牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

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プロテインダイエット

あまりにも暑い季節になったので
もう
スマーティーには入れない
ので
体重を維持すべく
プロテインダイエットしてみた
とりあえずDHCのやつを
試してみる
飲んでみたが
うすーいジュースみたいなもんだ
しかし、意外に腹もちはする
でもほとんど水だし
プロテインそのものにカロリーないから
こればっかりで2日も過ごせば
確実に1キロ以上は痩せる
52キロをキープしているつもりが
51キロになっちゃった
効果はあるけど、食欲を相当に制御しないと
これはつづかないと思った
by qpqp1999 | 2011-06-29 12:50 | 美容

Qちゃん

大河ドラマの
お姫様たちのおつきの侍女たち
どうしてみんな
Qちゃんみたいなんだろう
漬物ではなくて
おばQの方です
侍女はみーんな
Qちゃん
おごうにいたっては
Qちゃんが
いっぱい出てくる
狙っているんだろうか
by qpqp1999 | 2011-06-26 21:09 | 歴史
聖霊降臨後第二主日礼拝説教 マタイ福音書9章9~13節
 今年の聖霊降臨後のテキストはマタイ福音書が選ばれている。
マタイ福音書は新約聖書の最初に配置されていて、また今日の聖書個所に登場する徴税人マタイがイエスの弟子となっていることなどを根拠にマタイ福音書こそこのイエスの直弟子であるマタイが書いたものであると考えられていた時代もあったし、今日でもその節を曲げないキリスト教徒も少なくない。尤も、確かに、2世紀前半の「教会史」の中でパピアスというフリュギアのヒエラポリスという所の主教が「マタイはヘブライ語で言葉を記したが、各自はできるだけよくそれを解釈した」と書いており、そこに根拠を置くこともできる。しかし、現実にはこのマタイ福音書は非常に巧みなギリシャ語の語ろ合わせを用いており、尚且つ、どうみてもマルコ福音書を基にして書かれていることから、これは初めからギリシャ語で書かれた書物であり、またマルコ書以降の福音書であることは間違いないので、この記者マタイがイエスの直弟子であって、福音書を記したとはとうてい考えることはできないものである。考えられるのは、このマタイ福音書記者はイエスの直弟子でもなければ、イエスと同時代の人でもなく、成立年代はマルコ書以降でQ資料を用いていることなどから紀元後70年頃に書かれたものであることが考えられる。
 今日の個所でも濃厚であるがマタイ福音書の特徴としてイエス・キリストの言葉や行動が旧約聖書の成就であるという神学と、イエス・キリストの到来後も律法の妥当性は否定されないということが挙げられる。
 そこで問題となるのが、徴税人たるマタイとの交流が律法に違反しないものではないかという議論になってくるし、またマタイもあえてこの問題に取り組んでいるのである。史実のイエス・キリストを知らない福音書記者ではあるものの、この徴税人との交流についてはマルコ書に基があり、ルカもまたこれを用いていることを考えると、確かに福音書記者マタイは史実のイエス・キリストを知らなかったかもしれないが、イエス・キリストが進んで徴税人たちと交流していたことは史実に遡ると考えられる。十字架で処刑されるほど、ユダヤ教最高法院やファリサイ派の人々にイエス・キリストが嫌われていたことからも、この史実性はいよいよ高められるものである。
 徴税人は二重の意味で忌み嫌われていた。まずは彼らのやり口の悪質さにあった。彼らはローマ帝国への税金を徴収する役目をしていたが、その実態は、まず彼らが定められた税金を前払いの入札で購入し、それに利ざやをのせてユダヤ人から税金を徴収するというものであった。であるから、その利ざやが彼らの生活を支えていたのであり、徴集しそこなったら最後、自分が損害を受けるというものであったから、彼らの徴税はせっぱつまった状況の中で行われていた。もちろん、徴集される側のユダヤ人もその仕組みを知っていたから、本来の正当な税金よりも多く徴税されることに腹を立てない人がいないわけがなかった。更に、ユダヤ教の宗教的価値観からも徴税人は罪人として見なされていた。当時ユダヤの地はローマ帝国によって支配されていたが、ユダヤ教は健在であったので、多神教のローマ帝国はユダヤ人から見れば、邪教の類であり、その邪教の僕として働く徴税人は反ユダヤ教として汚れた存在として見なされてもいた。とにかく、罪人と定められた人の中でもとりわけ厳しい立場におかれていたのであった。
 9節でマタイが「収税所に座っているのを見かけて『私に従いなさい』」というところからエピソードははじまる。基のマルコ書、また同時代に記されたルカ書でも招かれる徴税人は「レビ」である。しかし、マタイ書だけがこの名を「マタイ」としている。また10章の12使徒のリストの中にこの徴税人マタイが入っていることも見逃せない。何故、マタイという名前にこだわることになったのかは神学的には答えることの困難なものである。むしろ、読む側の解釈にゆだねられる所が大きいのではないだろうか。そこで大事なのは、記者マタイとこの徴税人マタイが同一人物とみなすことをやめるということである。そうすることによって、このマタイという名にこだわる記者マタイの意図をより正しく解釈することができるからである。私が思うに、マタイはこの忌まわしき徴税人たる人物を、この個所を読む人それぞれにあてはめて考えることを想定しているのではないかと思う。そこで記者マタイはわざわざ、自分の名をこの徴税人にあてはめたのではないだろうか。私たちは、主の前に確かに忌まわしい汚れた存在なのであることを改めて確認するべきことの大切さを主張しているのではないだろうか。
 この汚れた存在とイエス・キリストは食事を共にされる。これが、ファリサイ派の人々の反発を招く。ユダヤ教にとって食事は神聖なもので、食事を共にするということは礼拝にも等しいものであったから、汚れた者と共に食事をするというのは完全に律法違反であった。ここが大切で律法を重んじるマタイがわざわざ、この反律法的な行動を福音として取り入れ記述していることであり、また、この反律法的な汚れた人が12使徒の中に入っているところである。共観福音書で同じ記述があるのに対してマタイだけ傑出している点がある。それは、マタイ福音書ならではの旧約の成就である。「わたした来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」という言葉はマルコ書にもルカ書にもあるが、「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か行って学びなさい」とイエスは律法のエキスパートであるファリサイ派の人々に対して、律法的に更に上位から教えを語られる部分はマタイ書ならではの編集句である。
 このマタイの引用句は旧約聖書ホセア書6章6節からの引用である。律法を重んずるマタイにとって、罪人の救済はイエス・キリストによって成就する律法そのものであって、けっして律法を厳主することに救いを求めるファリサイ派の律法の解釈とは違うものであることがここに明らかになるのであり、これがマタイ書に特有のイエス・キリストの到来においても尚、律法は健在であるという神学であり、福音なのである。
 この汚れた者として忌み嫌われ、実際に罪を繰り返すマタイは、私たちの姿そのものであろう。私はここにあえて記者マタイがその名をここに用いた理由として提案するものである。そしてマタイの主張する律法とは、あくまでも旧約聖書の成就たるイエス・キリストによって起こった救いの恵みの中で初めて本来の意味を発揮するものである。それ故に私たちは、主の「憐れみ」の中に救いと律法の両方を見出す恵みに与かれるのである。
by qpqp1999 | 2011-06-26 14:44 | キリスト教

女性化乳房

性同一性障碍の発症が早い人ほど
第二次性徴時代が辛いことはないものです
私の最初の性同一性障碍の症状は
小学校の入学式の時
というかその前
制服が用意された時
それがスカートでなくてパンツだったことに
驚いた
そして
入学式の時
男子の列に並ばされた時に
え゛っ こっちなの!?!!?
という感じだった
それでも
小学校の時から髪の毛は長くしていて
女の子に間違えられると
安心したものだ
それがクライシスしたのが
中学生になった時
髪の毛切らなきゃならなくなった
とこやさんで
流れていく長い髪を見ながら
何故か涙がでてきた
中学生時代は暗黒の時代で
ほとんど記憶を消し去ってしまっている
ただ よおく 覚えているのは
第二次性徴を迎えたとき
ホルモンバランスの崩れで
私は女性化乳房を発症させた
他の女の子たちがブラジャーしなきゃ
いけないくらい大きくならないのは
悲しくて、うらやましかったけど
少しだけど胸が膨らんだことには
とても安堵したものだ
この症状は高校まで続き
高校生の時、身体検査で
医師が私の胸をみて
そのしこりのある膨らみに気づいて
なんか言ったのを覚えている
豊胸手術をしたいのは山々なのだが
人工乳は少し抵抗がある
今、投与しているエスとラジオールは
エストロゲンと呼ばれる
女性ホルモン薬の中で最強のものだ
この歳になってもまだ
女性化乳房は成長しつづけている
現在Bカップ強
体重52キロ
もうちょっと太れば乳もでかくなるが
くびれたウエストには変えられないものだ
by qpqp1999 | 2011-06-23 20:44 | 性同一性しょうがい

女性用トイレ

先日、とあるスーパーというか
「ジャスコ」なんですけど
行ってきたら
すごい人でした
んで、おしっこしたくなったので
男性用トイレに
入ったて
速足でうんこ用のトイレに入ったら
「あっ女が入ったぞ(怒)」
と外ですごい迷惑そうに
怒ってる・・・
ちょっと怖くて10分くらい
出れませんでした
ちなみに
すっぴんでしたし
おっぱいもわかんないような
だぶだぶのTシャツだったんですが
でも
この方が迷惑なのか
女性用トイレを使った方がいいのでしょうか
混乱します
by qpqp1999 | 2011-06-20 20:09 | 性同一性しょうがい

久々に怖かった

今年のゴスペルクワイヤーの
パッキングは
そうとうに充実する予定です
プロのドラマー、ピアニスト、キーボード
ベイスと
リズム隊がしっかりしてます
ので
楽器だけでの曲もどうかと
いうことで
Tスクエアの曲とか候補にあがりました
でYOUチューブで調べてたら
すげい怖い動画にぶつかってしまった
これは夢にでるむー

by qpqp1999 | 2011-06-19 09:51 | ホラー

交通安全対策

自動車
ついついスピード
出してしまう恐れがあるので
レーダーを取りつけました
このレーダー
オービスや
ネズミとり取り締まりや
パトカーを探知して
手前1キロメートルから
ジャキイインという警報音で教えてくれる
しかも
オービスとかは
当地の写真まで出てくる
このレーダー
その名もユピテル
ギリシャ神話の守護神だ
ちなみに
私の自動車にはR2D2も
搭載されているむー
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by qpqp1999 | 2011-06-18 17:24 | 交通安全
テレビ愛知のブロガパンダの
MUSTっていうタレントさんのヘッダ画面を
描くのを依頼していただいたので
その打ち合わせと
私自身のプロモーション活動で
テレビ愛知に行ってきました。
編成局メディア開発部の担当部長様と
番組製作会社の社長様じきじきに
出迎えて下さって
テレビ局の会議室へ
なんとアイスコーヒーからコカコーラまで
オーダーできます。もちろん局からの御馳走です
講談社の編集部でも本社のカフェテリアに行かないと
そこまでできないのが
このテレビ愛知では会議室からオーダーできてしまう
すげい
テレビ局で打ち合わせしながのコカコーラは
いつもの1万8千倍は
うまかった!!!
ヘッダ画面は近々にUPされます
また私の活動も
これから創っていくむー
まだまだ仕込みの段階ですが
お楽しみにむー

by qpqp1999 | 2011-06-15 16:19 | 芸能

DJ太郎

CD用のターンテーブル買った時から
嫌な予感はしていたが
とうとう、やってしまった
今度はDJミキサーを手に入れました
とはいっても
これは今年のクリスマスの
みえ子どもの城のゴスペルクワイヤーの
コンサートの時に
今年は私がMCをしますので
その時に使おうと
サンプラーとCDJをミックスし
尚且つ私のMCもラインアウトできるように
設備を整えたかったからです。
ご覧いただきましょう
これです
b0130652_18331952.jpg


しかし
楽しいったら、ありゃしないねえ
子どもに受けそうな
音ネタをたくさんサンプリングしてある
私のサンプラーと
CDJをミックスする時の
快感といったら、もうたまりません
CDJは道理で音のテンポを速くしたり遅くしたりする
機能が基本ついていることが
よくわかりました
また原稿料がはいったら
もう一台
贅沢なCDJを買おうと思ってしまうじゃないか
ころやのう!!!!

明日はテレビ愛知のプロデューサー様と
面談です。楽しみむー
by qpqp1999 | 2011-06-14 18:34 | 音楽
聖霊降臨祭礼拝説教 ヨハネ福音書3章1~5節
 聖霊降臨祭は復活祭、降誕祭と共に同じく重んじられるべき祝祭日である。なにしろ、この聖霊の力なくして使徒たちのその後の働きはあり得なかったし、キリスト教の宗教としての出発も無かったからである。
 だが、この聖霊については、未だに議論の続く信仰や神学の課題として存在していることには戸惑いを感じないではいられない。たとえば、今日の使徒書の個所では、神がかり的な現象が起こって使徒たちは聖霊を受けるのだが、キリスト教の根幹を築いたパウロは聖霊を受けていたかというと、極めて怪しいものがある。その一方で、現代社会におけるキリスト教の宗派によっては、この聖霊を異常に重んじて、異言と呼ばれる一種の奇跡の発生等のオカルト的な現象がなければ、信仰には至れないというような極端な信条をかかげているのもある。私の知人に何人かそういう宗派の人がおられたが、やはり聖霊は鳩が羽ばたいてくるような感覚を受けるというようなことを言っておられた。
 では私の場合どうであるかというと、異言とか、鳩のはばたきとかは一切無いものである。私が考えるに通常の人は、前述したオカルト的な現象を体験することは稀であると言ってよいであろう。反対に、そのような現象に重点をもつ信仰は、もはや信仰ではなく迷信に近いと私は聖書から学ぶ。
 その意味で今日の、使徒書における使徒たちの超常現象についてあれこれと言ってもそれは、現代の苦しみの中を生きる私たちには何の意味もないどころか、かえって、おかしな方向にその信条のあり方が行ってしまうのではないかと懸念するものである。
 私が聖書から教えられるかぎりにおいては、ほとんど正気を無くして、わけのわからないことを言ったり、超常現象に依存するのは、まさに今日のヨハネ福音書におけるニコデモと同じような間違いをしてしまっていると認識するものである。
 では「聖霊」とは何かということについて、話しを進めていきたい。「聖霊」とはギリシャ語原典でπνεῦμαプネウマであり、これは「霊」というよりは「風」と訳されるのが通常の訳し方であろう。尤も、キリスト教が絶大な力をもってからはこの言葉は本来の単語たる「風」よりも「霊」と訳されることが主流になってはいるのであるが、あまりにも「霊」というミステリアスな言葉に翻弄されたり、そればかりを中心にもってくるのはいかがなものかと考える。というのも、では、その「霊」が私たちに一体何をしてくれるというのだろうか、異言やら鳩の羽ばたきやらがいくらあっても、おおよそそれによって私たちが救われるとは到底考えられないのである。聖書における「聖霊」とはそのようなオカルト的な事柄を指しているのではなく、私たちの生活や生き方に直接作用して、私たちの生きる、その進む道や選択を左右するような実存的なものでなければならないのではないだろうか。その意味で、今日、テキストに用いられるヨハネ福音書の個所は、現代を生きる私たちにとって「聖霊」とは何なのかを改めて学ぶことのできる大切な個所であろう、。
 登場する「ファリサイ派」の「ニコデモ」という人物は聖書の中でこのヨハネ福音書の3章にしか登場しない稀な人物である。「ファリサイ派」は紀元前数十年頃から、ヘレニズムの影響を受けたユダヤ教から発生した人々のことである。もともと、ユダヤ教には来世観とか終末論といったものがなかったのだが、ヘレニズム文化の影響を受けていく歴史の中でだんだんとユダヤ教の中に来世観、終末論を展開するようになり、そのための律法を厳主するということにより儀とされていわゆる「天国」に入れるというような信仰をもつ人々であった。キリスト教の根幹を築いたパウロも元々はこの「ファリサイ派」の中の優等生であったから、彼がその使徒書の多くにおいて、イエスキリストの十字架による儀認論を展開していき、生前のイエス・キリストがどんな人でどんなことをしていたかについては、あえて「一切語らない」という立場をとったのはごく自然なことであったであろう。パウロの目指したのは徹底したイエス・キリストの十字架の恵みであり、私たちの罪の贖いであって、イエス・キリストの生前における奇跡の類はかえって、パウロの伝えたいことを妨害することになりかねなかったからであろう。今日のヨハネ福音書はまさにその点を「聖霊」の理解から語っている個所ではないだろうか。ニコデモはファリサイ派の中でも「議員」であり、宗教的に高い地位にある人であるが、夜にこっそりとイエス・キリストに会いに来る。ここに込められているのは、ニコデモはイエス・キリストに何等かの可能性を見出していたが、まだ確証を得られていない状態であることを表現しているのであろう。事実、その後のイエス・キリストとの会話の中で、ニコデモの無理解さが暴露されてしまうことになるのである。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」というイエス・キリストの言葉はよく読むと、注目すべきものがある「神の国に入る」ではなくて「神の国を見る」なのである。つまりこれは現在進行形の信仰を示しているであろう。あの世に行く事を目的としているのではなく「神の国を見る」そういう生き方が示されているのである。「神の国」と訳されている言葉τὴν βασιλείαν τοῦ θεοῦ.テーン バセレイア トウ セオンは「神の力」が直訳である。よく訳されるのは「神の支配」とかである。「はっきり言っておく、人は新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」との決定的な言葉に対してニコデモは「どうして生まれ変わることができましょう」と幼稚な返事をしてしまう。これに対してのイエス・キリストの教えは「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」である。ここに「霊」πνεῦμαプネウマがあらわれる。水はどう訳しても「水」である。といっても安易にこれを洗礼に結びつけるべきではないだろう。また「神の国」という言葉もヨハネ福音書においてはこの3章での二回しか登場しないのも見逃してはならない点である。注目したいのは「神の国」を「見る」であり「入る」であるという点である。そして、その条件として「霊」による「新たに生まれる」という事態があげられる。これは、私たちがその主の恵みたる「霊」による「新た」なる生まれによらなければ神の支配の中でその生き方を進めることができないことを強調している。これは主にあっての恵みとしての「水」と「霊」を受け入れる中でこの世のあらゆる執着、前述したオカルト的な現象に頼ったり、富に頼ったり、力に頼ったりせず、世のすべてを捨て去り「神の国」を「見」、「入る」ことなのであり、ここに「聖霊」の理解があるのであるる
by qpqp1999 | 2011-06-12 13:00 | キリスト教