牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

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ブルーズカウントダウン

私の
リゾネイターギター
通称ドプロギターの
弾き語り動画が
1000アクセスまでカウントダウンになりました
一体だれがその1000を踏むのか
わかりませんが
とにかく1000人に私の
弾き語りを聴いて観ていただけたことは
非常に光栄であります
どーぞ

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by qpqp1999 | 2010-11-29 13:14 | ブルース

嫌んなった

なんか
人生の全てが
裏目に出ているような・・・
遊びに行く途中で事故ったなら納得もいくが
施設のためにどぶ掃除に行く途中で
こんな数奇な事故にあうなんて
傷は深い・・・
病院の形成外科の椅子に座りながら
レントゲンの順番を待っていたら
憂歌団の「嫌んなった」
が頭の中にながれてくる
だからくさるのはやめとこう
ということで
めげずに今週の「松本太郎テレビ」どうぞ

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by qpqp1999 | 2010-11-26 22:11 | ブルース
聖霊降臨後最終主日礼拝説教 ルカ福音書21章5~19節
 聖霊降臨後最終主日は特別な主日と思う。この世の最終を聴く主日であるからだ。
多くの人はどこかで、この世の終わりを思っているかもしれない。確実に言えるのは地球は確実に将来、太陽に呑みこまれるか、自滅するか、あるいは隕石の衝突で天変地異が異常になって人類が滅びる可能性があるということである。しかし、それは現代の私たちにはあまり意味をもっていない、将来の事である。自分はそのようなこの世の終わりに立ち会うことはないと思い、自分はその死でもってこの世の最終を迎えると思っている人が多いのではないだろうか。そのような中で今日のルカ福音書は私たちに一つのチャレンジをしているといえよう。
 尤も、ルカ福音書が書かれた当時、すでに再臨のイエス・キリストという終末が待てど暮らせど来なくて、紀元66年から始まり70年にローマ帝国によって陥落したエルサレムと破壊されたイスラエル、ユダヤを経験しそれを目の当たりにして、それでもまだイエス・キリストの再臨の無い状態と、続いてきたキリスト教の弾圧に対して筆をとることは必須だったであろう。
 この聖書個所に書かれている前半部分は、それまでルカたちが経験してきた現実であったし、また、現在も続いているキリスト教徒に対する弾圧に対しての、歴史的事実であった。エルサレム陥落後のヤムニア会議で、キリスト教はユダヤ教の一派ではなく異端ととりきめられた。この地点にルカは生きていたと思われる。
 エルサレムの陥落の時、初代キリスト教会はどうなったのか歴史は沈黙しているだけで、推論しかできないのが現状だ。おおよそ考えられるのは初代キリスト教会もユダヤ教の一派としてエルサレム包囲戦線においてユダヤ教もろとも討ち死にしたと思われる。一方で包囲網を逃げおおせたという説もある。いずれにしても、初代キリスト教会すなわち、イエス・キリストの直弟子たちや、母マリアやマグダラのマリアを中心とした初代キリスト教会はエルサレムの陥落と共に歴史から消えてしまったのである。そのあたりをネタにした小説が「ダヴィンチコード」である。マグダラのマリアは密かに包囲網を逃げだすことに成功したことが前提な物語である。しかし、その可能性は残念ながら非常に少ない。それほどに、ローマ軍は小さな所を諄々と攻め上げていき、ついにエルサレムを包囲しやっとのことで4年間もかかって将軍ティトゥスのもと陥落させたのであった。
 私たちにとっても、同じように、この世の終末を思わせるような出来事は近代史においてもしっかり足跡を残している。第二次世界大戦、太平洋戦争、非戦闘員を目標にしたアメリカの焼夷弾による絨毯爆撃、そして原子爆弾の使用。1944年の時点で日本はぼろぼろの状態だった。しかし、ものの数年で日本は再起動し、またたくまに大国入りを果たすのだった。
 実は、この日本のあり様は、一つの信仰姿勢ともいえるかもしれない。終末的な状況にあっても、希望をもって一歩を踏み出し、なすべきことをなしとげるのである。このような点で、実は、キリスト教における終末論というのは、そのような日本人の態度に近いものがあるのではなかろうか。
 いくら待っても、イエス・キリストの再臨はない、状況が悪くなっても救いの手は無い、そんな中で終末は遠く、耐え忍ぶべき信仰が説かれているのである。
 日本人は意外に心霊現象や天変地異に対して宗教的な見方をする。たとえば葬儀の帰りに塩をまいたり、店の前に塩を盛ったりする。また、先祖崇拝信仰も非情に根強い、墓を大事にし、仏式の行事、また神社関係の行事に対してとても熱心である。すでに宗教的ニーズは満たされており、キリスト教の入り居る隙間が無い。当然終末観すらも日本人はその死という点においてすでに納得してしまっている。
 しかし、この日本であるからこそ、私たちには「証し」をするチャンスがあるのである。欧米のキリスト教文化圏ではもはやキリスト教は保守勢力であり弾圧する側である。しかし、日本においてはキリスト教はクリスマスくらいしか、その存在価値が浸透していない。そのクリスマスですら、空飛ぶトナカイを駆る悪魔の祭典になってしまっている。であれば、こそ、私たちは「証し」するべきなのである。そして、忘れてはならないのは、それは私たちが証しをするのではなく、活ける主イエス・キリストが働いて証しなさるのである。
 キリスト教徒は日本では、未だもってしてマイノリティーである。それは、それだけ日本の宗教性が高いことをも示しているといえよう。そのハードルの高さこそが実はまさに真実なるキリスト教にたどりつく環境であるとも言える。
 では、どのようにそれをなすのかという問いが生まれ、それこそが終末論を踏まえた信仰へとつながるであろう。また、終末論を持たない信仰もあり得ないともいえるのではないだろうか。
 ルカはありとあらゆる試練や世情、天変地異について語るけれども、終末というのはそのようなものに捕らわれないものであることを強調する。「どんな反対者でも、対抗も反論もできない言葉と知恵を、わたしがあなたがたにさずける」の「言葉」はそのまま「口」を意味するが「知恵」はσοφίανソフィーアンで「技術、技能」と直訳できるものである。
 すなわち、私たちは自分の力でそれをなすのではないのが基本でありながら、実のところ私たちのあり方、あり様によってイエス・キリストは私たちをお用いくださるということである。そして、それは終末を前にした者のあるべき態度にもつながるものであろう。
 いよいよ、今年も待降節をむかえようとしている。まさに、再臨に希望を託しながら、主イエス・キリストが私たちに、その「口」と「技能」を与えてくださっていることを意識して、各自がそれぞれの生活の座において、イエス・キリストの「証し」をすることが、わたしたちにとっての終末を待つ姿勢なのである。常に、主イエス・キリストは私たちに正に働いてくださることを信じてよいのだ。
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by qpqp1999 | 2010-11-25 17:48 | キリスト教
ローカルですみませんが
施設の地域の「であい」と呼ばれる
どぶ掃除で
国道42号線を宮町から久保方面へ
法令運転で走行中
前の車列が減速したので
私も35キロくらいまで減速そしたら
直近で
こんなとこに道あるわけ???
みたいなところから

車が右方からわりこんできた
すでに私はブレーキをかけており減速状態だったが
車間距離はわずか数メートル
その車は急停車
どうやったてぶつかるよね
ハンドルに口ぶつけて
口の下の歯か゛口と唇を貫きました
他にもきり傷多数
意識はもうろうとなり
あれよ あれよ と言う間に救急車に
病院についたら
服脱がされて
看護師さん開口一番
「あら あなたホルモン治療してるの!?!?」
と私の胸を見ていう
手術は2時間におよび
もう顔はフランケンシュタインの人口人間状態
どはー
もう、美貌はぼろぼろです
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by qpqp1999 | 2010-11-23 22:16 | 交通安全

またきたよ 男か女か

嫌ぁな季節になりました
はい
クリスマスです
私は
クリスマスなんかだいっきらいだ!!!!!!!
クリスマスさえなければ
どんなにか私の人生は傷つけられずに
生きてこられたか
今日もクリスマスの子供たちのための
イベントたるキャロリングで
子供たちを集めなきゃならない

ビラをまくんだけど
私なんかもう最近はめちゃくちゃ怪しい容貌に
なっているので
去年あたりは
子供に「女なん?男なん?」←松阪弁と言われていたが
今年は
ビラをわたそうとしたら
子供が
「女の真似しとる奴からは受け取らん」・・・って
保守のおっさんみたいなことを言われて
非常に不快でした
しかしまだまだやるせ゜ビラまき
去年は110番通報されて警官8人くらいにかこまれた
ものだが
今年も110番通報してくんないかな
「松本太郎テレビ」のネタのために
カメラスタンバイでいくから ふふふ
ということで
今週の松本太郎テレビどうぞ

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by qpqp1999 | 2010-11-19 18:25 | YOuチューブ

ちょっと怖い

「松本太郎テレビ」の収録のため
キャノンのビデオカメラを入手して
二か月ほどたつが
先日、私の母が民生委員の代表で表彰状をもらった
祭典を録画して
はじめてDVDに焼いてみた。
しかし、なんというか
カメラだけではDVDに焼くことはできず
キャノンですら付属の他社製品のツールを
使いパソコンを介さなければ
DVDに焼けないのだ。
ということは、パソコン持っていない人は
ビデオカメラ買っても
観ようがないことになる。
んー
ここまでパソコンに依存しなければ
ならないとなると
ちょっと怖い
と言いつつも
私の漫画はフルCGで
直接ペンタブレットに描いてるが
完成すれば出力印刷して
紙として仕上げるようにしている。
尤も、万が一パソコンが使えなくなっても
といっても3番機まであるし、タブレットも二代あるから
よほどのことがなければ大丈夫なのだけれど
原稿台は今もいつでも使えるようにしてあるし
隅入れのための筆も墨汁も用意してある。
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by qpqp1999 | 2010-11-16 17:35 | パソコン
誕生日を迎えました
自分が何歳なのかわかりませんが
自分で自分のために
プレゼントしました
詳しくは
今週の「松本太郎テレビ」で

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by qpqp1999 | 2010-11-12 01:05 | 映画

カエサル

前回の「松本太郎テレビ」

歴史交渉ぼろぼろだったので今回はちゃあんとします
どうぞむー

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by qpqp1999 | 2010-11-12 00:51 | 歴史
憂歌団の嫌んなった の替え歌で

でぶになったぁぁぁぁ
もう駄目さぁぁぁぁ
だけどくさるのは止めとこう
ダイエットできるかも
この俺だあってぇぇぇぇぇ

一日で4キロも増えるかねしかし
熱も38度5分もあるのに
悪いのは私です
デイサービスセンターの職員として
働く上でジェンダーアイデンティティーは
ぼろぼろで
ストレスで寒気がしてるのかと思ったら
ホントに熱があった
すぐに医者へ直行させられました
お医者さんが
「何か温かいものを食べて、ゆっくり休んでくださいね」
と言われたものだから
ついつい
博多ラーメン
に行ってしまったぁぁぁ
博多ラーメンの怖いのは
「替え玉」という麺のおかわりができるところです
あたたかあい博多ラーメン
「替え玉、普通で」
「へーい、替え玉普通!!!」
体重計にのるまでもなく
57キロは堅いな
くそうむー
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by qpqp1999 | 2010-11-09 19:04 | ブルース
聖霊降臨後第24主日礼拝説教 ルカ福音書19章11~27節
 キリスト教という宗教を一言で表せと問われたならば「主の愛」と私は答える。実はこれは神学大学、神学校で教義学の授業で石居正巳教授から教わった受け売りだ。しかし、私は単なる受け売りではなく、これを自分の神学にすべく牧師のあり方を目指している。キリスト教は「愛する」というキーワードがたくさん出てくるので、初代教会時代はその「愛」ゆえに返って現在のセクシュアルマイノリティー、同性愛とかと混同されて差別すらされていたのだった。
 ルカ福音書は伝説によれば、新約聖書の多くの書簡を描いたパウロと共に行動していた医師だといわれている。しかし、ルカ福音書の成立年代が起源70年以降に書かれたことは異論のないところなので、よほど長生きしていなければ執筆は難しかっただろう。推定する神学者になると起源1世紀近くに書かれたという者もいるほどである。
 ところで、このルカ福音書に、前述した「愛する」という要素があるかというと、確かにあるのだが、誰でもなんでも「愛する」のではないことが非常に濃厚な福音書である。今日の個所のすぐ前のエピソードは人々からひどい税金をむしり取って生きていた徴税人ザアカイがイエス・キリストの愛の故に「救」われたものである。
 しかし、ルカ福音書の特徴として、イエス・キリストのその愛は、基本的に社会的にマイノリティーな人、貧しい人に限定されているところがあり、そこに他の福音書には見られない保守層や権力者、富める者、差別する者に対しての非情なまでの敵対構造が作り出されていることが挙げられるであろう。
 今日の個所はまさにそのような個所である。並行記事がマタイに認められる。ルカ書では「ムナ」であるがマタイ書では「タラントン」である。げんざいの日本の芸能界用語でもある「タレント」の語源である。「タラントン」は6000デナリで当時の日雇い労働者の20年分の報酬金額である。対するルカ書の「ムナ」は100ドラクメ、同じく日雇い労働者の三カ月分の報酬である。この金額の差がどの時点で生じたのかは不明だが同じような伝承集が作られていく過程で差が生じたのであろう。
 マタイ書とルカ書の最大の差はこの金額ではなく、エルサレムに迎えられる直前の教えとして配置され「王の位を受け」る人を「国民が憎んでいた」ので「我々はこの人を王にいただきたくない」とこれまた差別をし自業自得で滅びていく人間のあり様がからんでいることである。明らかに、ルカはこの「ムナ」のたとえと「王の位を受ける」たとえの、二つの伝承をエルサレムで保守権力層によって謀殺されるイエス・キリストの出来事をふまえて描いているのである。それだけに、直前の徴税人ザアカイの物語はより活き活きとしたものとなってくるのである。すなわち、差別され苦しむマイノリティーと差別する保守という対立構造であり、イエス・キリストは前者を「愛」するのであって、後者には「愛」どころか非情な裁きを持って臨むのである。
 この「王位を受け」る人のたとえは、もし史実のイエス・キリストの話しになると、聴衆はヘロデ大王の息子アルケラオスがユダヤ人によって王にならないようローマ帝国に訴えられ、しかしアルケラオスはローマに赴き、帰還してから訴えた者たちを処刑した歴史を思いだしたであろう。また起源1世紀頃のキリスト教会においてはイエス・キリストを謀殺したエルサレム保守権力層が起源70年にローマ帝国によって完全に壊滅させられエルサレム神殿も崩壊したことを考えたであろう。
 そこでムナのたとえが、このやがて「王位」を得て帰還する王の話しと、どのように関連するかについてテーマを進めたい。面白いのはマタイでは「タラントン」の額がその人の能力によって違っているのに対して、ルカの「ムナ」は十人に対して1ムナづつ平等に与えられているところである。この点で、マタイとルカではこの伝承の取り扱いがかなり違ってくると言えるだろう。
 10ムナの10は実は完全数であることに注意したい。富める者、保守層を敵視し、貧しい者、マイノリティーを優先するルカ福音書だが、そのそれぞれに、救いにつながる「愛」は実は完全に与えられているという、実はまさに「主の愛」が誰にも全ての人に与えられていることが実は前提となっているのである。
 ただ「1ムナ」から「10ムナ」を稼ぎ出せるのは、より貧しい者、よりマイノリティーな者であることも念頭にいれるべきかもしれない。同じ「1ムナ」であっても、それを活かさずに、保管だけしていて過ごせた富める者、保守権力層は結局、「主の愛」を適当に扱ってしまったのだった。ここからが、「主の愛」を否定した者に対するルカ書ならではの非情な描写が始まる。
 「1ムナ」を何もせずにただ保管だけしていた人は、その「1ムナ」をとりあげられ、すでに「10ムナ」を持っている者に与えられるというのは、かなり残酷な仕打ちである。そこに引き合いに出されるのが「王」を「憎んでいた国民」である。「わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、私の目の前で打ち殺せ」と非常に過激な展開を見せている。「敵」はἐχθρούςエクスルースでまさに「敵対する」という意味がある。
 人々から憎まれている「徴税人ザアカイ」を愛し、同じようにエルサレムにも「主の愛」を届けんとしてエルサレム入場したにもかかわらず、エルサレム保守、権力層はイエス・キリストに「敵対」し十字架にて謀殺したのであるから、自らその「主の愛」をないがしろにして、自ら滅びの道へと進んでいったのであった。
 そこで、今日のこの「1ムナ」は私たち全員に平等に、しかも完全に与えられている「主の愛」であり、この恵みに対して、私たちがどのような信仰のあり方をしたか、するか、あるいは応えたかが問われていることに気付かされるのである。そこで「10ムナ」を稼ぎだした僕へのねぎらいの言葉がいよい意味をもってくる「よくやった、お前はごく小さなことに忠実だったから」である。「主の愛」が「小さなこと」であるはずがないが、しかし一方でそれは、当たり前のように私たちに与えられているまさに「小さなこと」なのである。まさにイエス・キリストは小さな者として十字架で処刑された。私たちはこの出来事を私たちに与えられた「1ムナ」であると認識すべきであろう。私たちはこの「主の愛」という「1ムナ」に対して「忠実」であるべきなのだ。
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by qpqp1999 | 2010-11-07 13:41 | キリスト教