牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

<   2011年 01月 ( 8 )   > この月の画像一覧

ドリームコントロール

えー
礼拝後
昼寝してたら
久々に意識が覚醒している状態で
夢を観ました
この状態だと夢を自在に操れます
今日は亡くなったデイサービスの御利用者が出てきて
松阪城跡で一杯やろうという話しになった
ところで
これは夢だと気づいて
独自に操りました
まずは近くに冷えたビールと
お弁当を売っている店を設置して
そこでお買いもの
という展開にもっていった
楽しかった
ところがこの直後
一気に夢は崩壊し
金縛り状態に・・・
つづく
by qpqp1999 | 2011-01-30 21:15 | 漫画

勝ちましたむー

昨年の事故
相手は「追突だから10対0だ」とか
ふざけたことを
こいていたが
私の記憶では
どうあっても
あれはT字路で
わりこんできた事故だった
しかし、前日の
ナイスな警察官の検分によって
やはりT字路の衝突事故だと判明
そうなれば
私が優先車道で左方だから
相手の左方確認のミスということになる
そしたら
保険会社から連絡が
3対7で示談成立してもよいでしょうかという
0対10とか
4対6とか言ってたのに
3対7ならまずまずです
勝ちました
でも傷がなおらなーい
by qpqp1999 | 2011-01-25 08:53 | 交通安全
顕現節第四主日礼拝説教 マタイ福音書4章18~25節
 「四人の漁師を弟子にする」と新共同訳聖書ではタイトルがつけられているこの個所、元はマルコ福音書であり、ルカ書に並行記事があるがマタイ書の方がマルコ書にほぼ同じ記載をしている。ヨハネ書においては全く違う物語になっている。ガリラヤ湖は南北約20キロ東西は12キロで琵琶湖のだいたい4分の1のという大きな湖で地中海よりも水面が低かった。史実において「ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ」「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」がどのような経緯でイエス・キリストの弟子となったのかは実のところ定かではない。というのも、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネという弟子の中でも筆頭なる人々がイエス・キリストの弟子になった事は確実なことであるが、この聖書に記載されている通りであれば、かなり異様な状態であることがわかる。まるで、何かにとりつかれたようにイエスに従っていくのである。しかも全てを捨てて、イエスについていく、父も船も何もかも捨ててイエスに従っていくのだった。その動機については一切の記述がない、むしろヨハネ書の方がバプテスマのヨハネの紹介があるから納得がいくくらいのものである。
 そういった異様な事態について福音書記者たちが違和感を抱かないはずがなく、むしろその異様さを強調するように執筆していることにまずコメントをするべきであろう。イエス・キリストのために全てを捨てたという栄誉についてペトロは19章でイエス・キリストにたしなめられているから、ここでの福音書記者の意図はイエス・キリストのために自分の何かを捨てるという栄誉を勧めているのではないことは明らかである。またイエス・キリストの人気が出てくるのは今日の個所の後半なので、ペトロたちがイエス・キリストの評判に惹かれて弟子になったという見解もあてはまらない。
 現代でこのイエス・キリストの弟子となることは、たとえば洗礼を受けるとか司祭になるとか、牧師になるとかということに置き換えてみたい。実際のところ召命感というものは、その人によってまちまちである。
 実は私が神学大学に入って驚いたのは、皆が牧師という職業につくために神学生となっているという事態であった。日本福音ルーテル教会といえば日本のルター派の教会で最も大きな教団であり、実際にこの教団の司祭となるためには、様々なハードルがあり、それらを突破して教師試験に合格した者しか司祭・牧師になれない。また神学大学を卒業し神学校に入る段階になると、その神学生を牧師にするために教団はただならぬ投資をしてし上げるのであった。ストレートでも6年間にわたり、その神学生をモニタリングし徹底的にトレーニングをする。そして、ようやく日本福音ルーテル教会の司祭・牧師として授手礼を受け、任地に配属されることになる。私の感覚としては神学の鍛え方を教えてもらって現場でそれを磨くというくらいに神学というのは難しいものである。だが、私が他の神学生と一番違う点は、ずっと日本福音ルーテル教会の司祭・牧師であるつもりはなく、実家が単立教会になったので、その牧師となれるべきスキルと経験を得るためであった。実の所私は教団という組織の腹黒い点を子供の頃から体験してきていた。教師試験はまるで私のために配置された状態だった。教師試験の長は私の父の大親友の牧師であったし、またもう一人の教師試験官は私が2年にわたって「聾唖」者伝道の最前線で、手話というスキルを鍛えてもらった牧師であったし、私は包み隠さず、日本福音ルーテル教会の牧師になりたいのは、実際の教団での牧師としての経験を積みたいからであり、それを元にして実家の起こした単立教会の牧師となるためであると言った。また、私が教団という団体に潜む悪質な点を知っていてあえて、その教団の司祭となろうとする文面を観て信徒代表の試験管は涙を流して下さった。かくして私は日本福音ルーテル教会の最初の共同牧師として京都教会に配属されたのだった。そして確かに、神学大学、神学校で手に入れたスキルを活かして、いよいよ自分の神学に磨きをかける恵みに与かったのだった。それは、現時点でも続いていて、聖書と向かい合い、主の語られるみ言をいかにして、宣教の現場に活かすかということに努力している。
 ではイエス・キリストの弟子となったペトロたちがそれほど神学に精通していたかというと決してそうではないことは福音書に記載されている通りである。そもそも神学など存在しないところに彼らはいたのであった。実はそのことが、今日の福音書の大事なモチーフではないだろうか。
 福音書記者はあえて何等の理由もなく、神がかり的にペトロたちがイエスに従っていったことを強調している。実はそういった地点から主の導きと活動が起こることを語っているのではないだろうか。現代社会では、神学校を出てもいない人が自称、牧師として単立教会を起こしている有様であり、かたや、教団という組織の中でその人ならではのスキルを潰されているのも同様に有様である。
 そこでイエス・キリストに従うとはいかなることなのかを、この個所は論じているのではないだろうか。まず第一にすべきは主役は私たちではなくイエス・キリストであるということである。イエス・キリストが主の力をもってして私たちを用いるのである。そして、これこそ史実に遡るであろう「いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者などあらゆる病人を連れてきたので、これらの人々ほいやされた。こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から大勢の群衆が来て、イエスに従った」のである。現代でこそ癒しの業は顕著ではないが、当時、ファリサイ派の人でもなければエッセネ人でもなかったイエス・キリストが脚光を浴びたのはまさにこの癒しの業にあったのであろう。
 では現代にその癒しの業が通用するのかというと、基本的には通用しないと考えるのが妥当である。福音書記者たちの時代にはそういう不思議な現象がまかり通っていたが、現代でそれを強調するのは狂信的といわれても仕方がない。何よりもこの個所で大事なのは私たちの生きざまの中に、実際に影響と癒しの業をもって、声をかけてくださるイエス・キリストに従うということである。私はイエス・キリストに会ったことはないけれども、イエス・キリストの業に遭ったことはまちがいなくある。それは、私だけではなく、この福音書に触れる全ての人に与えられるのである。
by qpqp1999 | 2011-01-24 19:58 | キリスト教

っしゃああ

去年の11月の交通事故
今になって
やっと実況検分
現場に1時半に集合となった
ずーっと
追突 追突 と言われていた
私の感覚ではどう見ても
右方の辻から飛び出して右折してきた
車にぶつかったという感じだった

そして初の実況検分
現場のすぐそばに博多ラーメン屋さんが
あるのでそこで昼食、寒空の元待つのは嫌だったので
そこの駐車場から
現場をみて待つ

約束の時間になったのに
どこにもパトカー無いし
警察官もいない
仕方がないから歩いてその
ぶつかって止まったという場所に行くと
後ろからコツコツと杖をついて歩いてくる人が
よく見ると道をはかるコロで
よく見ると5年前にライヴの後に
それこそ追突事故を起こした時と同じ
目をした人が・・・
だって全然警官に見えませんコロもってるから
んで、前にお世話になってるから
わかったけど
初見だったらわからんだろうなくらい
帽子も警察官のじゃないし
でっかいマスクしてて顔は半分わかんない
だから目しかわらない
きっと松阪警察署では噂になっているのだろう
「松本太郎??牧師で漫画家とかやっとる奴やろ
そいつはなビデオカメラとか絶えず持っていて
ユーチュープに流されるぞ」
とか言われていたのではないだろうか・・・
いやまさしくその通りなのだが
不公正な検分があったら当然、収録して
「松本太郎テレビ」ユーチュープ行きです
しかし
それは、それは公正な
検分をしてくださいまんた
私も初めて知ったのだが
ぶつかった場所は止まった場所と
たいして変わらなかったのだ
警察官の方が言われるには
「これは、追突とちごうて、交差点事故やな」
と・・・
っしゃあああ
みたいな気分です
こちらは2車線もある大幅な道を直進していたのみ
そこに2メートルくらいの辻から出てきて
しかも相手は右折の割り込みで
私が左方ですから
完全に私の方が過失が少ないことは明らかです
即効で保険会社に連絡です
2対8くらいでもいい状況です
おまわり様ナイス見検分!!!
by qpqp1999 | 2011-01-17 20:00 | 警察

新年ゴスペル

今年最初のゴスペルクワイヤーの
レッスン
マルチミュージシャンの方に
ご指導いただけることになり
すごくいい年明けになりましたむ。
昨年の11月くらいには考えられないくらい
素晴らしい指導者が
新生ルーテルゴスペルクワイヤー
加わってくださったのだった。
新曲も熱いグルーヴの
Keep On Making A Way
も、すげい いいむー!!
頑張って練習するむー!!

by qpqp1999 | 2011-01-14 22:57 | ゴスペル

えらいことでした

しっかし、この11月後半から今日まで
どっえらい大変だった
朝もはよからデイサービスの
生活相談員 兼 介護員
ですげえわがままな介護度5のご利用者様に
満足いただけるよう入浴介護して
たまってる事務仕事して
送迎して
口の怪我の治療して
そんでもって
クリスマスの準備して
裏方、表方両方やって
ピアノ弾いて
ドラム 叩いて
漫画家もやって
ようやく正月が終わった今
なんとかみんな終わった・・・
風邪ひいて倒れました。
礼拝も終わり
本当は午後新年お楽しみ会を子供たちのために
やる予定だったが
例年10人くらい来てくれるのだけど
今年はついに、いや始まって以来
初!!!
誰も来なかった
ちょっと助かった・・・
今やっと風邪もよくなりつつあり
新しい大河ドラマ・・・
楽しみというか、どんな!?!?
みたいなスタンスで待っておりやす
by qpqp1999 | 2011-01-09 15:38 | ブルース
主の洗礼主日礼拝説教マタイ3章13-17節
 イエス・キリストが活動されたのは、30歳くらいからだとされている。何故か、誰もこの点について問題を提示する神学的な話しやレポート、書籍に私は触れたことがない。よくよく考えてみると、非常に不自然な話しである。クリスマスのエピソードにおいてのユダヤ社会の早婚の習慣を考えるなら、男性は18歳くらいには普通は結婚しているはずである。しかし、イエス・キリストは30歳近くになってもまだ、結婚していないのである。これは、相当な理由がないと説明がつかない。
 理由の一つとして出家していた可能性が考えられる、いわゆる「エッセネ人」、「クムラン宗団」のような、まさに洗礼者ヨハネがリーダーシップを放っていたそういう中で修業をしていれば基本的に結婚はしないので、イエス・キリストがそういう修業集団に属していたと推察することは、そんに不自然な話しではない。
 特に、初代キリスト教会において困ったのはイエス・キリストが洗礼者ヨハネから洗礼を受けているという事柄であった。これでは、イエス・キリストがヨハネの弟子だったことになってしまう。当時。洗礼者ヨハネの処刑後も洗礼者ヨハネの宗団は初代キリスト教会と競り合う状態にあっただけに、キリスト教としては、できれば、この話しは無かったことにしたいというのが本音だったであろう。それを物語っているのが福音書の記述そのものである。最古の福音書マルコでは、かなり素直に率直にイエス・キリストは洗礼を受けたことになっている。しかし時代が後の福音書になればなるほど、この点をなんとか言い訳したり、スルーしたりしている。ルカ書ではヨハネの投獄の後に実はイエス・キリストは洗礼を受けていたということになっているし、ヨハネ福音書に至っては、イエス・キリストは洗礼を受けていないのである。
 しかし、これだけ福音書記者たちを悩ませるほどの事だから、イエス・キリストが洗礼者ヨハネから洗礼を受けていたのは史実としてほぼ有りえたことであろうし、事が事であればヨハネの宗団にイエス・キリストが属していた可能性すら疑われてしまうのであった。
 だが、それは決してキリスト教にとって脅威となることはなく、むしろ史実であったら、それだけにイエス・キリストの洗礼というものは意味を持つという前向きなとらえ方をするのが聖書に対する私たちのあり方ではないだろうか。
 よく映画とかキリスト教教材の映像や絵などで描かれているイエス・キリストの洗礼者ヨハネからの洗礼は適礼になっているが、実際には今日の個所にもある通り「水の中からあがられた」と全身礼である。ヨルダン川でイエス・キリストは洗礼者ヨハネによって、川の中に沈められそして「あがられた」のであろう。
 このマタイ福音書のイエス・キリストの洗礼のエピソードで他の福音書と決定的に違うのはこの洗礼は「罪の赦し」の洗礼ではないということである。マタイが元にしているマルコ福音書では明らかに「罪の赦し」となっているのだが、マタイはあえて、わざわざこれを削除して洗礼そのものの意味を自らの神学に取り込んでいくのであった。
 ヨハネはファリサイ派やサドカイ派の人に対して「わたしの後から来る方は、私より優れておられる。わたしはその履物をお脱がせする値打ちもない」と宣言した続きとして今日の洗礼のエピソードにつながり「そのとき、イエスがガリラヤからヨルダン川のヨハネのところにこられた。彼から洗礼を受けるためである。」と他の福音書とは打って変わって非情に積極的にまさにメシアの到来としての洗礼物語が展開されてくるのである。
 マタイ福音書ではイエスが率先して洗礼を受けようとするのを洗礼者ヨハネが非情に恐縮して丁寧にお断りしている。「私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに」とまで言っている。勿論ここにはイエス・キリストの洗礼者ヨハネに対する優位性を誇示しようとする福音書記者の思惑があるのではあるがかえって、それが、この物語の核心部分に関係するようになる。「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは我々にふさわしいことです。」と、イエスは洗礼のその先を見通して、そこを通るべき正しい道であることを洗礼者ヨハネに語る。「正しいこと」δικαιοσύνην.ディカイオスーミンは「公正な」「高潔な」「ふさわしい」という意味がある。主イエス・キリストの洗礼はまさに、救い主としての働きを始めるにあたっての、終末論的色彩すらおびてくる。この直前の個所が洗礼者ヨハネによる裁きの言葉「斧はすでに木の根元におかれている」という強い洗礼者ヨハネの言葉の後にこのイエスの洗礼に臨む姿勢が「正しいことをすべて行う」という力強い言葉によってそれは十字架までをも見通しての洗礼であったことが明らかになるのである。
 洗礼を受け「すぐに水からあがられた、その時、天がイエスに向かってひらいた」ここでは聖現象として「天が開いた」「神の霊が鳩のようにご自分の上に下ってくる」「これはわたしの愛する子、私の心にかなうもの」という声が天から聞こえたと三つ出てくる。
ここで「天が開いた」というのは一体どういう現象なのかと考えてしまうが原典をしらべてみると「天」οὐρανοίウラノーイは「天国」を意味する言葉であり「空」を意味するのではないことに着目したい。ただ、単純に空が開いただけでは神話の領域に収まってしまうのだが、「天国が開いた」ということになると、これはイエス・キリストのまさにメシア性が非情に濃厚な個所となるのである。
 まさにこの洗礼によって「天が開」いたのであり、それは自然現象ではなく、私たちの救いの問題、私たちに天国という恵みがここに開いたのである。私たちにとって、最も重要なことは主イエス・キリストにあっての救いであり、「天国」に罪ゆるされて入ることができるという福音なのである。
 あまり、この聖書個所にパウロ的な救済論を持ち込むのはふさわしくないのではあるかが、確かにマタイはここにマタイ的な終末論、救済論を描きこんでいることには違いないであろう。
 この洗礼の出来事によって、この世の救済史がはじまったのであり、それは勿論、私たちにとって大変な恵みであると同時に、「正しい」ことをなすべき任務が私たちにも恵みと同時に与えられていることにも注意をしたい。
 今や、私たちは主イエス・キリストの恵みによって天つ御国を待つことができるようになった。ならば、その者としての「正しいこと」を私たちはやり遂げるべきなのである
by qpqp1999 | 2011-01-09 15:01 | キリスト教

デブで禿げてても

デブで
禿げてても
こんなにカッコいい人たちがいるむー!!
尤もジェンダーアイティティーンの都合のため
私はこうはなりたくないが
しかし
めっちゃ
めちゃ
「」いいむー!!

by qpqp1999 | 2011-01-03 20:55 | 音楽