牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

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復活後第五主日礼拝説教 ヨハネ福音書14章15節~21節
 イエス・キリストの十字架の死と、三日後の復活を記念する祝祭日からもう五週間たった。この五週間の間に私たちは与えられた聖書個所からその、復活についての恵みについて色々と学んできた。そして今日の個所によって、その復活の恵みがいかに私たちの生活に密接に結びついているかを学んでいくことになる。
 まず驚くことは、このヨハネ福音書は紀元後90年から1世紀頃に書かれた最も新しい福音書であるということである。つまりイエス・キリストの復活の出来事がおきてから60年から70年もたった頃に書かれた福音書であるということだ。尤も、最古の福音書たるマルコ書でも紀元60年であるから、イエス・キリストの復活の出来事から30年も経過している。つまり、どの福音書記者も生前のイエス・キリストを知らず、復活の出来事があった時にこの世に生まれていた可能性はとても低いということである。
 ともすれば、昔の人、すなわち、イエス・キリストの同時代にいた人は、それはイエス・キリストの大いなる御業を目の当たりにし、空の墓も知っていたから復活も信じられたであろうが、現代の私たちにそれを、いきなり信じろというのは無理な話しだという論法は福音書においては通用しないということである。
 特に、今日のヨハネ福音書の記された紀元90年~1世紀におけるキリスト教共同体、特にヨハネの教会においては、世間からの、とりわけユダヤ教からの迫害が激化していた時代にあたることを前提にすべきであろう。ちょうどヤムニア会議においてキリスト教はユダヤ教ではなくなり異端として軽蔑される宗教にされてしまった時代の話しなのである。
 ヤムニア会議とはいわゆる現代的な意味での会議ではない。それは、このユダヤ教学校によった学者たちが長い時間をかけて議論し、聖書(ヘブライ語聖書)の正典を確認していったプロセスを指している。(この時代、すでにキリスト教はユダヤ教の一分派という枠を超えて、地中海世界へ飛躍しようとしていた。)その話し合いにおいて、当時のキリスト教徒たちが主要なテキストにしていた七十人訳聖書についても議論され、その中のある文書はヘブライ語にルーツを持つものでないため、正統なものではないという結論に至ったというとても論理的で学問的にも信頼のおける会議であった。
 それだけにキリスト教、共同体に与えたダメージは相当なものであったことは、簡単に想像がつくであろう、
 これは現代の日本社会におけるキリスト教共同体にもよく似た状況であるような気がする。キリスト教は世界人口の4分の1にまでなっている大宗教であるが、日本では1パーセントになるかならないかという状況であり、また各宗派、教団との連携もうまくとれとおらず、ともすれば互いに否定しあったりするほどのあり様である。日本というこんな状況の中ですらエキュメニズムという方向性の正当性が疑われるような事態である。
 しかし、このような状況は実は真のキリスト教理解に到達し、また真のキリストの恵みに与かるには最良の環境と言えるかもしれない。というのも、キリスト教文化圏ではキリスト教は保守であり、弾圧する側であり、どうかするとキリスト教の本質から外れていってしまいがちであるからである。
 話しは元にもどって紀元90年から1世紀に書かれたヨハネ福音書はかくして、信仰という観点においては最良の環境におかれていたのである。もちろんイエス・キリストと会った人は一人もいないし、この特殊なキリスト教共同体は他の福音書をこの時点ですらおそらく知ってはいなかったであろう。そして正統的な聖書神学の議論を経てついに異端とされたキリスト教共同体は、イエス・キリストの恵みに近づこうとすればするだけ、この「世」とどんどん対立しなければならない状況にあったのである。
 イエス・キリストの愛弟子の一人についての神学は、この福音書においてとても魅力的な記述であるが、それは決してこの福音書がイエス・キリストの直弟子たちに直結していたという証拠にはならない。
 そこで、今日の聖書個所では、反イエス・キリストサイドを指して「ユダヤ教」という枠組みを超えてκόσμοςコスモス「世」としているのである。ここまでくると、もはやキリスト教は反社会的宗教という汚名を着せられ、あえてそれを受け入れることが迫られていたのであった。
 しかし、これでは一体誰がこの信仰に立つことができただろうか。もはや、普通の神経では無理に近い。そこがとても大事なのである。普通では、私たちはイエス・キリストの信仰の恵みには決して与かれないのだ。今日の聖書個所が力説しているように「私は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」という「真理の霊」の働きにおける恵みが重要になってくるのである。
 この「弁護者」παράκλητονパラクレートン、「パラクレートス」については色々と神学的な議論があり、実際この言葉を使っているのは福音書ではヨハネ福音書だけであり、即座にそれを他の福音書の「聖霊」と同じに考えていいのかどうかはきわどいものがある。私訳してみるとこのπαράκλητονは「助けるために呼ばれる」としたいところであるが、意訳しすぎかもれない。だが、意味合いとしては、私はこの「弁護者」無しには私たちの信仰は成立しないというものでり、また、この「弁護者」を遣わしてくれるからこそ生じる、逆境にあっても立ち上がる私たちのあり方が与えられるのではないだろうか。
 事実、ヨハネ福音書のキリスト教共同体はまさにこの状態を体験し、告白していたのである。そして反社会的な集団として弾圧されながらも、共同体はイエスキリストの「掟」である「互いに愛し合いなさい」ということを基本姿勢に据えて立ち向かったのであった。
 まさにマイノリティーであるがゆえに、主に愛された共同体であったことが、このヨハネ福音書から力ずよく発されているのである。
 かくして私たちは、孤独であるからこそ、苦しいからこそ、逆境にあるからこそ、「互いに愛し合」うことを主イエス・キリストの「掟」としてこの世に対していくのである。
by qpqp1999 | 2011-05-29 11:56 | キリスト教
三重県のイベント
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どぞー

by qpqp1999 | 2011-05-15 21:32 | キリスト教
復活後第3主日礼拝説教 ヨハネ福音書10章1~18節
 この個所は、私が神学生だった頃、説教学の講義で与えられた個所で、とても印象に残っている。説教学の講義は間垣先生というヨハネ福音書神学のエキスパートだった。今日のこの個所はイエス・キリストが「羊飼い」になったかと思えば、飼育所の「門」になったりと、いささか難しい個所である。実はイエスの復活後のエピソードとして今日のテキストには使途書の1章も選ばれているが、私はあえて福音書の方を選ぼうと思う。
 実はこの個所を課題として与えられた私は間垣教授からえらい怒られてしまったのだった。そして、その事が私の聖書に対する取り組みの姿勢を根幹から変えることになる大切な経験だった。私はイエス・キリストの贖罪論、犠牲のイエス・キリストを中心にして説教を作ったところ、間垣教授のお叱りの言葉は「松本君、もっと聖書に忠実になりたまえ!ヨハネ福音書のイエスは十字架の上で悲鳴をあげるようなイエスではない。というものだった。間垣教授の執筆されたヨハネ書研究の神学書は、イエス・キリストの贖罪論を後世の加筆だということに始まって、イエス・キリストは栄光の道として十字架に輝かれたというものだった。
 確かに、NTDと呼ばれる権威的な注解書でも、イエス・キリストの受難の主というスタイルや個所は後の加筆、修正であると考えられていた。それ以降、私は聖書によって説教をするのであれば、徹底的な聖書神学研究が基本になるべきであつて、それは、しばしば私たちの聖書に対する固定概念をくつがえすものであることを知ったのだった。
 実は今日の個所はヨハネ福音書においては珍しい個所なのである。それは、「たとえ」を用いてイエス・キリストが語られていることである。ルカ書やマタイ書と違い、ヨハネ福音書においては二か所しかたとえを用いた記述は無い。そして、そのたとえが非常に短絡的にイエス・キリストの苦難と復活につながりがちであることも見逃せない。
 「はっきり言っておく」はヨハネ書において重要なことを語る時に用いられる定型句である。そしてこの言葉はこの10章に二回も続けて用いられていることも見逃せない。新共同訳では10章の1節からを「羊飼いの囲いたとえ」とし7節からを「イエスは良い羊飼い」と表題をつけてある。そのわりには7節以降のほうがはっきりと「わたしは羊の門である」と命題をうちだしているのも特徴といえるだろう。ところがその後で「私はよい羊飼いである」とも明言するから、多少話しがややこしく感じてしまう。
 まずは1節から6節までを一つのかたまりとして観ることからはじめてみたい。この部分にはイエス・キリストが門であるとは、どこにも書いていない。ここでは「声」が重要な言葉になっている。「盗人であり、強盗」をファリサイ派の人にあてて書かれていることはまず間違いないであろう。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭にたって行く」復活後の大第三主日にこの個所が選ばれていることには興味深いものがある。おなじ今日のテキストとして復活したイエス・キリストと弟子たちとのやりとりが使徒言行録でえらばれているが、ヨハネ書にも復活の物語があるのに、あえてこの個所が選ばれているのには意味がある。復活の主イエス・キリストは「声」なのだ。φωνῆςフネーサースは「声」とも「音」とも訳すことができる。復活の主イエス・キリストを信じるということは、その「声」に聴き従うというより積極的な私たちの行いという現象を指しているのではないだろうか。ただ、単純に死から復活したからイエス・キリストが神だというだけでは、ともすれば熱狂的迷信に近いものになってしまう。そうではなく、私たちに語りかけてくださるその声こそが復活を信じる門を通ることになり、またその声に従っていくことになる。
 そして二度目の「はっきり言っておく」は7節から発せられる。「イエスはよい羊飼い」というタイトルのついたこの部分のしょっばな7節から「わたしは羊の門である」と宣言なさる。さっきまで、「声」だったのが、今度は「門」になる。今日の全般の部分はヨハネ書にしか記されていない稀な伝承である。それだけに神秘性を強く帯びている。「私を通って入る者は救われる、その人は門を出入りして牧草を見つける」救われるということはイエス・キリストの「門」これは十字架の栄光と復活を信じることと関連してくる。というのも次はイエス・キリストが「門」から「私はよい羊飼いである」に変わることから導きだされるであろう。さっき、門といったばかりで今度は羊飼いになるというのは文章的にどうかと思ってしまいそうだが、ヨハネ書はこれをもちろんあえて書いているのである。イエス・キリストは確かに「門」であり「よい羊飼い」なのだ。そしてそれは「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つになる。」という謎めいた言葉に発展していく「私は自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている、それは父が私を知っておられ私が父をしっているのと同じである」ヨハネ神学の骨頂ともいえる「知る」ということがこれらのエピソードを一貫して貫いていることでわかる。
 「知る」ということは「わたしは命を再び受けるために、捨てる」という栄光の十字架と、復活について関わることになる。この羊飼いと門とは「わたしは命をすてることもでき、それを再び受けることもできる」をたとえとして描写されていたことが、ここに明らかになる。
 私たちは、イエス・キリストの復活という栄光を知るかどうかが問われている。その時に「声」に従うという現象がおきるのであり、このことこそが私たちの生において十字架と復活の栄光が一つになるのである。
 こうしてこの個所を読み進めてみると、門だとか羊飼いだとか錯綜しているように見えるが、実は終始一貫していることがわかる。ヨハネ福音書ならではの編集といえるだろう。
 なるほどイエス・キリストの十字架と復活というのは信じるというよりは「知る」ことなのであり、それによって私たちは生活の座においても、イエス・キリストの声にしたがうからこそ生じる対応が生まれてくることになる。
 イエス・キリストの復活というのは常識的にはとうてい受け入れられないものかもしれないが、それは受け入れるものではなく、聖書によって明らかにされた復活のイエス・キリストの門を通るというものであり、声に従ってみることであり、そしてイエス・キリストと一つになることだというヨハネ書ならではの福音が語られているのである。
by qpqp1999 | 2011-05-15 21:29 | キリスト教

女性用トイレ

先日
ホルモン治療してくれている
お医者さんのところに行ったら
尿の検査があって
看護師さんが
カップもってやってきて
トイレに案内してくれた
女性用トイレは使用中で
男性用トイレはあいてた
そしたら看護師さんが
気をつかってくれて
「あっ、今はどなたか使ってますから
ちょっと待ってくださいね」
と女性扱いしていただいた。
実は私は
性趣向が女性なので
どんなにホルモン治療していたとしても
男性用トイレを使用するようにしている
尤も、中にいる男の人たちは
一時騒然となるし
うんこトイレが満室の場合
立ちしょんもする
場合によっては
私が立ちしょんしているのに
入ってきた男の人がびっくりして
あわてて出て行って
あらためてもどってくることもある
しかし
女性用トイレに案内してくれるとは
さすがにホルモン治療を行ってくれる
病院だ
by qpqp1999 | 2011-05-13 16:08 | 性同一性しょうがい
オサマビンラディンが
武装もしてないのに
アメリカ軍に射殺された
あのフセインでも
一応は裁判が行われたが
この人に限って
問答無用で射殺していいという
わけだ
みんなビビってるし怒ってるから
反論しないけど
私のような人権優先家にいわせれば
せめて裁判ぐらいしろよな
という次第です。
南無~
by qpqp1999 | 2011-05-10 18:51 | 政治