得ない情景です
また
この年代にしては
えらくメカデザイン等がさえています
なぜならば
1ルパン三世で作画監督、キャラクターデザインをし
「カリオストロの城」でも中心的な活躍をした
大塚 康生さんが
「未来少年コナン」の現場から駆けつけてメカデザインを担当したからです
この人は宮崎駿さんの絵の基になっていると言っても
さしつかえないでしょう
それくらいの絵力の持ち主です
元にもどりますが
なにしろ、この作品
展開がめちゃクールです
実は宮崎駿さんの「カリオストロの城」は
この作品を意識しているのではないか???
とすら思えるシーンが山盛りです
まずは
ミニクーパーとトレーラーの
カーチェイスシーン
明らかに
「カリオストロの城」の最初の見せ場
と重なります。特に、トレーラーが崩れ落ちるシーンで
地面まで落ちるところやミニクーパーが崖の
斜面を走るシーン等は
「カリオストロの城」のフィアット500のカーチェイスシーンと重なります
はたまた
マモーが歴史を操る場面での歴史情景は
「カリオストロの城」のルパンが語るゴート札の説明と重なります
この作品の極めつけは特別出演でしょうか
なにしろ
警察署長に演歌歌手の三波春夫、大統領として漫画家の赤塚不二夫
が出演してます
漫画家、ミュージシャンだったらこれ以上萌える
シチュエーションないでしょ!?!?!?
私ねえ
持ってるんですよ
この「ルパン三世」(当時原題)のフィギュア
b0130652_2025396.jpg

このフィギュアよく出来てて
ラストシーンの斬鉄剣までついてるんです
うちのバカ親がフィギュア落っことしてどっかいきましたけど・・・
そして
この放送で気になったのが
エンドロールです
三波 春夫が唄い作詞はモンキーパンチ先生もとい加藤 一彦先生の
演歌が流れる中
ルパンと銭形が肩を組んで核爆発の中を
逃げ回るというメチャメチャ受けるエンドロール
金曜ロードショーはやるのか???
やりました
てゆーか
もう
峰不二子の乳首シーンとこのエンドロールが
この作品の最大の見どころと言ってもいいでしょう
というわけで
ルパン音頭いってみましょう

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by qpqp1999 | 2011-09-03 20:13 | 映画
聖霊降臨後第12主日礼拝説教 マタイ福音書15章21-28節
 共観福音書ではマルコとマタイにだけみられる個所である。マタイ書はマルコ書を資料にしているので、当然ながら、内容は膨らむのだが、よく読んでみると、ただ、単に内容が増しているだけではなく、内容の趣旨から方向性が変わっていることがわかる。神学者のブルトマンは、マタイはマルコ書だけではなくオリジナルの資料を用いているとすら主張している個所でもある。
 舞台となる「ティルスとシドンの地方」は地中海東岸のフェニキアの町であるが、「行かれた」はἀνεχώρησενアネホーレセンで「向かう」であり、まだユダヤの地におり国境をまたいでいないことを示しているという聖書学者もいる。
 ここで「カナンの女」が登場するが、この時点でマルコ書と違いをみせてくる。マルコ書では「シリア・フェニキュアの女」になっている。実はこの点はこのマタイ書を読み解くのに大切な部分である。「カナン」はパレスチナに先住していた民族である。イスラエルは言わば侵略してこの地をユダヤにしたと言ってもいい。しかし、ユダヤ人の選民意識は特別に強烈で、それが先住民であろうとも、異民族として汚れた存在として認識されていたのである。
 今日の個所で、保守的なキリスト教徒なら大喜びしそうなイエス・キリストの対応が非常に濃厚に描かれている。「カナンの女が出てきて『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』」に対して「イエスは何もお答えにならなった」のである。無視されることほど辛いものはない。特に、必死に祈り、求め、求道を続けても何等の変化も無い時に私たちは主に無視されたと感じたりしないではないだろうか。実際のところ、何年も祈り続けていることが実現されなかったり、好転されなかったりすると、主に無視されたかのような印象を受けないでもないし、この主に無視されるということは、時に私たちを信仰から遠のけてしまいかねない事態ですらある。この「イエスは何もお答えにならなかった」という無視の部分はマルコ書には無い、ではマタイの創作かと問われるならば、それはそれで、慎重に判断しなければならない個所でもあり、そのあたりがブルトマンの言う、マルコの独自資料説になってくるのである。人と人との関係であったとしても、無視されるというのは相当にこたえるものである。特に、この問題を抱えた女性が必死になって、イエス・キリストにすがっているのに無視されるというのは、並大抵のことではない。私たちが、必死で祈りつづけ、また主に信頼していてもそれが叶わない、無視されるという事態は私たちを信仰の道からはずれさせかねないものですらある。
 基本的に汚れた者の祈りはきかれないというのは、実のところ現代のキリスト教の中でも、さもありなんとされるような状態である。聖書によれば、これは「汚れ」ではなくて「異邦人」だからということに注釈をつけていくのが一般的だが、もはや、ユダヤ人系のキリスト教徒がマイノリティーになっている今、「異邦人」の「汚れ」に何等の意味があるだろうか。日本人というだけで「汚れている」と言うなら、者笑いの種ですらある。尤も、マタイ書の書かれた当時は、「異邦人伝道」が開始された時期であり、ユダヤ教からキリスト教になったユダヤ人からしてみれば「異邦人キリスト教徒」などあり得ない話であった。だから、今日の個所でマタイはわざわざ、ユダヤ人優先の立場をイエス・キリストにとらせているのである。しかし、それは現代の私たちにはあまり意味がない、むしろ私たちが注目すべきなのは、それほどまでに「異邦人」が「汚れた」存在として認識されていたというこであり、またイエス・キリストすらも基本的にその立場に立っているという重大な点である。
 マタイ書の濃厚な描写はマルコ書を圧倒している「弟子たちが近寄って来て願った。『この女を追い払ってください。叫びながらついてきますので』」である。なんとこの「女」は無視されたにもかかわらず、「叫びながらついて」きたのだ。ここでマタイが描写しているのは、見捨てられて当然の「汚れた」者の必死になって救いを求める姿である。
 「イエスは『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』とお答えになった」のだ。この「失われた羊」「遣わされる」は旧約聖書においてはイスラエルの疲弊ぶりと救い主の派遣を意味する言葉であるる。未だユダヤ人系キリスト者が多くをしめていたキリスト教社会において、マタイは「異邦人」伝道を見据えて、あえてこのように、まずはイエス・キリストのイスラエルに対する救い主としての立場をまず明確にしているのである。「女は来て、イエスの前にひれ伏し『主よ、どうとかお助け下さいと言った』イエスが『子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない』とお答えになると」「女は」「『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです』」となる。「小犬」は愛玩用の小型犬であり、実際、食卓から落ちる食物を食べている。この「カナンの女」は自分がどのような立場にあるかをはっきりと明言し、その上で尚、与えられるはずの恵みを求め続けるのである。実はこの姿勢は、実際に汚れた存在である自分自身を忘れてしまっているキリスト者にこそ与えられるべき個所であろう。また、自分自身を「汚れた」存在として卑下している者にこそ与えられる恵みの個所である。そして、同時にマタイが示す通りに「汚れた」存在にまでも主の恵みは届くのであり、ましてや人が人を「汚れた」者として排除することは主の道に反するということを、かなり遠まわしにではあるが痛烈に記しているのがわかる。
 「そこでイエスはお答えになった『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように』その時、娘の病気は癒された」のである。つまり、ここでマタイは民族という限られた枠ではなく、「汚れ」という人の持つ、どうしようもない点に対して、信仰がそれに勝るということを描いている。
 昨今の日本で言うなら「汚れた」人たちはいくらでもいる。犯罪者、あらゆるマイノリティーな人々、どうしようもない人たちがたくさんいる。そして、キリスト者はいつしか自分自身を清らかな者として勘違いして、その「汚れた」人々を差別し、そのような人々を救いの外に置こうとする。実際のキリスト教社会においても、それは現在進行形で行われている。マタイはそのようなキリスト教社会に否を唱えている。どのような「汚れた」者であれ、そこに主にしがみつく信仰があるならば、それは救われ叶えられるのだ
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by qpqp1999 | 2011-09-03 19:24 | キリスト教

連載再開

コミックラウドで連載している
「ノブナガール」
一か月お休みをいただいて
新装開店で
再連載です
アンドロイド対応
是非とも皆さま読んでやって下さい
http://www.comicloud.net/eng/
しかし
原稿に入るこの時に
エアコンが壊れた
来週まで
エアコン無しで
作画しなきゃならねい
しかし
まだ9月でよかった
というわけで
セプテムパー

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by qpqp1999 | 2011-09-01 21:12 | 漫画