牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

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上手い私

漫画のお仕事
再起動という時期に来ましたよ
免許もらったので
活動範囲も広がったので
インターネットカフェ行ってきました
参考にと思って漫画を物色するが
私から見たら
こんなだったけ??くらい上手くない・・・

もう見てたら私の腕まで衰えてしまいそうな
くらいです
過去の私の作品を引っ張り出してきて観る
どうして単行本にしなかったの?
講談社!!!!

みたいに
私の自慢作品
「LOVE PLANET」とか普通に上手いです
イラストをUPしましょう
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それでは
そろそろ描きましょうか
by qpqp1999 | 2010-05-30 21:30 | 漫画

怖いぞー

ついに
普通自動車一種免許とりました
思いのほか
すぱん すぱん
と一回でうかっていった
というのも
今朝の試験前40人くらいの
受験者がみんな
一分一秒を惜しみ勉強しているではないか
しかも、ぜったいこの人普通は勉強しないでしょ
っていう感じの人まで真剣に勉強してる
わたしも
「一回でうかる」
という題目の受験用問題集に取り組む
もういいかげんほとんど覚えてて
なんか意味ないけど
みんなもやってるから自分もやる
とかいって本番の試験になったら
見たことも聞いたこともないような問題が
半分くらいある
尤もそのうちの半分は常識問題だが
あとの半分はそうでない
微妙です20問くらい不明としてチェックする
試験管が「あと5分」
とか怖い声で言う
ひえーあと10問くらい残ってるよ
急いでやって
あのアホみたいな絵が書いてある
危険予測問題終わらせて
さっきの20問もいっかい吟味して
あやしいのは変えるとかしてたら
「はい 止め」
とまた試験管が怖い声で言う
15分後に結果が電光掲示板にでる
かたずをのんで待ついよいよ結果だ
なんとモニターには
十数人分の番号しかないぢゃん!!!!

半分以上の人が落ちてるぢゃん!!!
しかし幸いにして私の番号はあった
ああよかったああああああ
で写真とって手続きして
免許もらったむー
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ほとんどすっぴんで行ったのを
できあがった写真みて後悔したむー
そして家に帰って
父がボコボコにした赤のフィットに
私の若葉マーク張る
すると
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もみじマークに初心者マークって
どんな奴が乗ってるんだ
怖ええええええ

by qpqp1999 | 2010-05-25 18:51 | 交通安全
主の昇天主日礼拝説教 ルカ福音書24章44-53節
 もしかするとイエス・キリストが復活したことより信じがたいのがこの昇天の記述ではないだろうか。明らかに、この著者ルカは地球という丸い星の一つにいることを知らないし、空の上は真空の宇宙になっていることを知らない。知っていたら、もうちょっと別の書き方をしたかもしれない。主の昇天主日は毎年礼拝されるけれどもイエス・キリストの昇天の伝承はルカが最古のものとされており、実質4つの福音書の中で唯一ルカにのみ、記されているものである。マルコ書のつけたしの部分にも認められるが、これは明らかに後代になってからの加筆なのでマルコのオリジナルではない。あと使徒言行録にも、イエス・キリストの昇天の場面が描かれているが、この書簡もルカが書いたものであるから、やはり伝承としてはルカ以前はなかったものである。
 使徒言行録ではイエス・キリストが「天に上げられ」た時、「雲」がその姿は「雲に覆われる」がルカ書ではそうではないから地上からは見えないところまで上げられたことになる。そこで、そういう現象があったとか、なかったとかということを議論しても、考えても、あまり意味がない。この昇天の物語がいかに私たちの「心の目を開いて」くださる恵みとなるかが大切であろう。
 実は今日の箇所は先々週の箇所の続きである。奇妙な聖書の選出になっているのはこのためであった。なんと先週の箇所では11弟子たちの「真ん中に立ち」その復活のお姿を顕したのだった。弟子たちが「亡霊を見ている」と思っていたので、体があり、「焼いた魚を一切れ」「彼らの前で食べられた」のであった。そこでプツンと途切れた状態だったのが先週の箇所である。そこで私は先週はその説教に取り組むのに実は苦労したのだった、というのもルカ書において復活のイエス・キリストの恵みとは、今も生きて働いて、私たちに信仰という「心の目を開いて」くださる状態が中心になるからである。
 ルカ書のどこにも「弟子」たちがイエス・キリストが「焼いた魚を一切れ」「食べられた」から信じたとは書いていないのだ。もっと掘り下げて言うなら、イエス・キリストがそこで、どんなに人間の肉体を持っていることを証明しても、おおよそ人には「復活」ということは理解もできなければ、信じることもできないということである。
 かつて、障碍のある方が当時まだ神学生だった私に「キリスト教のどこが救いなのか」と問われたことがあった、私は人は皆、罪人であり主はそのような私たちを愛して下さったので、イエス・キリストを購いの犠牲として十字架につき、その贖罪のゆえに私たちは救われた者となったというようなことを言った。すると、その方は「悪いけど、ちっとも救われた気がしない」と反応された。私はそれ以上どうすることもできず、贖罪の教義、信条をいくら述べたとて、それは単なる理屈であり、それが霊的に魂の出来事、わたしたちの「心の目」の出来事として起こらなければ全く非力で無意味なものであることを痛感した。
 ところが、反対にまだ神学生でもなかった高校生の頃、私は三重の親元を離れ熊本の九州学院というルーテル教会のミッションスクールに入り寮で生活することとなった。食事の時、食前の祈りをしていたら、隣に座っていた先輩が「太郎、どげんしたとや、気分わるいんか?」と心配してくれた。祈りを中断されてしまったが、私が祈っていることを説明するとたいそう驚いていた。なんとミッションスクールの寮なのにキリスト教徒は120人中、私一人だったのである。それ以降、食前の祈りをしている私を見て、あちこちの寮生が「ほら 見てみろ 太郎が お祈りばしよるぞ」と珍しがられた。やがて、寮生たちが私に「キリスト教を信じるとはどげんこつや」と聴いてくる先輩、同級生、後輩が出てきて、その頃の私は熱狂的な福音主義的な信仰性をもっていたので、この世の終わりや、私たちの罪が地獄に行くことなどを強く論じた。おおよそ、きちんと神学をしている者からすればめちゃくちゃなことを言っていた。ところが、私の話を聴いた高校生たちは「俺が地獄に落ちんごつ祈ってくれ」という人がだんだん出てきて、しまいには、私の話を聴きたいと寮生たちが部屋に集まってきたり、話をしろと部屋に呼ばれたり、ついには私の話がいいと録音する生徒までできた。最終的には2人を教会で受洗するに至るのだが、神学を学んだ神学生だった時より、聖書がいつ頃書かれたかも知らない高校生の言葉が強く人に伝わっていたのだ。おそらくは。この現象こそ、そこにイエス・キリストの力が働いたということを思う。そもそも福音書の成立する過程におけるキリスト教はそれこそコリントの教会の様子をパウロ書から読めば明らかなように、教会の中で非常に人間的などうしようもないトラブルをかかえ、イエス・キリストの教えがどっかにいってしまっていた具合であった。しかし、そんな幼稚なキリスト教共同体が数世紀を経て福音書を経典とし教義、信条が結実してきた歴史をみると、そこに大いなる主の働きがあることを、しみじみ思う。
 主イエス・キリストが「天にあげられ」たというこのエピソードは、まずこの箇所の主題たる「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」くださる主の恵みから出発するべきなのだ。前述した二つのケース、実は私は同じことを言っている「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に述べ伝えられる」。しかし、同じことを言っていても聖書をろくすっぽ学びもしていない高校生の話の方が、小難しい神学を心得た神学生よりも人の「心の目」を開かせている状態でよくわかる。
 宣教をするのは人ではなく復活された主イエス・キリストなのである。そして教会はその復活された主イエス・キリストがその「真ん中」に立っているべきなのである。もしも、そこに復活の主イエス・キリストが不在ならば、どんなに立派なゴシック様式の大聖堂があり、どれだけたくさんの人が集まっていてもそこには救いは実現しない。反対にどんなに小さくて、少なくてもその「真ん中に」イエス・キリストが立たれるならばそれは教会なのである。
「モーセの律法と預言者の書と詩篇に書いてある事柄は、必ずすべて実現」するというのは現代を生きる私たちの生活の中に実現するのである。それが主イエス・キリストの復活であり、その時に私たちの生活の座から空を仰ぐ時、「天にあげら」れる主イエス・キリストを見ることになるのである。
by qpqp1999 | 2010-05-16 21:44 | キリスト教

結婚式の司式

今日は久々に
挙式場華王殿での
挙式の司式だったむー
凛々しく威風堂々としていなければ
ならねい挙式直前の私

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たまたま知り合いだったので
承った挙式だが
今日はこの挙式場大繁盛で
何組もここで挙式する
私たちは本物の牧師だが
ほかの人は
みんな
偽ガイジン
すれちがう時
なんかすげい
ばつの悪そうな表情して

私の前を通りすぎていく
そしてたまたま発見したのが
偽ガイジン用の式文
アルファベットで
anatawa aisimasuka とか日本語が偽ガイジンでもわかるように
書いてある
これは腹かかえましたねい
by qpqp1999 | 2010-05-15 23:26 | キリスト教

若かった・・・

しかし
この頃はわかかった
しかも
ホルモン治療したばったで
とっても解放感があった
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/2261/photo7.html
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by qpqp1999 | 2010-05-11 21:42

天使が来た

私は睡眠障害だ
バーボン無しでは眠れない
日曜は10時半から礼拝だ
だから土曜日は早めに
バーボンを呑む
そしたら
いきなり朝たたき起こされた
教会学校に子供が来てくれたと母の声
私はすぐに起動できなくって
それでもがんばって
赤い方のフルアコを担いで
教会に駆け付けた
そしたら
三人兄妹の子供が来ているで父が
親孝行の話をしている
私は心の中で思った
「このバカ者と」なぜならば
昨今は親孝行したくても
お父さんがいなかったり
お母さんがいなかったり
する子供が少なくないからだ

しかも今日は母の日で
こんな日に教会学校で母なんて
持ち出すのは絶対に禁句だ

だって母がいない子供たちがいるから
そしたらやっぱり
今日来てくれた子供たちには母親がいなかった
ともすれば父親もいないかもしれない
必死で父の話した話をでんぐりがえるように
私の漫画でイエスキリストの愛を語り
私の赤のフルアコで
「主我を愛す」を何回も歌い
子供たちと時を過ごした

しかし、子供の方から
教会に乗り込んでくるなんて
めったにないことだし
だけど
教会の正面に三台の小さなマウンテンバイクがとまってて
中にはいったら
天使が三人いたまちがいなく
あの子供たちは私には天使に見えた
来週も来るという
これは奇跡だ・・・
by qpqp1999 | 2010-05-09 23:12 | キリスト教

憧れの作品

お前の好きな文学作品を言え
と言われたら
まちがいなく一番に
聖書ではなく というのも聖書は文学ではなく神学だから
西遊記!!!
せいてんたいせいそんごくう
これほど面白い話があるでしょうか
しかし意外に語られていないのは
この物語の結末です
モンキーマジックってそのまんまんやん
みたいなバンド出てくるし
最初聴いた時はゴダイゴ?!?!
と思ったほど
リスペクトされてますね
演奏も歌も
でもこれは本家より好きかも

by qpqp1999 | 2010-05-06 22:52 | 映画
復活後第四主日礼拝説教 ヨハネ福音書13章31-35節
 数年前に話題を呼んだダヴィンチコードという小説がある。イエス・キリストは実は結婚しており、その子孫がいるという、おそらくキリスト教文化圏ではショッキングな小説である。しかし、日本においては、多くのキリスト教徒でない人々がキリスト教の宗教性や神秘性に刺激を受けかえってキリスト教に対する関心を高めたものである。
 尤もこの小説も全く根拠のないことをいっているのでもなく確かに2世紀頃に書かれたエジプトのコプト語のマグダラのマリアの福音書というものがあって、ここでは完全にマグダラのマリアはイエスの妻であったと書いてあるらしいので、まだ教義、信条が整っていなかった2世紀の書物であればそういう見方をしていたグループもあったのであろう。しかし、なにしろエジプトのもので2世紀以降に書かれたものであるから、その信憑性は極めて低く、もしそのような書物に史実性があるとなると、新約聖書という経典である四つの福音書はまさに史実そのものであると言えるくらいであるので、これは一つの作り話であろう。実際にイエスの弟子には女性がおり、今日の第四福音書ではイエス・キリストの墓に最初に赴いたのはマグダラのマリアだけであったし、最初に復活のイエス・キリストに会うのもマグダラのマリアだったから、この女性は女性の弟子の中でも特に注目されていたのは事実である。
 このような話を冒頭にしたのは、そのキリスト教のリアルな信憑性と神秘性はやはり、今もなお私たちの信仰生活に生き生きとしたものであるべきと考えるからである。第四福音書は確かに共観福音書と比べると確かに神秘的であり、ある時期の神学者たちはこの福音書は異端たるグノーシスであると言っていた。ブルトマンという神学者はグノーシスのキリスト教化と説いたし、ケーゼマンはキリスト教のグノーシス化と説いているほどである。グノーシスとはと、いうと、まずは二元論であるということにある。そして、この二元論すなわち、あちらと、こちらを真っ二つに分け、その基、源泉も分離された二つの世界という観念と理解することができるだろう。そして、そのことが強く現れているのが今日の「新しい掟」というみだしに見られる聖書箇所なのだ。
 これのどこが二元論的かということは、後に述べるとして、この箇所が復活節の第四の主日に選ばれている意味を考えてみたい。この箇所は受難の前夜、まさにユダに悪魔が入りイエス・キリストの「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」とユダに言いついに受難が決定的になった場面での物語である。復活節に受難のまさに先端の箇所が何故にえらばれているかと問われるならば、まさにイエス・キリストの復活は、ヨハネ書では受難というよりは栄光の十字架と復活とセットになってはじめて成り立つ神学が根底にあるからである。
 共観福音書においては「人の子」の栄光は再臨と関連付けられているが、ヨハネ福音書では十字架と復活が「人の子」の「栄光」なのである。であるから、この受難の始まりは栄光の始まりということである。であるからユダがついにサタンの仕業をはじめたこの時点で主の勝利たる十字架と復活が歴史に起こり「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と弟子たちとの決別の説教がここに語りだされるのである。弟子たちとの決別の説教の冒頭にはやはり栄光の十字架と復活が配置されていることにはこの福音書の精密な構成を思いいるばかりである。私が神学生だったころヨハネ福音書研究が専門の間垣先生がつよく教えておられたのは、ヨハネ福音書のイエス・キリストは十字架で悲鳴をあげるようなものでない、ということであった。あくまでも、この十字架による栄光が強調されるべきであるとされた。私もその点についてはまったくそうであると思う、ただし、贖いの十字架という信仰がないのかといえば、決してそうではなく、あくまでそれを大前提にしての栄光の十字架というのが妥当なのではないだろうか。
 ヨハネ福音書は愛の福音書とも呼ばれるほどアガペー「愛」を強調する福音書である。しかしこのアガペーなる愛とは何ぞやと問われると具体的にどういう状態を指すのか的確に語るにはヨハネ書をよく研究する必要がある。というのは、いわゆる道徳的な愛ではないし、相手を思いやるとかそういう類のものではないということである。では、この愛とは「新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい、わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」なのである。これはまさにグノーシスのキリスト教化、キリスト教のグノーシス化といわれてしまうような顕著な二元論なのである。この「互いに愛しあいなさい」はヨハネの教会の結束とユダヤ教からの離脱を特に意味している。世とキリスト教共同体は一つではなく、別な次元のものであることが強く記されているのである。つまり、「愛」はヨハネ書においてはキリスト教共同体という現実が示している神秘的な復活のイエスの栄光なのである。であるから「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを皆が知るようになる」のである。
 復活節に私たちはイエス・キリストの栄光の復活の神秘を、キリスト教徒の共同体のあり方をして世に発現させられる奇跡を思い返さねばならないのである。キリスト教共同体での「互いに愛し合いなさい」とかいうと、教会という集団の中で信徒同士が仲良くしましょうといっているように聞こえてしまうがそういうことは意味していない。もちろん信徒同士が仲良くするのはいいことだが、第四福音書が提示し求められている「互いに愛しあいなさい」はキリスト教共同体を活ける栄光のイエスの復活の現場にするべきであるということである。この点については、多くの、あるいは全ての現在の教会、キリスト教共同体が改めて向かい合わなければならない側面ではないだろうか。この点において欠如しているが故に、私たちはどこかで復活のイエスキリストの栄光を汚してはいないだろうか。おそらくは汚しているのである。であるならば、今日の聖書箇所は現代のキリスト教共同体を形成している私たちにとって大切な恵みの箇所となろう。
 紀元3世紀に公認宗教となり以降は、巨大な組織になり、また腐敗し、改革があり、また改めたり、研究を深めたりして結局実際今のキリスト教共同体はどこの教派、教団でも漫然な状態が横行しているのが事実であろう。それがゆえに私たちは復活されたイエス・キリストからの「掟」をないがしろにしてはいないだろうか。私たちはこの「掟」によって主に活かされ、復活のイエス・キリストの神秘を与えられるべきなのである。
by qpqp1999 | 2010-05-02 21:10 | キリスト教