牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

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負け組

私のフェイバレットな
歴史上の人物は
織田信長
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ドラキュラことヴラドツェペシュ
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新撰組
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坂本竜馬
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という方々なんですが
この方々にすべて共通する点があります
最後はみんな殺されてる
成功してないんですよ
業績は凄いんだけど
結局負け組になってしまってるんですね
でも
勝って勝利していたら
ちょっとカッコ悪いんです
松田勇作さんが「太陽にほえろ」でも「探偵物語」
でもチンケなのに殺されてるところがかっこいい
のと同じですね
たとえば私の宗派の開祖たるマルチン・ルターは宗教改革成功させて
さいごは幸せに亡くなっている
から イマイチ カッコ悪いんですよ
暗殺されてたらきっとカッコ良かったと思う
負け組だからこそのカッコよさ
深いですむー

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by qpqp1999 | 2010-07-31 14:58 | ブルース

再起動

漫画家として再起動して
数か月
作品に登場する
航空自衛隊の三菱F2支援戦闘機と
陸上自衛隊のアパッチのプモデルを作る
アパッチはこれで二機目です
というのは
妹が今度の通所介護施設の事務作業を
手伝ってくれてて姪と甥が来ていた
そら3歳の甥っ子からしてみれば
アパッチヘリなんて手のとどくとこに
おいてあったら遊びますよね
みごとバラバラについでに
どぅかっティのプラモデルも四散
実はこのF2支援戦闘機、数年前に買いに行こうとして
自動車を電信柱にぶっつけて事故ったんですよ
それ以降、当時の逆境もあって精神的に疲れてて
立て続けに事故ったものです
しかし、今やそれも回復
バンバンどらいぶライフを満喫しているむー
しかしF2作るのけっこう大変だった
足のとことか
ピンセットないと絶対つくれない
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でもゲームと一緒で
ある程度難易度が高い方が面白いんですよね
作るのは苦にはなりません
ほい
できあがりぃ
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ちなみに色は塗りません
日の丸デカールは貼ろうかな
かっこいーなー
三菱F2

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いつか乗ってみたいものだむー
↑無理だっつーの
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by qpqp1999 | 2010-07-30 18:50 | 漫画

幕下11枚目が・・・
どうなってるんですか
お相撲さんたち・・・
するなよな
賭博・・・
それだけのことなら
ホントにそれだけに
阿呆丸出しです
体育会系の悪い見本そのまんまです
どはーっ
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by qpqp1999 | 2010-07-28 21:48

スカトロA

スカトロエースとは
わたしが講談社の週刊モーニングで
シリーズ連載していた
「LOVE PLANET」に登場する
正義の変態です
教会の通所介護施設の立ち上げで
色んな書類に追われてて
妹と姪と甥が応援に来てくれた。
夕食食べてる途中で
2才の甥が
「ウンチ」と言って トイレに行く
>私がおかしくなって
「カレー食べてる時に・・・」と言ったら
カレー食べてた5歳の姪が
「ぷふふふふっ」と
受けてくれた
そこにいた母も
「そんなこと言わないの」と
ウケながらいう
すると
85歳の父が
「何がおもしろいんや」
とボケて、これまたウケタ
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by qpqp1999 | 2010-07-26 20:14 | グルメ

高いですよ

近頃はスーパーマーケット
レジ袋くれなくなった
わたしん言の愛犬のウンチ拾い用に
常備していたが
とりあえず
私が大酒呑みなので
そこの酒屋はレジ袋にいれてくれねので
そこで事足りていた
今日もスーパーマーケットに行ったら
初めてレジ袋を買っている人を見た
一枚5円ですよ

そのお兄さんは贅沢にも
二枚も買っていった
いままでただだったのが
5円・・・
消費税込みにしても
高いです
エコではなく家計のために
レジ袋は使わねい

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by qpqp1999 | 2010-07-24 19:41 | 都市伝説
観れますよ
無料で!!!
ただでさえ
小林源文元作の
キャットシットワンが
観れるむー
すげええええ
ハインドなのはやっぱ
アパッチよかカッコいいからなんでしょうねえ
それにしてもよく出来てますねえ
これは観るしかないむー
ただボタスキーとパッキーのフィギュアがいまいちだむー
ワンフェスでウサギ戦闘員のフィギュア塗装済みなのを
買うむーといいながらも
やっぱ
買ってしまうんでしょうね
劇場版は絶対観るむー
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by qpqp1999 | 2010-07-24 01:03 | 特殊部隊

ああっ しまったあああ

無事 自動車免許とりまして
次の自動車なににしようかなあああ
やっぱ
ルパン三世みたく
フィアット500のスーパーチャージャーつき

にするむー

だいたい50万円くらいで
手に入るむー
と思ったが・・・
500CCでは
高速道路を走れないむー
660CCでないとダメだむー
残念だむー
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by qpqp1999 | 2010-07-20 23:21 | 交通安全
聖霊降臨後第八主日礼拝説教 ルカによる福音書10章25-37節
 良いサマリア人と題される箇所。よくしられる、隣人愛のたとえ話である。普通にそのまま読んだだけで、誰でもその意味するところが理解できるであろう。
 そこで、あえてこの教えの深い部分に読み入ってみたい。
 冒頭の主題は「永遠の命」である。「律法の専門家」が「イエスを試そうとして言った」とある。史実のイエス・キリストはナザレ出身の大工の子である。「ナザレ者」と揶揄されるほどの田舎者なのだ。しかし、よくよく歴史を見てみてると大工の子だからといって、決して勉学から遠いところにはいなかった。学ぼうと思えば学べたし、シナゴーグの役目は教育でもあった。律法学者や「律法の専門家」はそれぞれの自身の経緯でそうなったのであるから、イエス・キリストがそれなりの教えをしていることには一目おいたであろうし、だからこそ「試」したのだ。イエス・キリストが十字架で処刑されてしまうのは、主にユダヤの権力層を批判したからだし、また、自身を「神」と称したことに大きな原因がある。単に、聖書の教えだけをしていれば、それは「ナザレ者」でありながらも、立派な律法の専門家として終わっていただろう。
 「心をつくし、精神をつくし」というのは申命記6章に由来する。マルコ書では第一の掟は何かというものであったのに対して、ルカは[命が得られる]ということに変更されている。「心をつくし、精神をつくし」の申命記の引用は[イスラエルよわれらの神、主は唯一の主である]という現代でもユダヤ教において毎朝唱えられる信仰告白である。これほど有名な箇所であるのに原形が「心をつくし、精神をつくし、力をつくし」と人の三つの部分になっているのに対してマルコでもルカでもそれに「思いをつくして」を追加している。読んでみるとどれも、同じような意味に読めるのだが、それぞれに意味がある。「心をつくし」「思いをつくし」は人間の心のよい部分だけではなく、悪い傾向も含めて神をあいせよという意味があると註解書にあった。また「精神をつくして」は命をとりあげられてもという意味があるという。そして「力を尽くして」は具体的に財力をつくしてということであるらしい。なるほど、いかにも良いサマリア人は財力も尽くしているわけである。
 「隣人を自分のように愛しなさい」はレビ記からの引用である。この隣人愛が申命記と結合したのかはさだかではない。死海文書によれば、実はユダヤ教はかなり早い時期からヘレニズム文化の影響を受けていて、敬神と隣人愛はヘレニズム文化の一倫理であった。それがユダヤ教にも影響したのであろう。しかし、「隣人」πλησίονプレーシオン「近くの
」は誰を指すのかは、ひじょうにあいまいであったし、議論の分かれるところであったらしい、そこでこの「律法の専門家」がイエス・キリストに挑戦するのである。「隣人」直訳でπλησίονプレーシオン「近くの」は確かに誰をさすのかわからない。しかし、福音書読者はすでに良いサマリア人の顛末を知っているから、いささかこの質問が愚かしくも感じるかもしれない、しかし、よく読み進めてみると意外に私たちの生活や社会の在り方にチャレンジしてくるイエス・キリストの教えであることがわかってくる。「では私の隣人とはだれですか」という問いに対して良いサマリア人のたとえが展開される。ある人この人が何人なのかは全く記されていない。が、「おいはぎ」に襲われて半死半生の状態で放置される。ここに二人の聖職者が登場するこの人たちは人々のお手本となるべき人であるが、そこに死にかけている人をみると、面倒なのか、理由はわからないが助けようともせずに「道の向こうを通っていった」となっている。現代日本人の感覚からすると到底受け入れられない行動である。イエス・キリストに教えてもわわなくても、道に半死半生の人が放置されていたら現代日本人なら普通助けるだろうから、このおしえはその点でもはや常識の範疇に入ってしまっているので誤解が起きてしまう。
 「ところが旅をしていたあるサマリア人は」「憐れに思い」「介抱」したのだった。イエス・キリスト独特の挑戦的なたとえである。サマリア人とは紀元前721年に北ユダヤがアッシリアに滅ぼされ、アッシリアからの移民と混血の民となった人々である。このことはユダヤ人には受け入れられないものであった。しかもサマリア人は捕囚後にユダヤが復活しても当然受け入れてもらえなかったし、アッシリアの宗教とユダヤ教の合体した宗教を信じていたし、ヘレニズム時代にはギリシャ神を取り入れる等、ユダヤ人からみれば絶対に受け入れられない民であった。しかし、このサマリア人がユダヤ教の先生たる祭司とレビ人に勝って「隣人」になったのである。葡萄酒で消毒しオリーブ油で保護するのは当時の臨時救護であった。宿で「デナリオン銀貨二枚」を渡すがこれは労働者の二日分の給与くらいの金額である。
 さて、ここからが聖書の示すところを知るべきところである。ようするに敵味方関係なく愛せよというところで落着してしまうのが常である。確かにそうであるが、実際に真剣にここに取り組むならば、意外にこれは深刻である。
 たとえば私たちは死刑になるような犯罪者を「隣人」として愛せるだろうか?もし愛しているのなら死刑制度に反対すべきことになる。また、私たちはあらゆるマイノリティーを愛せるだろうか?同性愛者や性同一性障碍の人を愛せるだろうか?私はこの数年で5組ほどの同性結婚式をし、民主党のおつじかなこさんの挙式もしてこれはニュースにもなった。だが、そういう人たちを嫌う人は少なくない。むしろ嫌う人のほうが多いのではないだろうか。それが受け入れられないようなら、それはまさにこの、たとえ話に出てくる偽善者たる祭司とレビ人であって、決して良いサマリア人たりえないのである。
 保守的なキリスト教こそまさに今日の聖書箇所を真剣に読み、取り組むべきであろう。まさにサマリア人というのはマイノリティーであったし、やっていることもマイノリティーであった。しかしこの人こそ見本的な「隣人愛」を示したのだ。現代の教会に集う保守的な人々こそまさに今日の「律法の専門家」である。イエス・キリストにそのマイノリティーな人々を「あなたも同じようにしなさい」と命令されたのだ。このしなさいは
Ποιήσαςポイエーサスで直訳すると「作る」という意味である。そうなのだ、まさに私たちは主イエス・キリストにあって、差別や偏見、保守的感情による人権侵害の無い世界を作らなければならないのだ。それこそが、「永遠の命を受け継ぐ」ことであり、イエス・キリストを救い主と告白することになるのだ
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by qpqp1999 | 2010-07-18 12:55 | キリスト教
聖霊降臨後第六主日礼拝説教 ルカ福音書9章18-26節
 今日の聖書箇所は,三つの共観福音書に並行記事があるが、しかし、ルカだけ特別に異なっている点がある。それは「イエスが一人で祈っておられた」という祈りの記述である。ルカはこのイエス・キリストの祈りは重大な局面を迎える時に必ず描かれている。洗礼の時3章12節、最初の罪の赦しの時5章16節、十二人の弟子の選定の時6勝12節、-変容の時9章28節、祈りを教える時11章1節、受難の時22章41節、死の直前23章46節。このようにしてみると、ペトロの信仰の告白は、確かにペトロがしたけれども、あらかじめイエス・キリストが祈られたことによって導きだされた一つの奇跡ということになる。またルカだけ[神からのキリスト]という称号になっている。ところが、キリストがこの告白を導きだしながらも「弟子たちを戒めこのことをだれにも話さないように命じ」られたのはいささか奇妙に感じるかもしれない。しかし、これもまた信仰の告白はイエス・キリストの導きによってなされるものであることを強調するものであることが考えられる。
 実際のところ、信仰とは不思議と自分自身によって告白され、信じているものでありながらもそれがどうして、そのように信じるようになるに至ったかは、不思議と謎である。私もどうして、イエス・キリストを救い主と信じているのか正直わからない。
 そして、信仰が表明されるとイエス・キリストは受難予告をなされる。この部分はほとんどがマルコ福音書そのままの形になっている。「必ず・・ことになっている」という言は主の計画は必ず実現するという意味を持つだろう。イエス・キリストの受難は旧約聖書によって理解され、その実現であるという主張であろう。それはとくにイザヤ書の53章の[神の僕]や擬人の苦しみ詩篇22編等が代表的にあげられるだろう。
 「三日目に復活する」は確かにその通りになるのではあるが、これもまた旧約聖書に根拠がある。三日というのは時間の経過ではなく主の救いの確実性を表すものである。苦難にある擬人は打ち捨てられたままにならず、神が自ら介入して彼を必ず救うという意味を持つ。苦しみにある正しい人の救いを「三日目に救いがあった」という形式はホセア6章2節、創世記22章4節、出エジプト記19章11節、サムエル記上30章1節、サムエル記下1章2節、列王記、章18節、その他マカバイ記にもみられ、三日後、三日目は苦しみから救いへの決定的な移行の日を表すものである。
 私たちは、ここにルカ書の巧みな編集を見ることがてきる。まず主イエス・キリストご自身が祈ってくださり、私たちに信仰を与えてくださる。そして、そこには受難と三日目の救いがあるという旧約聖書の完成が私たちの生活の中にも起こることを示しているのである。それは特に次につづく、主イエス・キリストに従うという具体的な私たちの生活の在り方が示されてくる。
 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って私に従いなさい。という言葉に示される。この「自分を捨て」るというのは、一体どういうことを示すのであろうか。非常に具体的でありながら、それはどういう行動をさすのかがよくわからない。人のために自分の何等かを犠牲にするとか、献身的な社会貢献をするとか、いろいろ言い方はあるかもしれないが、私はこの言葉が気になったので私訳のため原典のギリシャ語にあたってみたするとἀρνησάσθωアルネーサースゥ直訳すると「否定する」であった。もちろんこれは自傷行為をするとかいう意味ではない。イエス・キリストの示されたまさに愛がそれを示しているであろう。愛することを行うにあたって、私たちは色々な自分を否定することに直面するし、それを実行するのである。まさにこれこそ、それぞれの十字架である。そして、これは弟子にだけ語られたのではなく全ての人に語られている点も見逃すことができない。弟子はμαθηταῖςマセータイと書かれるが、ここではπάνταςパンタス「皆」という言葉で語りかけてくださっている。これは単に弟子たちを略称したのではなく、ルカが読者に対してという意味を持たせて書かれたものであろう。
 しかし、この自分を否定することは、その苦しみに終わるものではなく、それが救いへとつながることをイエス・キリストは言われる。
 [自分の命を救いたいと思う者はそれを失う]とある、この「うしなう」というのも私訳してわかったのだがἀπολέσῃ アポレーセイ直訳すると「壊す」である。ここで、いう「自分の命を救いたい 」は普通に私たちが生活の座にあって行っていることである。誰でも自分が得をしたいし、自分を守りたいと思う、生物としての本能ですらある。ところが、この自分を優先しようとすることか、自分を壊すことになるとイエス・キリストは教えられた。確かに、自分を優先せず自分を否定し、それを生活の座に実現させることは難しい。だからこそ、イエス・キリストは祈られたのである。今も尚、わたしたちのために祈っていてくださり、働きかけ、私たちに信仰を与えてくださるのである。
 その時、私たちは普通ならできない、自分を否定することをし、そしてその苦しみの中に救いを見出すのである。まさに十字架である。それは一見、損をすることであるし、人生に痛みを持つことになるものでもある。だが、それこそが、それぞれの十字架であり、「自分を捨て」るという、救い主たる主イエス・キリストに従う、具体的な信仰を与えられた者の在り方なのである。
 だが、このような苦しみばかりが言われているのではない。これらの苦しみはまさにイエスキリストの三日目の復活に示されるように、わたしたちはイエス・キリストをいつも見上げ、そこにおられるイエス・キリストに従うということは「私のために命を失う者はそれを救うのである。」つまり、私たちが「自分を捨てる」ということは、いつでもそれはイエス・キリストのためにそれをするという思いでいいと許されているということなのだ。
 だから、苦難の時、それは「自分を捨て」る時、「自分の十字架を背負」う時、私たちはそれをイエス・キリストのためにするのである。そのような信仰をイエス・キリストは真に与えてくださるのである。
 そのように信じて進む道は、たしかに険しく、苦しみが伴うものであるが。その険しさと苦しみを通らなければ私たちはイエス・キリストに従う者とはなりえないし、従うならば、それは大きな救いへとつながっていることを、それぞれの生活の座の中で経験することができるのである。
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by qpqp1999 | 2010-07-18 12:53 | キリスト教

セーター

もう
自慢してよかろうということで
という
自慢ブログがこの頃増えてしまいますが
実は私
女子から手編みのセーターを
もらったことが4回もあるむー

最初は高校生の時
次の1回は神学大学の時
最後の2回は神学校の時
とくにスペシャルなのは
神学校最終学年の時
高校生会
実質女子高生!!!
の中でもとりわけ
カワユスで美しい少女から
2回ももらったのだった
なんで2回かというと
一回目は大きすぎたということで
自ら編みなおしてくれたのですむー
なんで、今頃になってこんな話をするかというと
先日、家を介護施設に改造するのに発掘していたら
当時の女子高校生会の会報がでてきたむー!!!
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しかも表紙がいよいよ私は
授手礼をすましていて卒業を目の前にしていたから
寄せ書きになっているむー
このころのいい思い出は
プリンスのラヴセクシーツアーのチケットを
この女子高生ちゃんのお父様の権力で
すげい前の方の席がとれて
当時の彼女と、女子高生二人と
もう両手に3花でプリンスのレイヴを
楽しめたむー
とりわけ、このころの私は待望の新牧師として
教会から熱い視線を受けていて
たまたま、私の時だけ
授手礼が早くて12月のイヴ礼拝で
神学生でありながらも授手を受けているからということで
「松本太郎先生に司式をしてもらいましょう」ということで
おそらく神学生の時に聖餐式をしたのって私くらいぢゃね??
みたいなでした
その教会、日本福音ルーテル市ヶ谷教会の皆さまからの
壮瞥の色紙には
私がアルバにストラ、キグリムという司祭装束の絵が描かれている
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きっと性同一性障害がなかったら
私、牧師としてものすごい成功していたろうなと
思うむー
実態としてはまだ任地待ちだったが
松本太郎神学生とは書かれておらず
松本牧師と書かれているむー

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by qpqp1999 | 2010-07-15 18:05 | キリスト教