牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

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4月24日は
イースターで
5時半起きだった
なにせ安息日の明けた早朝に
女性弟子たちが
イエス・キリストの墓に行ったら
復活してたということで
たいていの教会はイースターは
早起き礼拝をする
しかしマタイ福音書はどう訳しても
「日が暮れて」  なんだけどなあ
早起き苦手な私にはきついです
では
新生ルーテル教会の
新生ルーテルゴスペルクワイヤーの
イースターでの演奏をどうぞ
ベイスギターは私が担当しています

by qpqp1999 | 2011-04-27 18:58 | ゴスペル
復活祭主日礼拝説教 マタイ福音書28章1~10節
 イエスという青年が宗教改革をしたのは歴史的な事実である。日本の中学校の世界史の教科書にはっきり記されている。だが、このイエス・キリストが十字架刑で死して、三日後に復活したとなると話しは変わってくる。私などは牧師家庭に育ち、子供の頃から、いわば洗脳されていたから、イエス・キリストの死からの復活について、それほど疑念をいだかずに受け入れていた。しかし、牧師となって20年近くたった今、改めてその復活ということに真面目に取り組まなければならないことを痛感している。
 というのも、東日本大震災の復興という事柄、または福島原子炉の崩壊に至り日本中が危機にさらされている今、私たちにとって、復活とは何なのかを、より実存的に考えなければならない状態にあるからである。
 そこで今日の聖書個所を見てみると、間違いなく四つある福音書の中で最も現実離れした物語であることが、他の福音書の復活物語と比べるとよくわかる。一番リアルなのは、やはり最古の福音書たるマルコ書の復活物語であろう。この福音書はおそらく紀元60年頃に書かれたと推定されている。そして、このマルコ書を元にしてマタイ書、ルカ書が成立したことは聖書神学上では常識である。
 しかし、マタイ書とルカ書を読み比べてみると、ものすごい差があることが顕著である。イエス・キリストの墓に出向いた婦人たちの数がまず違う。この時点で史実に遡ることはほとんど不可能と言っていいだろう。なにしろ四つの福音書でイエス・キリストの墓に出向いた女性たちの数が全部違っているからだ。しかし、その反面、イエス・キリストの墓に出向いたのは男性の弟子ではなく女性たちであったということが一致しているとうことも見逃せない。つまり、これは史実に遡るものであるということである。文書は違えども、ごく基本的な事柄は半世紀を隔てた四つの福音書で一致しているのである。私はまずこのことに衝撃を感じる。
 そして、同じく全ての福音書が一致して強調しているのが、墓が空だったということである。今回の個所では「天使」が墓を封印してある岩をとりのけるのだが、これは脚色であって、一番目標にしているのは「あの方はここにはおられない」と墓が空であるということをよりドラマチックに描いたものであるといえるだろう。
 イエス・キリストは十字架刑になる前から「三日目に復活する」と言っていたことになるので、イエス・キリストの遺体を弟子たちが捕りに来る可能性は十分あったから、その墓に番兵を置くというのは、極めて当たり前なことなのだが、四つの福音書でそれが記されているのはマタイ書だけである。そのためににマタイ書ではこの番兵についての記述をあれこれとしなければなくなっている。史実においてどうだったかは不明だが、おそらくは、イエス・キリストの十字架刑死によってユダヤ教の最高法院サンヘドリンは安堵したであろうし、まさか「復活」するなど、考えられるはずもなく、また弟子たちも散り散りになっていて求心力を一気に失っていたから、そこまで神経質であったかどうかは議論の分かれるところである。
マタイ書の特徴として、他の福音書は女性が行ってみると、すでに封印してある岩が転がされていたのに対して、「天使」が「石をわきへころがし」とある。こんなことを書いたら、信頼できるものも信頼できなくなってしまうと考えてしまうが、マタイはもっとシンプルにすでに岩がとりのけられていたと記述するマルコ書を知っていてあえて、このように描いているのだからそれは、そこにマタイ書の主張を認めるべきことになる。あえて言うならば、不可能な事柄を主イエス・キリストは「天使」を用いてでも、それを私たちの目の前で行われるという主張である。
 現在の私たちは、傾きかけた日本に住んでおり、原子力発電所の崩壊によって被爆の危機にさらされている。そのような、どうしようもない事態において、イエス・キリストが主であるならば、何をしてくれるというのだろうか。
 極端な言い方をすれば、何もしてくれはしない。それが現実である。放射能の力には信仰をもって立ち向かっても被爆するだけである。天災においての被害についても同様であろう。では、聖書は、福音書の伝えようとするメッセージは無力なのかというと、決してそうではない。
 これは、いわゆる『メッセージ』ではない。活きて働く主の業に関わる問題なのである。たとえば、怪我をすれば怪我をするし、それが痛ければ痛いというのが本来あってしかるべき状態である。しかし、同じ怪我をしていても、そこに主イエス・キリストの復活という信仰をもって臨むか否かという問題に達すると、同じ怪我、同じ痛さでもそれは変わってくるのである。
 マタイ福音書では、墓に赴いた女性たちの信仰については一切語っていない。それどころか、復活のイエス・キリストが現れてはじめて大喜びするのである。尤も、これはマルコ書で女性たちが沈黙したままであったことをマタイ書は手直ししているのであるけれども、わざわざ手直しするところに意味がある。私たちにとって、夢、幻のような、切れそうな細い希望であったとしても、そこに復活の主イエス・キリストの信仰があり、その智があれば局面はすぐに反転するのである。
 即ち、主イエス・キリストの復活から与かる信仰という恵みが私たちをして、逆境から立ち直らせ、不可能を可能にしていく力があるということである。その意味で、今回の東日本大震災に対しても、確かに、事柄はあまりにも深刻で、立ち直れないほどであるが、それでも尚、私たちは主イエス・キリストの復活という信仰の一点において全ての否定的な観念を転換していくのである。故に、私たちはこのあまりにも悲惨な危機においてでもすら希望をもって前に進むことができる恵みに与かれるのである。
 最後に今回の説教をするにあたり、新共同訳の聖書を私訳したが、これはネストレ27番と呼ばれる、あちこちに散らばった福音書の断片の一番信憑性のあるものを編集したものであるが、ここで、「週の初めの日の明け方に」女性たちが墓に赴いているように訳してあるが原文はτῇ ἐπιφωσκούσῃテーエビフォースクーセーであり「日が落ちて」と訳せるものであり、安息日の終わる日没に女性たちが行動した方が適当ではないだろうか。 
by qpqp1999 | 2011-04-24 18:34 | キリスト教

神の業

先日のブログに
書きましたとおり
私は左手を
8針縫いました
一週間で抜糸です
ひっついてる!!!
キリスト教徒である
私は
人の持つ再生力は
神の業であると
信じるものであります

ビフォー
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アフター
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by qpqp1999 | 2011-04-22 13:49 | キリスト教

花見

私は
これまで
花見をしたことが無い
しかし
私の住む松阪の
松阪城跡には桜が
たくさん咲いている
石原都知事のことは
私は大っきらいだ
なぜなら
表現の自由を奪い
そのくせ
自分の文学作品は
腹立たしいくらい面白くないのにだ
そして
こいつは
花見を規制したらしい
そこで
私は
あえて花見に行くことにした
場所は
松阪城だ
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この城は城壁がほとんど自然石のままで
築かれているのが特色だ
私の子供時代の遊び場のテリトリーだった
懐かしさがこみ上げる。
そして
桜はちょうど
風に吹かれて
桜吹雪の状態で綺麗だった
梅ぼしを肴に
ビールを
桜の木にもたれかかって
やった
足元は
桜絨毯だ
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いやー
いいね
花見は
来年から毎年やるかな
by qpqp1999 | 2011-04-14 19:30 | 政治

痛いぞおおお

わたしは
両親と同居しているが
特に母は
勝手に私の大事なものを
どっかにかたづけて
そしてどこにかたづけかを
忘れてしまう
おかげで
サンプラーのコンセントは
無くなったし
電池でしか動かなくなった
バイオもリカバリーソフトが
どっかに消えたし
オフィス2007のソフトも
消えた
昨夜はわたしの炭酸水が消えた
あまりにも頭にきたので
居間のガラスを
素手でたたき割った
おもっきり
手が切れた
すごい出血
病院で縫合してもらった
こんなのです
痛いですよ
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by qpqp1999 | 2011-04-11 17:50 | ブルース

唖然とします

東日本大震災を
「天罰」と
ぬかした奴
またアニメーションや漫画に
規制をかけて表現の自由を奪っている
独裁者みたいな
石原が
当選した
東京都民はいったい何を
考えているのだろうか
by qpqp1999 | 2011-04-11 14:14 | 政治
四旬節第5主日礼拝説教 ヨハネ福音書11章17-53節
 ラザロが死から生き返る、というヨハネ福音書にしかみられないエピソードである。死者を生き返らせる奇跡は他の福音書にもみられるが、このラザロの死から生き返るというイエス・キリストの奇跡は、非情に濃厚に描かれており、記述の分量も、また微密な描写からもわかるようにヨハネ福音書の大きな骨子を担う役割を持っている。
 ラザロが生き返ったとしても、その後また死んでしまったということは、この記者ヨハネが一番よく知っていることである。ヨハネ福音書の成立はおそらく紀元1世紀近くだから、当然、ラザロが生きているはずもなく、マルタもおそらく殉教の死を遂げたのではないかと言われている時代である。つまり、単なる死人の生き返りということは、基本的にあまり意味の無いことであり、ヨハネ福音書はこの死者の生き返りの記述を通して、私たちにまさに福音を告げようとしているのである。
 では、その福音とは何かという問題に取り組まなければならない。東日本大震災で日本は、特に被災した人たちは、非情な困難の中におかれている。日本といういわゆる先進国ですら、最初の救援が現地に入れたのは震災から10日もたってからであり、今も尚、件名の救助活動が続き、また被災した人たちの苦しい生活は、極めて深刻な現状である。そこに追い打ちをかけるように原子力発電所の事故と、放射能の深刻な事態は世界規模で懸念されていて、いったいいつまでかかるかわからないくらいの悲壮さである。あれだけ、日本の原子力発電所は安全ですと言われていたのに、やはり、当初、原子力発電所の建築に反対していた人たちの言っていた通りになってしまった。
 そのような状況の中にあって、今日の聖書個所がどれだけのメッセージを伝えることができるのか。絶望的な死という問題に対峙して、それを簡単に生き返らせるという奇跡を起こしたイエス・キリストのことをどれだけ熱く語っても、無残な死を体験した人たちにとっては、むしろ腹立たしいものにすらなるのではないかと思ってしまう。
 実を言うと、本来ユダヤ教、特にモーセ5書を読むとよくわかるのだが、基本的に来世、死後の世界というものや、終末の復活という概念はどこにもみいだせないのである。イスラエル王国が滅亡し捕囚の時代にゾロアスター教等の影響を受けながら、次第にファリサイ派のような来世という概念が生じてきたのは歴史の証明するところである。実際、ユダヤ教でもサドカイ派の人々は来世や終末の蘇りは否定していた。キリスト教においても、当初はどのような宗教概念を持っていたかは議論されているところであるし、最古のキリスト教の文書はイエス・キリストに会ったことも話したこともないパウロの手紙であり、福音書はそれより何十年も後になって書かれたものであることは、キリスト教徒でも意外に知られていない。キリスト教に来世観や終末の復活、罪の贖罪の宗教的概念を構築したのはパウロであって、それが史実のイエス・キリストに遡るのか、またパウロの言うようにイエス・キリストの十字架の処刑が、罪の贖罪としての主の業であったかどうかというのでさえ史実を追い求めるなら、かなりハードルの高い次元に至ってしまうであろう。実際、無教会派の人たちは史実のイエスを追い求めていてイエス・キリストを追い求めているのではないと、あるセミナーで私の質問に答えて下さったものだ。
 記者ヨハネがルカ福音書をしっていたかどうかは不明だが、このエピソードにおいてはマルタとマリアの立ち振る舞いが、非情にルカの描写するマルタとマリアに近いことには驚かされる。これだけ時代も場所も離れていて、これだけ一致するのだから、史実においてもマルタとマリアはこのよな感じだったのかもしれない。積極的に行動するマルタがまず最初にイエスの所に来る。しかし、実はマルタが行ったのではなく、イエスが来られたという方が正しい。11章の前半を読めばわかるが、この時点でイエスはユダヤ教の最高法院サンヘドリンから敵視されていて、ユダヤに入るのは命がけのことであった。「主に香料油をぬり髪でぬぐったのは女」はまさにマリアであったことが記されており、そしてその弟ラザロが病気に苦しんでいる様子がイエス・キリストに伝わってきたくだりが描かれ、イエス・キリストはラザロのために「もう一度ユダヤに行こう」と言われたのだった、しかし、このじてんで「二日」が経過していた。そして、イエスがベタニアに入られるとすごにマルタが来てラザロの死を確定的なものとして、訴えたのだった。ここで、大切なのはこのラザロの生き返りは、イエス・キリストの受難と深く結びついていて、ヨハネはそのためにこの絵ピソードに力筆しているのである。イエス・キリストは十字架につくためにユダヤに来られ、そしてその最初の徴としてラザロを生き返らせたのである。このラザロの生き返りは仮死状態からの蘇生でないことは「四日もたっていますから、もうにおいます」と非情に濃厚な描写をしていることからはっきりわかる。ここでイエスは「涙を流された」とある。実はこれはとても大事な部分で、主なるイエス・キリストはそれがどんな哀れで罪深い者であったとしても、その人の立場にたって、その人の側にたって、共に泣いてくださる神、「主」なのであるさらに、その前には「興奮して」とある、つまりイエス・キリストの挑戦もここに含まれているのである。この絶望的な状況に際した者に対して「わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも決して死ぬこときない」というヨハネ神学の骨頂がここに顕になる。すなわち、人の生理学的な死を問題にしているのではなく、そこに人が人として存在している状態に対して、そこにそれだけの主からの尊厳が与えられており、それは死という絶望的な状態に際しても決して損なわれることがないという信仰なのである。いわば、来世を信じるかではなく、この人の主が賜った主の愛する人の尊厳がここに示されているのであり、それを肯定するか、否定するかということが迫られているのである。それが「このことを信じるか」という一言に集約されてくるのである。ラザロの生き返りの描写は、全ての福音書の中で最もシュールと感じる。「におう」状態なのに墓は洞窟で大きな石でふたをしてある。「その石をとりのけなさい」とのイエス・キリストの言葉はむしろ敢然としている。そしてイエス・キリストが祈るのである。これこそが最も重要なことではないだろうか、「祈り」は単なる妄想ではなく、活ける主との交わりであり、「願う」ならばそれはそうなると信じていいのである。かくして、ラザロは生き返り、このことがイエスキリストを殺そうとサンヘドリンに決心させたのであった。まさに十字架の贖罪という生き返りが起こるその地点なのである。
by qpqp1999 | 2011-04-10 20:06 | キリスト教
このアホうみたいな設定で
バンバン光ってるのは
人が死んでいってる
という
バイオレンスなところに
歌謡曲
しっかしそれが
いいんだな
何回観ても
涙でますねい
もちろん
最終の敵は
石原都知事だ


by qpqp1999 | 2011-04-07 19:40 | 動画
ダイエットして52キロまで絞ったので
御褒美に
松阪肉ユッケとハラミに生ビールを
やりにいった

いつもなら
この店「一升瓶」は
いつもほぼ満員なのに
誰もお客がいない
店員に聞いたら
私が最初のお客さんだという
それが松阪肉であろうとなかろうと
焼肉に生ビールは
自粛なのだ
ちょっと反省した
by qpqp1999 | 2011-04-06 13:53 | グルメ

連続

今日も
締め切りを守るべく
一所懸命漫画描いていたら
こんどは
リボるテックのジャックスパロー
が落ちてきて
帽子のパーツがどっか
飛んでった
ついでに
アルカディア号も落ちてきて
下のパーツがどっか
飛んでった
この家にはブラックホールが
あるにちがいない
by qpqp1999 | 2011-04-05 13:39 | 漫画