牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

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締め切りは守るぜよ

このところ
デイサービスセンターの介護員と生活相談員もやってて
漫画の締め切りもきつきつな感じで
ピアノは練習せんならなし
ドラムも練習せんならん
それでも
UPるぜ
「松本太郎テレビ」
今回も新曲いてれまーす

by qpqp1999 | 2010-10-30 00:31 | 都市伝説

ついに出た!!!

NHKで放送され
大好評の
「龍馬伝」
私は
この土佐べんが気になって気になって
仕方なかったぜよ
なんていうか
その相手をよぶとき
「お前」ではなく
「おまん」と呼ぶ
これでは
放送禁止語スレスレです
あと一文字で
ピー
です
それが、とうとう
あのNHKの大河ドラマで
ついに放送されました
「龍馬おまんもなかなかやるのう」
「おまんこそ!!!」
ひええええ
ついに出ました
「おまんこ・・・そ・・・」
腹かかえて笑ってしまいしたむー
by qpqp1999 | 2010-10-24 20:56 | 映画
聖霊降臨後 第22主日礼拝説教 ルカ福音書18章9節~14節
 犯罪を犯している人は、もちろんそれが犯罪であると知りながら、それを行う。現代社会、の日本は法律というもので、様々な事柄の決まりごとがなされている。さらに、常識というものがある。日本人は特に、そういった礼節については他の国に勝っていると私は感じる。そもそも、何等かの店で買い物をしたり、注文をしたりするときに客の方から「すみません」とよびかける。謝る言葉がよびかけの言葉になっているとは、おおよそ日本ならではのことではないだろうか。
 実はユダヤ教社会も同じくらい、主なる神、ヤハウェに対しては非常に礼節をわきまえている。今日の個所で出てくる神殿にのぼった「ファリサイ派の人」の祈りは、ただでさえ自分を控えるのが風習である日本人からすると、非常におごり高ぶった祈りだと感じられるかもしれないが、ユダヤ教社会ではこれくらいが当たり前で、決して珍しいお祈りではなく、この祈りに似た祈りが多数当時の伝承で認められている。
 実は私は、高校生の頃、自分で言うのも何だが、熱血クリスチャン少年であった。ルター派というよりは福音派に近い信仰姿勢であった。礼拝に出席して、そこでの牧師の説教にイエスキリストの十字架による贖罪について語られないならば、憤りすら感じていたものだ。たまたま、私は実家の松阪を離れ、海を隔てた九州の熊本、九州学院に入学した。たまたま、入試の成績がよかったせいで進学コースの英語コースに入った。そして、学生寮の寮生となったのだった。寮は「敬愛寮」という名だったが、120人ほどいる寮生の中でクリスチャンは私一人だった。ほとんどはスポーツ推薦とかで地方からスカウトされた体躯会系の寮だった。朝食は皆がそろって食べるのだが、私が祈っていると先輩が「太郎、どげんしたとや、気分でも悪かとか?」と聞いて来る、祈りが中断されるのには困ったが、食前の祈りをしていることを言うと寮生たちはたいそう驚いて、それから後は私が祈っていると、「ほら太郎が祈りばしよるばい」と珍しそうに見ていた。当時、寮では「説教」という儀式があって、簡単に言うと、暴力によって上下関係をはっきりさせるものであった。夜に1,2年生は暗闇の中正座させられ、3年生が、いろいろと文句をつけては殴る、蹴るの暴行を加えていたのだった。そんな軍隊みたいなことが寮監の大人まで黙認していたし、だからこそ、寮は学年というヒエラルキーによって見事に機能していた。そんな中、私は一度も殴られたこともなければ、文句をつけられたこともなかった。それは、私がちゃんと下級生の分際をわきまえて行動していたからだったが、やはり「説教」の前には殴られないように祈っていたし、それを他の寮生も観ていた、やがて、説教の直前になって私のもとに「俺が殴られんごつお祈りばしてくれ」と言ってくる寮生が何人か出ててきた。すると彼らは殴られなかった。やがて、寮生たちは私にキリスト教について質問をするようになった。当時の私は熱狂的福音主義者だったので、イエス・キリストによらなければ、地獄行きになると熱弁を振るった。すると、それを聞いた寮生たちは「俺が地獄に落ちんごつお祈りばしてくれ」と言うエンディングになるのだった。やがて、わたしのこの伝道活動は評判となり、あっちの寮室から、こっちの寮室に至るまで、私のキリスト教論を聴きたいと大人気となり、中には録音をする者まであらわれた。実際にこの成果もあってか寮生から洗礼を受ける者が3名も出。
 しかし、今日の聖書個所はそういう「正しい」というあり方を前提からひっくりかえすルカ特有の特殊伝承である。「自分は正しいと」とあるファリサイ派の表現はδίκαιοιディカイオイで「礼儀正しい」という意味である。こうなってくると、いよいよと私たちの身にその事柄が迫ってくる。「礼儀正しい」のは私たちにとって当たり前のことであるがそれが「うぬぼれ」なのであるこの言葉もπεποιθόταςペルポイサータスで「納得する」「説き伏せる」である。この状態はまさに私たちの状態そのものではないだろうか。暴力団員ですら自分は「礼儀正しい」と思っているだろうし、自分のあり方を「納得」しているはずである。それは、それで当たり前で、そんな、いつもいつも、自己否定ばかりしていては精神状態に危機が迫る。だから、多くの人々は自分は「立派な人だ」とは思わないまでも、「礼儀正しい」とくらいは思っているし、「うぬぼれ」てはいないけれど、自分のあり方に一応は「納得」しているはずである。熱狂的だった過去の私も、自分は罪人でイエスキリストの贖罪なしには地獄行きであると思い、信じ、そしてそのあり方に「納得」していたのだった。そこで、実は多くのクリスチャンもそうなのではないかと疑ってしまう。共に主に祈り、語り合う中で自分たちは救われた者だと感謝し、救われたと納得してしまっているのである。尤も、主イエス・キリストにあって救われたと納得すること、信じることは決してまちがったことではないが、今日の聖書個所は、そういう私たちが、うっかりと蔓延としてその自分の信仰の「礼儀正しさ」に「納得」して沈んでしまってはいないかどうかということを問うてきているのである。ファリサイ派の人は実に立派である。一切の悪事を働かず、さらに週に二度も断食し、全収入の十分の一を献金していたのだから、これは立派なはずである。対する「徴税人」は人に適正な税金に上乗せした徴税を行い、その利益で生活していたのだから、完全に盗人である。この個所で、色濃く出ているのは、徴税人がだからといって徴税人を辞めたかどうかについては一切語られていないところである。ここがルカ書の特別な神学が展開されているのである。「ファリサイ派の人」は「見下している」とあるが、この訳だといかにもファリサイ派の人が悪者のようで、私たちからは遠い存在に見えてしまう、しかしこの言葉はἐξουθενοῦνταςエグスターンタスで「軽蔑する」という意味である。これだと、私たちにぴったりとあてはまってしまうのではないだろうか。自らの有り様を「礼儀正しい」と「納得」しそうではない人々を心の片隅で「軽蔑」してはいないだろうか。特に、徴税人に相当するような人を日本の社会で見たならば、尚のことわたしたちは、そんな人物ではなかったことに感謝し「軽蔑」してはいないだろうか。ここに、信仰の云わば緊張感が主張されている。私たちはあくまでも、この「徴税人」のように自己否定するところから信仰を出発させ、そこに本当の感謝や正しき行いが発生するのである。救われた感謝はあくまでも、「罪人のわたしを憐れんでください」というポイントから出発すべきであり、またそれは、最初だけではなく、絶えずその状態であるところにルカ特有の救いがあることを知らされるのである。
by qpqp1999 | 2010-10-24 12:00 | キリスト教

今週の松本太郎テレビ


「松本太郎テレビ」!!!むー!!!
BGMとエンディングテーマは新曲です
今回は不思議な店舗・・・

by qpqp1999 | 2010-10-22 19:16 | ブルース

お尻と音源

今回はウインドウズムービーメイカーの
不具合で
upるのが遅れましたが
今回から
BGM
エンディングテーマ曲

私のオリジナル曲「ゆっくり」です
歌はまだ入っていませんが
ギターは炸裂しています
今週の「松本太郎テレビ」どうぞ

by qpqp1999 | 2010-10-16 01:28 | 音楽
デイサービスセンター新生ルーテル!!
はぁい 今日も営業してましたよ
利用者様が4人も!!!
で午後のリクレーションのひと時は
私がまかされます。
アリプロのビグスビーアームつきの
フルアコで挑みます

まずは
一曲演れとリクエストがあったので
この御高齢者様にもわかるようにと
ロバート・ジョンソンの
Cross Road Blues
を熱演しましたむー
あい うぇんと あ くろすろーど 
ふぃる だうん まい にーぃぃぃぃず

みたいな
そしたら

御利用者様たちは
「そんな若い人らの曲はよーくわからへんけど、すごいなあ」
って
ロバートジョンソンは1911年生まれで
あなた方よりはるかに年長の人ですよ!?!?!
とは言わなかったが
1930年代の名曲も
ブルーズということで
日本の御利用者様には
「若い人の曲」にきこえるむー
画像はデイルームに待機している
私の愛機
b0130652_20475499.jpg

どはー
by qpqp1999 | 2010-10-12 20:51 | ブルース
聖霊降臨後第21主日礼拝説教 ルカ福音書17章11-19節
 「重い皮膚病を患っている十人の人を癒す」と題されたこの個所はルカによる福音書にのみみられる特殊伝承である。これはルカが意図して構成したエルサレムに上る上での、備忘録なのである。一つめは9章51節のサマリアの村人の拒否であり、二つ目は13章22節の終末に対する警戒であり、三つめが今日の個所となる。いずれも、エルサレム神殿主義からイエス・キリストに基づく救いの逆転を示している。
 差別の問題を改善するため新共同訳では「重い皮膚病」と記されているが、これはλεπροὶゲプロイでいわゆる「ハンセン氏病」である。現代日本ですら、未だ差別が続くこの病気は、いわんや起源0世紀にはまさしく「汚れた」病として差別され、非道に扱われていたのだった。
 この個所でまず議論が繰り返されているのが「サマリアとガリラヤの間」という地点がどこかということである。あまり実りの無い議論なので、深く考えることは、無いのだが
ここでルカが意図しているのは、イスラエルと異邦人の中間地点にあるということである。つまり、エルサレムに上るにあたり、ルカはここで異邦人の救いの問題を定義しているのである。尤も、今では万国の人々がイエス・キリストにあって救われるというのは常識ですらあるが、このルカ書の書かれた時代起源70年頃は決してそうではなかった。キリスト教がユダヤ教と袂を分かつのもこの点が一番大きいであろうし、当時としては異邦人の救いの問題はキリスト教教会において大きな問題だったのである。
 一番、問題をややこしくしているのは、当時のユダヤ教の状況にもあった。ルカ書が書かれた当時は、すでにエルサレム神殿は起源70年のローマ軍によって陥落させられ、廃墟になっていて、神殿主義たるユダヤ教はなりたたず、律法を守ることによって信仰と救いを保つという体制に移行していた。そんな、中にあって原始キリスト教は血統による救いの問題とどうしても対峙しないわけにはいかなかったのである。
 ただ、ここで注意したいのは決してこれは起源7世紀の問題ではなく、21世紀にさしかかろうとしている私たちにとっても重要な意味を持つということである。その意味は私たちの信仰の本質が問われているということに他ならない。このエピソードの顛末でイエス・キリストの言葉として「あなたの信仰があなたを救った」という一文で明らかになっているであろう。ここで、ルカが問題としているのは律法ではなく、信仰であるという点につきるのである。しかし、この信仰というものが、一体どういうものなのかという極めて微妙な問題に対して、今日の個所は取り組んでいるのである。
 イスラエルの民と異邦人の民が混合しているそのさ中、イエス・キリストのお通りだということで、「ハンセン氏病」の人々が必死になってイエス・キリストに願う。ここでは十人である。「で迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声をはりあげて」とあるが、いわゆる「ハンセン氏病」の人々は非常な差別にあっていて、いわば世の中から排除され、隔離されていたのである。それ故、その人々は一般の社会に近づくこともできなければ、関わることも禁じられていたのであった。まして、適当な治療法も無い中ではその人々は完全にその人格を損なわれ、社会から隔離されていたのであった。だが、今や、その人々にとって潜在知遇のチャンスが巡ってきたのだった。あらゆる病を癒すというイエス・キリストがそこを通るのではないか。「ハンセン氏病」によって苦しみ、差別され、社会から排除されているその人々は「イエス様、先生どうかわたしたちを憐れんでください」と「声を張り上げ」たのだった。
 ここで「イエスさま」はわかるが「先生」とはどういうことなのかと気になっていたので私訳を試みたところこの「先生」というのはἐπιστάταエビスタータで「司令官」とも訳することができるものであった。単なる「先生」ではなく「司令官」という意味があるのである。つまり、あらゆる権限を持つ者として、この「ハンセン氏病」の人々はイエス・キリストに期待、否、それ以上の信頼をもって臨んだのである。つまり、不可能を可能にし、できないことをできるようにしてくださる特別な存在として、その人々にとってイエス・キリストと遭遇できることは極めて貴重なことだったのである。
 はたして私たちはそれだけの緊張感を持って、主に対しているだろうか、イエス・キリストに対しているだろうか。いくら祈っても、それは叶えられず、結果として悲惨な事だけが残る現実の中で私たちは、主イエス・キリストにどれだけの信頼と信憑性を持っているだろうか。まずはここでルカはその点について追及してくる。私たちは、決して諦めてはいけないのだ。なぜならばそこに主イエス・キリストがおられるからである。そこに信仰の真価が問われてくるのだ。執拗に私たちは主イエス・キリストを信じるべきなのである。その時点で物事はがらりと変わってくるのである。「イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て《祭司たちのところに行って体を見せなさい》と言われた」のだった。ここに私たちの願いに対する万能の主イエス・キリストの現実的な奇跡性が強調される。この「見せなさい」は単に見せるという意味ではない「見せなさい」と訳されているἐπιδείξατεエピデーセテは「立証する」という意味がある。主イエス・キリストが支配されるこの次元にあってはそれを立証することが求められているのである。これが、現代を生きるクリスチャンの一つの証である。私たちは、その信仰生活の中で一体どれだけのことを主イエス・キリストにあって立証しているであろうか、私たちは立証することを主イエス・キリストから求められているのである。はたしてこの十人はその言葉の通り、祭司のところにいくのだが、そこにはすべての支配者である主イエス・キリストにおける奇跡の立証といウ証の役目が与えられていたのである。
 ここて゛賛美という訳が16節と18節にあるが、これは全く違う単語である。18節は確かに「賛美する」と訳せるものだが16節は違う。Δοξάζωνドグサーゾンは「賛美」というよりは「敬意を示す」と訳すのが適当な言葉である。十人の中で何人がイスラエルの民で何人が異邦人かはわからないが、この異邦人はエルサレム神殿に向かうよりも先に主イエス・キリストに敬意をはらわんとて戻ってきたのだった。まさに私たちの信仰のありようが問われている。私たちはどれだけ主イエス・キリストを支配者としてとらえているだろうか、そしてその奇跡の後にどれだけ証するだろうか。
by qpqp1999 | 2010-10-10 12:08 | キリスト教

いやいやいやぁ

いやいやいやぁ
変な行動とる人っていますよね
理由がわからない行動って
興味がそそられます
ということで今週の
「松本太郎テレビどうぞ

by qpqp1999 | 2010-10-08 19:01 | YOuチューブ

女の港

名曲です
「女の港」
しかし、私は知りませんでした。
今日デイサービスで
介護給付費の請求という
も の 凄 い
ややこしくて複雑な
事務作業を
御利用者様のカラオケの轟音の中していましたら
御利用者様が
「太郎せんせい歌ってください」
とおっしゃるので
山下達郎さまのクリスマスイヴを歌ったら
好評で
また事務にもどったら
また「太郎せんせい 歌って」
と言われていったら
大月みやこの「女の港」が始まっている
実は、わたし
初耳ね
な曲でした。
しかたないのでアドリブで歌ったら
これまた好評で
なんかメロディーがちゃんとあっていたらしい
それにしてもwiiって凄いなあ
カラオケできちゃうんだもんね
変なカラオケマシンよりよっぽどいいです
かわいいキャラクターが曲に合わせて踊るし
by qpqp1999 | 2010-10-05 15:42 | ブルース

医学生理学章

ノーベル章で
医学生理学章をゲットした人
対外受精で誕生したルイーズさんが出る
思っていたが
やっぱり
デブだった
なんで欧米の30代くらいの人は
みんなデブなの?!?!?!
極論したら
美を売り物にしている人意外
みーんな
デブぢゃん!!!
もうちょっと
美意識を持ってもらいたいなあ
私なんて
デブにならないため日夜努力しているせいで
こいつ男?女?
みたいに髪くくってノーメイクでも
差別を受けているというのに
せっかく性同一性を正常に生まれたのだから
デブになるな!!!!
美を保て!!!!
by qpqp1999 | 2010-10-04 21:39 | ブルース