牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

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胸が痛い

わたしには
ホルモンおっぱいがある
テレビ愛知のプロデューサーが
「豊胸してらっしゃいますよね」
とおっしゃる程度に
ブラで寄せると谷間ができる
ホルモンおっぱいは
万年思春期だ
万年第二次性徴期だ
万年生理状態だ
なので
乳腺はいつもパンパンに張ってるし
乳首も敏感になる
今日は
ゴスペルクワイヤーの練習で
ベイスを弾いていたのだが
私のフォームは
立奏が基本なので
ベイスギターは腰のあたりの低さに
なっている

ゴスペルの時は座奏なので
ベイスのボディーが乳房にあたって
痛い・・・
お風呂から出て
タオルで拭くときも
そっと拭かないと痛い
ブラ無しで走ると
揺れて痛い
胸が痛い
というよりは
乳が痛い・・・かな
といわけで
胸が痛いを聴いてみましょう

by qpqp1999 | 2011-08-28 19:11 | 美容
聖霊降臨後第10主日礼拝説教 マタイ福音書14章13-21節
 「イエスはこれを聞くと」というところから始まる、この聖書個所、「これ」とは
その前に記されている洗礼者ヨハネの処刑である。
 洗礼者ヨハネの処刑といえば、舞台劇になるほどにドラマチックな物語である。あらすじを言うと、洗礼者ヨハネは領主ヘロデが兄弟の兄弟フィリポの妻を自分の妻にしたことを律法違反であるとしてとがめたため牢獄に入れられた。しかしヘロデは民衆に人気のあるヨハネを殺せなかったが、宴席で妻ヘロディアの娘があまりに上手に踊ったのでその褒美を何でも与えると誓った。すると娘は母のいいつけにより洗礼者ヨハネの首を要求し、ヘロデは面目を保つためそれを行ったというものである。詳しいことを言うときりがないのだが、覚えておきたいのはヘロディアはヘロデ大王とハスモン王朝の血をひくマリアムメの間にできたアリストプロスの娘であったという事、そして宴席は王宮で行われていて、洗礼者ヨハネが投獄されていたマルケス砦とはあまりにも距離があるので、これは、後々の人々の好奇心によって作り出された物語と考えられていることであろうか。しかし、洗礼者ヨハネが処刑されたのは歴史的事実であり、イエス・キリストは「これを聞」いて「船に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた」のであった。
 全体としての物語の運びは共観福音書の元であるマルコ書に従っているが、洗礼者ヨハネの死をその弟子たちが告げに来るエピソードや、それまでナザレにいたはずのイエス・キリストがいきなり湖畔にいることになっている等マタイ特有の編集がなされていることには意味がある。
 それは洗礼者ヨハネの処刑という事柄が、イエスの十字架での処刑という事柄とを関連付けさせて描こうとしているマタイの立場である。洗礼者ヨハネの集団とイエス・キリストの集団が良い関係になかったことは多くの神学者が指摘しているところでもある。史実においてこのようなことが起こったかどうかは極めて難しいものがある。しかし、マタイはあくまでもここにイエス・キリストの受難というテーマを掲げることがこの福音書を書き進めるのにどうしても必要であった。それは次に続く「五千人に食べ物を与える」という物語にも適用させるためである。
 しかし、それに先だってマタイはイエス・キリストが「退かれた」にも関わらず、「群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った」という物語を登場させる。これはマタイ福音書のオリジナルである。「イエスは船から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人を癒された」と、まず教えよりも癒しの業をなされたことが強調されているところは見逃せない。
 確かに、罪深き私たちにとって必要なのは主イエス・キリストによる「癒」しなのだ。この「病人を癒」すという問題になると、ちょうどイエス・キリストのいた時代に生きて住んでいないとその幸運には恵まれないと思ってしまうのだが、マタイはこの「癒」しの業が、イエス・キリストの受難と関連付けながら、現代においてもイエス・キリストの業は行われることをマタイは強調する。それは、続く「五千人に食べ物を与える」という言葉に繋がっていく。もともと、この「五千人に食べ物を与える」という共観福音書全てに見られるエピソードがどのくらい史実性を持つかは議論の余地の多いにあるところである。そもそも「五つのパンと二匹の魚」が増えるというのは現象としてどういうものなのか理解に苦しむものである。よくイエス・キリストを映画にしたものでこのシーンになると、何やら手品みたいにパンと魚がばーっと増えたりするが、この数の問題はマタイでは、もはや問題になってはいないことも一つのポイントである。
 マタイ書においてこの「五千人に食べ物を与える」は、最後の晩餐と関連づけて語られている。まず「魚」への言及が他の福音書に比べるとはっきりと少なくなっている。尤も「魚」はイエス・キリストを象徴するギリシャ語でもあったから、意味がないわけではない。「魚」もまたパンと同じように「取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを割いて弟子たちにお渡しになった」のである。
 しかし、次の節になると「魚」は消えてしまい、「パン」だけの言及にとどまることになる。「パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。全ての人が食べて満腹した。そして、のこったパンくずを集めると、十二の籠いっぱいになった」という次第である。
 ここで、元の課題にもどる、この「五千人に食べ物を与える」という奇跡が起こったとしても、それが現代の私たちにどのような意味を持つだろうか、また、そこにいた人たちにとっても一回限りの食事でしかない。
 そこで、最初のマタイのかかげたイエス・キリストの受難という事柄が大きく浮かび上がってくることになる。イエス・キリストの十字架の出来事こそが、私たちにとっての、何にも変えることのできない、また何物によっても妨害されることのできない「癒」しであり「パン」なのである。
 私たちは、どうあがいても罪という縄目から逃れることができない。人の生まれ持った特性として人はどうしても罪深いのである。また、その罪が深ければ深いほど、その人は救いに近いのである。「イエスは船から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れ」まれたのである。この「憐れ」みは、まさに今を生きる私たちにも注がれているし、マタイが強調したいのもその時点でいつも主イエス・キリストから注がれる恵みなのである。
 私は時に自分の罪の深さに絶望する。私は、とにかく「群衆」のようにイエス・キリストの「後を追」うしか、救われる術を知らない。また、弟子たちが言うように「自分で村へ食べ物を買いに」いくこともできない。私は主が与えて下さらねば、どうしても救われようのない者なのだ。そのような人の罪に対する主の姿勢としての受難がここに示される。
 「パン屑」が「十二の箱にいっぱいになった」はその主イエス・キリストの恵みの行き届き方の完成度をしめしている。言うまでもなく12は完全数である。つまり完璧にイエス・キリストの最後の晩餐に示される、贖罪の恵みは、どんなに絶望的に見える罪さえまでもつつみ込むのである。この「五千人に食べ物を与える」というマタイの個所は、徹底的な主イエス・キリストからの潤沢な恵みを示しているのである。
by qpqp1999 | 2011-08-21 15:27 | キリスト教

ご高齢者も萌える

先日
ワンフェスで、いつも
おなじブースでお世話になっている方から
デイサービスセンター新生ルーテルにもお土産が
ありました。
実は、動画でこの模様はupしたのですが
ブログへのアクセス数と
最贅回数の隔たりが大きかったので
改めて書きます
ワンフェスからデイサービスのご高齢者に
お土産って、と思うかもしれませんが
いやいやそれがすごいんです
これです
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一見なでもないおせんべいの箱ですが
タイトルがすごい
円谷ヒーローシリーズvol.0です

開けてびっくり
これです
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すごいゴージャスなビロードみたいな生地
タイトルが
「ウルトラQ c 円谷特技プロダクション1965瓦せんべい」
そして中をあけて
さらにびっくり
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シリアルナンバー入りです4244です
そして
そのおせんべい
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ウルトラマン
円谷プロのロゴ
ウルトラセブン
カネごン

そして
そして
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科学特捜隊のハヤタ隊員が
ウルトラマンに変身するのに使う
スティックです!!!
そして
円谷一夫社長自らのコメントが
入っていました
このおせんべいを創ったのは
なんと「ウルトラマンティガ」の製作に携わった
今泉吉孝さん
という方で
製作現場を去って、実家のお煎餅屋さんを
継がれて
このお煎餅の実現に至ったという・・・
ご利用者のみなさんもこの価値がおわかりだったようで
皆さん喜んでおられました
ご高齢者の心もつかむとは
円谷ぐれいとー
by qpqp1999 | 2011-08-18 19:22 | 特撮

終戦記念日

今日は終戦記念日だった。
正確に言うと
昭和天皇の玉音放送が
ラジオで放送された日で
実は戦勝国アメリカは9月2日を
戦勝記念日にしている
実際に
降伏文書調印
したのは9月2日
東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ甲板上、日本側を代表、重光葵外相、梅津美治郎参謀総長、
連合国を代表して連合国最高司令官のマッカーサー
だったからです。
ポツダム宣言と呼ばれている無条件降伏が要求されたのは
7月26日だったから
8月15日は遅すぎた。
その間に原爆の投下があった
尤も
沖縄戦という本土戦が始まったのが
3月26日からだから
もうこの時点で
すぐに戦争を止めるべきだった
最近、私のブログを読んで下さる方が多くなったので
きわどい事は
右翼やら
保守の連中による
テロに遭いそうなので
バカバカしいから言うの控えますけど
日本は、せっかくこの8月15日をメモリアルにしているのだから
平和についてはもちろん
戦争の原因、
その当時の状況を
検証する日にしたいものです
by qpqp1999 | 2011-08-15 19:48 | 戦争
かれこれ数年前か弟が使ってた
auの出してる携帯ペンクがほしくって
ドコモからauに乗り換えたけど
その時にはもうペンクは売ってなくて
残念だったことがあるがそれが縁で
この数年ずーっとauの携帯を使ってたんだけど
auのKDDIから電話があって
今使ってる携帯は使えなくなると言う
買い変えろと・・・
それならスマフォンにするかと思って
見積ったら7万円もするじゃないか
同じスマフォンなら
やっぱ
iフォンがカッコいいよな
しかも1万円も安かったしということで iフォンに乗り換えることに
してソフトバンクの営業所に行ったら
もうauの営業所に行かなくても
番号そのままで乗り換えられるという
へえ、よくできてんなと思った

当然のことながらauの親会社KDDIの担当は
ソフトバンクの営業所からの電話で
必死に引きとめるわけですよ
だけど悪質だね
その引きとめ方が・・・
前のドコモは
さっぱり気持よく乗り換えさせてくれたが
KDDIは
「どうして変えるのか」を
執拗に訊いて来る
ほとんど警察の尋問みたいな
失礼なくらい強い口調
しまいには態度を硬化させて
「解約料金が1万円もかかりますよぉぉぉぉ???」
みたいな
1万円損しますからという丁寧な忠告ではなくて
まるで
脅しみたいなことをKDDIはやってきた
ほとんどバトルになってしまう
そんな失礼な態度とられたら
1万円がなんぼのもんぢゃい
っていう気持ちになりますよね
生涯にわたって
KDDIとは円を切りますね同じスマホォンなら
そりゃ iフォンの方が カッコいいし、安いもん
そこまでされたら
意地になってでも変えますよ
KDDIはもうちょっと頭冷やした方がいいね
iフォンで
私の漫画「ノブナガール」も読めるってのは
楽しいね
スマートフォンをお持ちの皆さま
KDDIの人も
みんな
アマゾンKINDLEのアプリを無料ダウンロードして
コミックラウド comicloud
で連載されてる
私の漫画4で殺ってください
by qpqp1999 | 2011-08-12 19:44 | スマートフォン

聖母マリア

カトリック教会では
マリアは
聖母として特別な存在になっている
ほとんど女神といえる
どうかするとイエス・キリストより
上位だったりする
尤もルター派の開祖
マルチン・ルターも
雷に打たれて友人が焼け死に
死の恐怖の中で
聖母マリアのお母さんの聖人
アンナに
「修道士になりますから殺さないで下さい」
と祈ったという
どこ行ったの???
イエス・キリスト・・・
でもどうしても
女神ってほしいんですね

フェリーエイドという企画を
ボーイジョージがやって
ポールマッカトニーの曲
レットイットビーを
演ったんですね
個人的にはUSA 4 アフリカ
よかこっちの方が好きです
ポールマッカトニーがいい感じで出てるのに加え
リードギターにゲイリームーアが
ガキュキュキュキュキューと弾いてるのも萌えます
最も萌えるのは
あのケイト・ブッシュが
切なく歌っているところでしょうか
それにしてもいい曲だな
C G F A
というコード進行はまさに神・・・

ついでに歌詞もいきましょう
Let It Be (The Beatles)
レット・イット・ビー  (ザ・ビートルズ)


When I find myself in times of trouble
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom,
"Let it be."
私が悩んでいると
マリア様が現れて
賢い言葉をおっしゃる 
「そのままにしておきなさい」


And in my hour of darkness
She is standing right in front of me
Speaking words of wisdom,
Let it be.
そして私が暗闇の時の中にいると
マリア様は目の前にお立ちになり
賢い言葉をおっしゃる
「そのままにしておきなさい」


Let it be.
そのままにしておきなさい


Let it be.
そのままにしておきなさい


Let it be.
そのままにしておきなさい


Whisper words of wisdom:
Let it be.
「賢い言葉を呟くがよい。
『そのままにしておけ』と」


And when the broken hearted people
Living in the world agree,
There will be an answer:
Let it be.
失恋した人々が
この世を知って,異口同音に言うときの
答えが一つある
「そのままにしておきなさい」


For though they may be parted there is
Still a chance that they will see
There will be an answer:
Let it be.
というのも別れてしまうかもしれないが
それでもまた会うチャンスがあるから
答えが一つある
「そのままにしておきなさい」


Let it be.
そのままにしておきなさい


Let it be.
そのままにしておきなさい


Let it be.
そのままにしておきなさい


Let it be.
そのままにしておきなさい


There will be an answer:
Let it be.
答えが一つある
「そのままにしておきなさい」


And when the night is cloudy,
There is still a light that shines on me,
Shine on until tomorrow,
Let it be.
曇り空の夜でも
私にあたる一筋の光がある 
輝き続けなさい 明日まで
そのままにしておきなさい


I wake up to the sound of music
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom,
"Let it be."
目覚めると音楽が聞こえる
マリア様が近づいて来られ
賢い言葉をおっしゃる
「そのままにしておきなさい」


Let it be.
そのままにしておきなさい


Let it be.
そのままにしておきなさい


Let it be.
そのままにしておきなさい


Let it be.
そのままにしておきなさい


There will be an answer:
Let it be.
答えが一つある
「そのままにしておきなさい」


Let it be.
そのままにしておきなさい


Let it be.
そのままにしておきなさい


Let it be.
そのままにしておきなさい


Let it be.
そのままにしておきなさい


Whisper words of wisdom:
Let it be.
賢い言葉を呟きなさい
「そのままにしておきなさい」
by qpqp1999 | 2011-08-08 20:49 | キリスト教
聖霊降臨後第8主日礼拝説教 マタイ福音書13章24-35節
 毒麦のたとえはマタイ福音書にしかみられない伝承である。しかし、マタイ書の流れの中に巧みに配置されて効果を出している。というのも、「成長する種」と共通する要素をたくさん含んでいるからである。「眠る」「麦」「芽が出る」「実る」「刈り入れ」また、どちらの場合も主人は収穫まで手を下さい。
 パレスチナでは麦と一緒に食用に適さない「毒麦」が混生することが、しばしばあった。この毒麦は食用の麦と芽が出始めた時点では見分けがつかず、また成長すると食用の麦の根と根が絡まりあって、除去するのが困難であった。そこで、大抵の場合、収穫の時により分けるのが一般的であった。そのような背景を用いてのたとえによる教えである。
 私は牧師家庭に生まれ、教会の中で育ち、そして牧師になった。その過程において、教会という組織においては、まさに「毒麦」と言って差し支えのないような悪質な人が教会を構成していることに非常なショックを受けたものだ。キリスト教会であっても、人という存在がそれを形成している以上、どうしてもそのような状況が生まれるのである。それは福音書記者マタイの教会においても同じであっただろう。そのような問題についてマタイは一筆入れているのである。
 私たちは往々にして、人を裁く傾向が強い。そして人を裁く時は大抵の場合、己のことを棚にあげての行動になることがほとんどであろう。人類社会の成長につれて、だんだんと法整備が整い、人の感情ではなく法によって人を裁く制度が用いられて、それは今日でも未だ成長過程にある。死刑制度がある国、州、無い国、州があるように、この法律の整備もまだまだ未成熟なものであり、そこには、本来ならば排除されるべき衝動性がまだまだ存在しているのである。
 記者マタイは、そのような未熟な人の社会状況、組織の状態に対して、終末における主の裁きに信頼すべきことをここに主張している。不思議なもので、世の終末を観るまでもなく、人はその生きたように、その晩年を迎えることは私の個人的な感想である。どういうわけか、人はその人がしたように、その生き方がその人の将来に対してそれなりの反応を示すのだ。それでも尚、強者たる罪深き人が安楽にその人生を終えることも決して少なくもない。一番いい例がナチスのヒットラーであろう、彼は強靱な陣地で、幸せな結婚式を挙げてから、安楽に死んでいった。彼が行った悪魔的な行いについての報いはまるで無かったとすら感じる。しかし、私たちはそういった世のあまりに残酷な現状にさらされても尚、最終的に下される主の審判に信頼すべき信仰が求められるのではないだろうか。世に対しては弱者はあまりにも無力である。しかし、全ての決着は主がつけられるという、まさに弱者の代表であったイエス・キリストが主として語っておられるのである。主イエスは確かに世の悪に対して、何もなさらないかのように見えるけれども、それは何もなさらないのではなく、最後の審判における決着を見据えてご覧になっているということである。そこで、私たちもまた、そのようなスタンスに立って、終末における主イエスの裁きを確信して、現在の不条理に対して臨むという信仰が、まさに芽生えるのではないだろうか。まさに「種を蒔く人のたとえ」の次に配置されるにふさわしいマタイならではの伝承といえる。
 それに続けてマタイは「からし種とパン種のたとえ」を記述する。この記事に関してはマルコ書にもルカ書にも並行記事がみられる。
 どちらのたとえも、最初の小ささと結果の大きさがポイントになっている。これは、同時に最初の弱さと結果のもたらす強さをも示しており、これは「毒麦のたとえ」と関連して解釈されるべき個所となる。
 世において小ささ、弱さは、大きい強い存在、状態に対して、悲しいほどに無力である。しかし、主イエスの救いの中にあっては、小ささ、弱さこそが、最後にもたらされる大いなる報いにつながることが強調されている。
 実はマタイのこの個所は共観福音書で共有されていながら、マタイ独自の資料が加えられていることがわかる。それは「木」になるまでという点で、明らかに強く表明されている。「小さい」μικρότερονミクロテロンが育つと「大きく」μεῖζονメイゾンという、発端と結果の対比である。
 からしは食用の油を採るために栽培されていた。種はゴマ粒ほどの大きさだが5メートルほどのまさに「木」になる植物であることはよく知られている。この、あまりに極端な差が現実のものとして実を結んでいる事実を用いて、イエス・キリストにあって、小さき者は、かならずや「大」きい結果を得るという信頼と信仰を持って、現在の小ささに失望せずに希望をもって進むべきことが語られている。
 私たちは、現在の小ささ、弱さにあって、希望を失ってしまう。しかし、それはあくまでも、その時点での小ささ、弱さであって、そこに主イエス・キリストという結果を希望として抱くならば、かならずや、それは「大き」な「木になる」という主の必然を私たちは知って、その結末をめざして現在の小ささを恵みとして受け入れることができるようになるのである。
 その意味でつづく「パン種」のたとえは、同じことの繰り返しのように読まれてしまいがちであるが、それが、人々の日常に普通にある「からし種」ではなく「パン種」であるということで大きな意味を持ってくる。それは、当時のユダヤ社会の習慣から学ぶことができる。即ち、「パン種」はユダヤ教にとっては忌むべき存在であったという点である。過ぎ越し祭において種いれぬパンがささげられ、各家庭の台所においてもパン種をすっかりとりのぞいて家を清めていたのである。そこで、わざわざ、この不浄なる「パン種」をもってしてマタイは、大いなる祝福の結果のたとえに取り入れているのである。まさに、史実のイエス・キリストが進んで、不浄とされている小さき人々と交流し、そこに信仰を広めたことが覗え、また、現在の私たちもまた、そのように主イエス・キリストにあって、いかにこの世から疎まれていても、それは必ずや反転して大成することを信じる恵みへとつながるのだ。かくして、私たちは18節の種を蒔く人のたとえから始まって、主の大いなる御業の中に生きるべきことを学ぶのである。
by qpqp1999 | 2011-08-07 15:49 | キリスト教