牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

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アルバ

今度の漫画のお仕事で
著者近影の写真が
急遽必要になったむー
Hnaoto全開のパンクにしようかと
思ったけど
ここはルター派の教会の司祭ですから
司祭装束の
アルバというものを着用します
このアルバ着用する司祭は
カトリックとルター派だけだむー
パイプオルガンをバックに
父に撮ってもらう
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愛用の十字架が映えます
なかなか いいのが撮れなくて
10枚は撮ったが
とうとうあきらめてこれにしまんた
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by qpqp1999 | 2010-06-30 16:45 | キリスト教

語学

ふっふっふっ
私はこうみえても
9ヶ国語を操る語学者なのだむー

英語
ドイツ語
古典ギリシャ語
古典へヴライ語
松阪弁(西野カナ使用)
熊本弁
京都弁
大阪弁
日本語標準語

だむー

中でもとりわけ
難しいのが
日本語だむー
こんだけ方言の
激しい国って
日本だけぢゃね???
ということで
とっても、ヘタクソな熊本弁つかってる
PVをどうぞ
熊本弁はいまいち覚めてしまいますが、けっこうぐっときます

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by qpqp1999 | 2010-06-27 22:11 | キリスト教

締め切りでもレイヴ

漫画家の漫画家たる素養は
何といってもその描画速度だと思うむー
時間かけりゃ誰だって上手い絵が描けます
時間かけりゃ誰だって面白い話が作れます。
いかに限られた時間で要求されている頁を満たすか
ここに漫画家ありと思うむー
そこで、今実際に久しぶりに締め切りに追われているのですが
今日はライヴの日です
なんとか時間きりあげて
2曲ばかり演ってきたむー
音源はないが、ぼけぼけのシャメはあるむー
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いつもここのライヴハウスは
誕生日のお祝いをするのだが
今日はお客さん、プレイヤーともに該当者がなかった
んで、免許取得して自分の車でこのライブハウスに来れるように
なった私のお祝い
長淵強  漢字あってますか?
の乾杯をみんなで歌ってくれて
子供のころ憧れだった
アイスケーキの灯を吹き消す
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何故に3本なのか
意図したわけではないが
これぞ主の御沙汰
牧師 漫画家 シンガーソングライター
の三つだむー

そして そして
何しろ自動車で来たから
お酒呑めないので
生まれて初めて
ノンアルコールビールを呑む
まっず・・・
電子タバコはそれなりのクオリティーだが
なにこのノンアルコールビールって
これだったらただの炭酸水の方がましだと
思ったむー
そこで
切り分けたケーキと
ノンアルコールビールと
電子タバコの
スリーショットぉぉぉぉ
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by qpqp1999 | 2010-06-25 00:29 | ブルース
聖霊降臨後第四主日礼拝説教 ルカ福音書7章11-17節
 ナインという町での主イエス・キリストの死者を生き返らせる奇跡はルカ福音書のみにみられる伝承である。更に、この物語の核となる13ー15節は明らかにルカの文体とは違っており、その他の部分が特にルカ調なので、ルカはこの伝承を非常に大切にしたといえる。
 死者の復活、復活というよりも、生き返ったという方が生々しい。この出来事が史実にさかのぼるかどうかと問われるならば、実は私は本当にあったのではないかと思う。と言うとあまりに熱狂的と思われるかもしれないが、四つの福音書で死者を生き返らせた物語はかならずある。しかも、今回のように並行記事を持たないものも少なくない。ということは、少なくとも、噂の次元まで落としてしまうと、ナザレのイエスが死者を生き返らせたという評判は確実にあったはずである。まさに火のない所に煙はたたないのと同じで、ナザレのイエスが死んだ人を生き返らせたという評判はあったのは間違いなく史実である。
しかし、いつも私がこの死者の生き返るという奇跡物語を読むとき、それでもこの生き返った人はやがてもう一度死んでしまうということを気にしてしまう。また、現代において完全に死んでしまっている人はどんなに電気ショックを与えようと、心臓マッサージをしようと生き返ることはあり得ない。もちろん、どんなに祈っても私たちは死ということに関しては全く無力である。聖書をいくら読んでも、祈ってもやはり人の死はもはやどうすることもできないものである。
 もちろん、この福音書を書いているルカにしても、そういう認識は当然持っていたであろう。使徒言行録でも死者を生き返らせる物語をルカは書いているが、ルカにとって重要なのは生き返るという奇跡を記すことで、わたしたちの信仰にそれがなにをもたらすか、恵みとなるかを語りかけているのではなかろうか。
 実はこの箇所の伝承は旧約の預言者エリヤの列王記に記されている奇跡と似ている。「やもめ」の「一人息子」の死とその生き返らせる奇跡である。しかも、今日の箇所ではイエス・キリストは「大預言者」と人々から言われている。それを踏まえれば、この物語は列王記の奇跡を意識して書かれているであろう。
 ただ、反対に私訳をしてみると意外な点があげられる。それは「イエスが」とか「イエスは」とか書かれている部分11節~17節の間でギリシャ語の「イエス」にあたる「Ἰησοῦςイェスース」という名詞は一言も出てこないことである。尤も他の箇所でも「イエス」と訳されているもので、それが代名詞の「イエスを」だったら「αὐτὸνアウトーン」というように記されているのでそうめずらしいことではないのだが、それだけにルカはこの奇跡物語を一つの起点にしていると思われる部分がある。
 それは「主は」という言葉でイエス・キリストを際立たせて書いていることである。それ以外は全部代名詞なのにここに限って「主」「κύριοςキュリオス」と主格に特別な称号を与えているのだ。人々の反応は「大預言者が我々の間に現れた」となっているが、ルカはここで「主はこの母親を見て憐れに思い」と改めてイエス・キリストを主なる神として認識し、また、それを訴えているのである。
「主」という表現はキリスト教においてとても大切な認識である。私自身の感覚でいうと神という認識と主という認識は異なるものではないかと思う。特に神という単語は八百万の神の一つになってしまうので、あまり適切なものではないと思ってしまうので、私は「主」という言葉を大事にしたいと思う。
 この「主」が「憐れに思い『もう泣かなくてもよい』と言われるのである。実はこの部分こそが、この伝承で大切にされるべきであろう。私たちにとって悲しみの涙はさまざまな状況で起きるものである。そして、大抵の場合その悲しみはどうしようもない状況の中で発生する。私たちは涙を伴う悲しみには非常に無力である。今日の箇所で「一人息子が死んで」という状況は「やもめ」にとっては全くどうしようもない悲しみである。ルカは私たちの限界、無力さの象徴としてここに「死」という状況を設定している。
 私たち人の力ではどうしようもない悲しみ、苦しみに対して「主」は「憐れに思」ってくださるのである。そして、その悲しみを「主」の力によって挽回してくださるという主張であろう。私たちは涙の中で、それがまさに「死」のようにどうしようもない状態の時に「主」が「憐れ」んでくださっていることを信じ、その中に希望を持つことができるのである。
 「主」は「近づいて棺に手を触れられた」これは過去に起こったことではない私たちの生活にも起こることなのだ。あらがうことのできない問題に悩まされ、私たちは涙する、すると主は「近づいて」下さるのだ。「主」は言われると私訳をしたいくらいの言葉がついに発せられる「若者よ、あなたに言う、起きなさい」と。まるで寝ている人を起こすかのような表現だがまさしくそのとおりで「起きなさい」「ἐγέρθητιエゲレーセティ」は「目覚める」という意味でもある。これこそ今日、私たちに与えられる主の恵みではないだろうか。私たちに主はめざめなさいと言って下さっているのである。そして、わたしたちはその言葉の故に目覚めることができるのである。そう信じることが目覚めの時なのである。私たちは、あらゆる局面において主にあって目覚めることができるのだ。[死]すらも克服してしまう主が今も私たちに信仰の目覚めを与えて下るのだ。
 そして、「イエスは息子をその母親にお返しになった」とある。私たちが、どこかでうしなったものを、信仰の目覚めとともにそれは回復されることが強調されている。私たちはいつも、どこかで何かを失ってしまう。そして、もうそれは二度と回復できないかのような凄まじさをもって私たちを席巻する。私たちには、それを打ち砕くための力が必要である。それは、まさに主から与えられる。「お返しになった」」ἔδωκενエドゥケン」は「与える」という意味でもある。確かに、主によって与えられねば、私たちは涙の前にあらがうすべがない。
 ルカ書にしかないこの「やもめの息子を生き返らせる」エピソードは、悲嘆にくれる私たちに希望を与えてくれる。私たちは問題をかかえていても、主によってであれば、そこから目覚めることができるのだ、そして失っていたもの、忘れてしまっていもの、必要なものらを主は与えてくださるのである。
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by qpqp1999 | 2010-06-20 12:55 | キリスト教

私がCGにこだわる理由

おそらく
日本の漫画家で否
世界の漫画家で
モノクロ網点でCGを用いたのは
わたくし松本太郎のみであろうと思います。
実家に借金までして
購入したアップル社のクアドラ
まだ当時はウインドウズがまだ出ていなかったので
画像処理という点において
アップル社とアドビ社は群をぬいていました。
その後私は度重なる
アップデートに資金を投入することに
なるのですが
G3までで見切りました
ウインドウズに鞍替えです
何しろウインドウズだと
98でも現在駆動可能なのですから
その点で
マイクロソフトはアップルに勝ったのだと思います。
そして私の漫画人生を変えたのは
セルシス社のコミックスタジオです
なんと直接にモニターに書き込めます
これであれば
スキャニングの際に生じる
線の痩せやいらぬゴミ取りも必要ありません
しかし
しかし
しかし
このソフトで漫画を
アナログな時点まで高めるには
それなりの腕前が必要です
それをどこまでやれるか
それが勝負です
何といっても
銀河鉄道999の世界みたいに
デジタルでアナログなことができるのですから
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by qpqp1999 | 2010-06-19 21:46 | 漫画

教会手帳

ええ 今も守ってます
法令運転!!!
私の後ろはいつも渋滞
自動車学校のK先生から電話が
教会手帳、私が教習自動車の中に忘れていたのを
見つけてくださったむー
久しぶりにまた自動車学校へ
K先生にお礼を言おうと先生たちの
詰め所みたいなところに行く
そしたら
親しく教習してくださった
S先生と喫煙場で会う
私のブログをその後も
観ていてくださっていて
免許受かったこととか話に花がさく
で二輪車の倉庫が先生たちの詰め所になっているらしく
そこへ行くと、なつかしい先生たちが
K先生にもお礼が言えたむー
帰り道せっかくここまできたし
教習のコースで気になっていた
を見に行く
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宇田の明神跡って書いてあった
もともと神社だったらしい
鳥居も何もないんだけど
なんか神秘的だむー
父がぼこぼこにした
私の赤のフィットが田園に映える
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次の車検には治してもらうむー
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by qpqp1999 | 2010-06-18 18:42 | 交通安全

シュライヒ

皆さんは
シュライヒ
ってご存知ですか?
世界的に有名でなおかつそのディティールの作り込みとか
すごいフィギュアを提供してくれる
貴重なメーカーです
今回、お仕事のために
特に戦国時代の物語だけに
馬は欠かせないので
このシュライヒの馬を二頭ほど
購入しました
そしたら
シュライヒの人が私の事知っていて
「松本先生からご注文いただけて光栄です」
とサービス精神旺盛だむー
今回購入したのは
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この二頭
しかし素晴らしいできです
このシュライヒ恐竜にいたるまで
すごい品ぞろえで
店に行っちゃったら
最後一〇〇〇〇〇円分は買ってしまうなあああ
と思ったむー
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by qpqp1999 | 2010-06-17 22:27 | フィギュア
マイケルジャクソンとライオネルリッチーが
バンドエイドに触発されてか
USA FOR AFRIKA

We are the world
をLP版「レコード」の時代に
出したのね
まだCDが無い時代に・・・
私は当時プリンスのファンで
この曲プリンスが関わってない
かわりに
LPレコードならではの
B面にプリンスの曲が入ってて
かっこいいなぁ
と思っていたら
何のことは無い
ちょうどこの曲のレコーディングの時期に
プリンスは警察沙汰を起こしていて
参加できなかったという・・・・
かっこわるぅぅぅ
みたいな
でもこの曲にプリンスが参加したとすれば
どのパートが割り当てられてたんだらうか
それが
今の最大の謎むー
ちなみに
あたらしくマイケルジャクソンが
描き下ろした
We are the worldがあって
これって綺麗ですよ

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by qpqp1999 | 2010-06-07 22:22 | 音楽

たのしくって

たのし くって
たのしとはなんだろむー
バカなこと書いてすいません
自動車を運転できるというのは
というか
運転は楽しいむー
もうね、法令運転を全うして
走ってるので
止れ は 意地でも停まるし
ルーム ミラー 合図 123 はい目視 で車線変更
とか念入りにやって巻き込み確認目視
踏切はぜったいに電車来ないのに
意地でも窓あけて音も確認する
そして
制限速度は絶対に
意地でも守る

40キロの道はどんなにすいていて
見通しがよくても
40キロ以内で走るし
ガードレールの無い路側帯に
子供がいたら
意地でも徐行するし
かえって
回りに迷惑?!?!
みたいになってる
しかし楽しいのよ
制限速度守るのって・・・
私の自動車の後ろは大抵渋滞する
しかも追い抜こうにも黄色の実線に対向車があるので
追い越すこともできない
中には とうとう ぶちきれて
黄色の実線バリバリにはみだして
対向車とすれすれでも
追い越していく人もいる
すると大抵次の信号で
私に追いつかれるむーWWW
いやあ 楽しいねえ 法令運転は
ただオートマッチく車だということが、すごいストレスになるむー
早くお金ためてミッション車買うむー
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by qpqp1999 | 2010-06-07 16:32 | 交通安全
聖霊降臨後第主日礼拝説教 ルカによる福音書6章37~49節
 今度、新生ルーテル教会は、高齢者通所介護施設を作り、地域社会に福祉の働きをしていくことになった。久保町にある自宅を改築して施設を作るのだが、それにあたり地盤調査をしたところ地面に12メートルの杭を打ち込まねばならない地盤の弱い地域であることが判明した。それまでの建築基準では、そこまでしなくてもよかったのだが、今後建てる場合はそれが必要であり、現状の建物、久保町の自宅周辺の建物は震度の強い地震には、耐えられない恐れがあるという。この12メートルの杭を打ち込む作業だけで数百万円かかるので、改築の方法を杭をうちこまなくてもよいようにかえたのだった。
 今日のルカ書はマタイ書とおおむね同一伝承を用いている。順序もほぼ同じである。しかし、ルカ書においてはこれは6章20節「貧しい人々は幸いである」から始まるイエスの教え集のしめくくりの部分である。この冒頭にある主の恵みの深さを前提にして読まなければ、ともすれば単なる戒律的な教え集になってしまう。それもあって、ルカ書は教え集の冒頭にこの恵みの部分を配置しているのである。
 「人を裁くな」という命令形の言葉、実はこの時点で日本国の法律に従っている私たちはすべてアウトである。法律によって定められたことを守らないと裁かれる世の中になっており、そこに安住する私たちはそれを肯定しているから、たとえばニュースや新聞で犯罪者の記事をみると、それがむごたらしいものであればあるほど、その人が裁かれることを肯定する。
 最初にこう言ってしまうと、あとはどうすることもできないので、改めて主の恵みに立ち返って取り組むことになる。なるほど、たしかに私たちは普通に生活している中で自覚すらしない時点で人を裁いている。では戦国時代のような無法地帯がいいのかといえばそんなことはないことは常識である。では私たちにとって「裁くな」とは信仰の視点からしてどういう意味を持つのだろうか。実はこの部分には差別の問題も入っている「人を罪人だと決めつけるな」と書いてあるが「罪人」という単語はギリシャ語原典には記されていないあるのはκαταδικάζετεカタディカーゼテーという「きめつけるな」という単語である。私は大胆に私訳するなら「差別するな」と試でみたい。
 そういうスタンスからこの厳しい教えというよりは命令は私たちが、どれだけ主に愛されているかというところから出発すべき問題であることがわかってくる。大胆に言うならば人は人を「裁く」のではなく、そこに何等かの悪事や不正や差別があるならば、それらは当然のごとく正さねばならないということである。「裁くな」というのは、あくまでも私たちが主に愛され、祝福されていることを前提にした私たちの信仰の在り方であって、現実の問題として、たとえそれが教会であっても正さねばならないものは正さねばならないのだ。むしろ、そのことが「人を裁くな」ということと密接に関係してくるのである。私たちは主イエス・キリストの恵みの故に「人を裁」かない。しかし、「決めつけるな」という差別に立ち向かう能動的な教えが続くことにより、そこで主の道にはずれたことがあるならば正さねばならないのである。事実、イエス・キリストは率先してファリサイ派の人々を正してきた。そして今や私たちには、その正すことの、また在り方が示される。「兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」そのことがまさに書かれているわけである。この構成によって、まさに偽善的な、あるいは人間関係に固執したおかしな「裁くな」が、あえて軌道修正されるのである。
 事実、この部分ではイエス・キリストがファリサイ派の人々に言ってきたあの言葉「偽善者よ」という言葉が実に弟子たちに、なげかけられているのだ。単に「裁かない」「罪人ときめつけない」という平べったい教えではイエス・キリストが私たちに与えて下さっている恵みに到達できないのだ。それだけでは、私たちは漫然たる「偽善者」そのものなのである「まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことがでる」というこの部分は非常に重要である。おおくの場合この箇所は「自分の」「目にある」「丸太」を「取り除け」ばかりが強調されてしまって、本来到着すべき「はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」が委縮されてしまう傾向があるから、この点はしっかりとおさえておくべき記述である。「教会はさばく所ではなく愛する所である」といったようなことを胸をはって言う状態こそが「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け」と言われる状態なのである。では「自分の目から丸太を取り除」くとはどういうことを指すのだろうか。それはまさに「主よ、主よ」と呼びながらイエス・キリストの「いうことを行わないのか」という少しショッキングな言葉で示されるであろう。実際のところ私たちは「主よ主よ」といいながらどれだけのことを「行」っているだろうか。「行う」と訳されているποιῶポイオーンは「作る」と直訳できるものである。私たちは、その生活の座において、また教会という共同体において、どれだけ主の恵みに対する「言う」ことを作りだしているたろうか。それを作りだすことこそが、「自分の」「目にある」「丸太」を「取り除」くことなのではないだろうか。だからこそ主イエス・キリストは言われる「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が」「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている」と。まさに家という信仰を作りだすことがここに強調こされている。
 であるならば、私たちはそれを作りだすべきなのだ。まさに教会はそのような信仰の交わりの中でこそ作りだされなければならないし、そこに主イエス・キリストの恵みがあるならば必ずそれは作りだすことができるのである。
 もし主イエス・キリストの恵みのうちにあるならば、その恵みによって信仰を深く掘り下げ、岩という奇跡の上に土台を置いて主イエス・キリストという家を建てたならば。「洪水になって、川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので揺り動かすことができな」いのである。ここで言われている洪水とは、私たちの生活の座、教会という共同体に起こる、さまざまな問題、困難、失望であろう。その時に私たちが主イエス・キリストの恵みによって結実した実を結んでいるならば、それは必ずよい実として私たちを信じ、祈る喜びへと導かれるはずである。かくして、イエスの教えは、「貧しき者の幸い」という土台から今日の箇所に至ることを知るのである。
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by qpqp1999 | 2010-06-06 22:00 | キリスト教