牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

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顕現節第三主日礼拝説教 ルカによる福音書2章16-32節
 顕現節にふさわしいルカによる福音書におけるイエス・キリストの宣教開始のエピソードである。しかも他の福音書の平行記事がマルコ書、マタイ書にみられるが両書ともこの故郷であるナザレで受け入れられない物語は開始の部分になっていないので、ルカ書では意図的にこの受け入れられないイエス・キリストのエピソードを洗礼を受けた直後に、みじかくガリラヤでの活動を記したあとに配置していることがわかる。だからこその顕現節の聖書箇所ということになる。
 安息日は土曜である。日曜は安息日ではなく主日という。キリスト教徒でもこの点を勘違いしている場合が多々ある。だからセブンスデイアドベンティスト教会は土曜を礼拝の日にさだめている。しかし、イエス・キリストが復活されたのが週の最初の日すなわち日曜であったので、後にキリスト教徒たちはこの日を聖日として礼拝の日にしている。
 ユダヤ教では主の天地創造の休息日であること、また十戒の第三戒が安息日を聖とせよとあるので、この日に会堂シナゴーグに集まって礼拝をする。イエス・キリストも同じようにユダヤ教の戒めを守り、「いつものとおり安息日に会堂に入」ったのであった。しかし、ここからの展開はルカ書の骨格を一通り示す事態へと発展していく。
 即ち、イエス・キリストは洗礼を受け、主として活動するがその始まりは、ガリラヤがあげられているものの、やはりこの会堂でのイザヤ書の託宣であることが強調されている。このイザヤ書の引用にあるように「貧しい人」はルカ書においては他の福音書とはちがい特別な存在として書かれている。これは単に貧富の問題としてだけの「貧しい」ではなく、あらゆる面においても「貧しい」という地点を指している。それは時に罪であり、時に苦しみであり、時に悲しみである。また「捕らわれている人に開放を」というのも単純に監獄にいる人を解放するという意味ではなく、前述のごとくに罪や苦しみや悲しみに、あるいは差別や偏見に「捕らわれている人に開放を」なのだ
 「目の見えない人に視力の回復」と非常に具体的に書かれているが、これもまた単に「視力」だけの問題ではなくあらゆる病や不自由な身体的な、また心身ともにそういう苦しみにある人に「回復」をなのである。
 「圧迫されている人を自由にし」は解釈が分かれる点であろう。実は原点のギリシャ語を読むと「圧迫」という単語は帰されていない。しかし、「圧迫」としか意訳のしようのない言葉でもある、これはラスラスメヌゥースで英訳するとto break piecesとなる。直訳すると「平和が壊されている状態」ということになるが、これは誰にでもがあてはまるものではないだろうか。というのも「自由にし」という言葉であり、しかも「主の恵みの年をつげる」は、これはヨベル書の50年ごとの民のすべての自由を指している言葉であるからだ。主イエス・キリストにあっての「自由」まさしく「キリスト者の自由」がここで主イエス・キリストの顕現によってなしとげられるということである。
 「この聖書の言葉は、今日あなたがたが耳にしたとき、実現した」というイエス・キリストの言葉は大切である。これは信仰の自覚であり、また「安価な」「高価な」恵みが与えられるという約束なのだ。
 ここからが信仰のあり方の方向性のようなものになってくる。というのは、主イエス・キリストの顕現を知った時、このイザヤ書の預言の成就であり、それは紀元0年、イエスという人物と関わった人だけではなく、聖書を通して今日、私たちがそれを読んだ時点で起こっていることなのである。
 この起こるという言葉を使うと不思議な出来事が起こるかのようだが、実はまさしくその通りなのだ。というのも、人々がこの奇跡の実現をそこに体験しているのにそれを認めようとしない事態について記されている人々がここに描かれているからである。この期限0世紀にイエス・キリストの奇跡を知っている人たちがその奇跡をなす方を十字架にて処刑するという顛末についてのことである。ルカ書は主イエス・キリストの恵みとその奇跡とを目の当たりにしながら、その方に反逆し、認めることをしなかった人の悲しさと、そういう者に対する主の慈悲が描き出されている。
 面白いのは「ヨセフの子ではないか」という人々の反発である。「マリアの子」というとそれはいわゆる「私生児」を指すことになるが「ヨセフの子」となると立派にヨセフの息子として認識されていることである。処女降誕を強く主張するルカ書で、その一方でイエスの系図を示してダビデ家の血統をも主張し、ここでもまたそういった認識がしめされている。そうであるのに、人々はイエス・キリストを排除するのである。ここが、このエピソードの山場となる。『カファルナウムで』『したこと』の「した」はゲノメナで「起こした」という言葉である。奇跡が起きるの「起きる」である。その奇跡がこのイエス・キリストのイザヤ書の朗読で起こったのだということがはっきりとしてくる。ところが人々はそれを認めなかった。これもまた、紀元0世紀にイエス・キリストと関わった人だけではなく、現在、聖書を通して私たちに起こっていることを、私たちがそれを認める、信じるのかそうではないのかという分岐点となる。
 紀元0世紀にイエス・キリストと関わった者はわずかな女性たちとアリマタヤのヨセフを除いて、すべての人がイエス・キリストに十字架をかつがせた。その予兆としての今日の聖書箇所がある。「人は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し」「崖」「からつきおとそうとした」のだった。ところがイエス・キリストは「人々の間を通り抜けて立ち去られた」のだった。実はここにも意訳がみられる、ギリシャ語原点を点検してみると、どこにも人々の「間」という言葉は無い。むしろメースゥー「人の真ん中」を通ってというのが直訳になる。
 イエス・キリストが透明人間みたいになって人の真ん中を通っていったのか、それともイエスの威厳に後ずさりして人々の真ん中を割って通っていかれたのかは議論してもはじまらない。ここで大事なのは、どれだけ人が主の意思に逆らって行動し、ひと時はそれが可能でも最終的にはイエス・キリストの勝利で終わるという、復活の主イエス・キリストが主張されているのである。だから私たちは、ひと時の混乱や無秩序に迷わされてはならない。主イエス・キリストの恵みは私たちの生活に起こるのだ。 
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by qpqp1999 | 2010-01-31 13:12 | キリスト教

エアーブラシだむー

ワンフェス
ガレージキット フィギュアの祭典
2月7日幕張メッセ
http://www.m-messe.co.jp/company/index.html
でおこなわれます
私も参加するむー
私のブースは
C-37-02です
団体名はSKS

是非に来てくださいませー

原型作り
かたどり
レジンキャストによる造形
そして色塗りにはいりました
しかしエアーブラシの調子が悪い
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仕方ないので
全部ばらしてピカピカにして
やってみると成功!!!
一年ぶりにバラしたので
もう一回組み立てなおすのに苦労したむー
しかし、エアブラシの構造がわかってよかったむー
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by qpqp1999 | 2010-01-29 15:31 | フィギュア

祭りの前だぜ

日本の二大文化祭といえば
コミケ

ワンエェス
でしょう。
私は漫画家なのに
コミケに行ったことがねい
だが
ワンフェスには行くぜい
ワンフェスとは
「ワンダーフェスティバル」のことで
ガレージキット
わかりやすくいうと
フィギュアの祭典なのです。
今年も私は
週間モーニングのネット漫画で
それはすごいこと描いてた未完の名作
「流星少女」の主人公
宇宙海賊ミロを出品します。
場所は幕張メッセ2月7日朝10時オープン!!
↓は今つくってるとこです
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あと一週間しかねいぞむーがんばるむー
というわけで
皆様是非に私の漫画作品「隆盛少女」のミロを
ゲットしてください
私たちのブースはC-37-02
SKSというブースです
是非にご来場お待ちしております。ついでに
「ストレイキャット」の初版本もついてきますから
希少品ですぜひにぃぃ
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by qpqp1999 | 2010-01-22 16:34 | フィギュア

結婚式

昨日
結婚式の挙式場に
うら若き女子と一緒に下調べに行きました。

前から気になっていた
田舎町にめちゃめちゃ浮いてるゴシックちっくな
挙式場
二人して行くと
ウエディングプランナーが
やってきて喫茶店みたいな
予約室でまずメニューもってくる
カプチーノとか注文する
もちろん無料です、客商売!!いい対応だむ
ウエディングプランナーが
いつ頃に挙式するかとか
何人くらい来るかとか
両家の挨拶はすんでいるのかとかいろいろ
きいてくるので
結婚式の日程とか人数とか
おおざっぱにきめて
やっと挙式場の礼拝堂に
おお、けっこうステンドグラスとかいれてちゃんとやってる
しかし入り口の
聖ヨセフ像と聖マリア像はいただけない
ちゃっちいはりぼてだむー 聖壇あがってみると
ゴシック建築のくせに説教台がど真ん中にある
どうせゴシックでやるなら説教段と聖書台別
にしてほしいものだむ
しかし、いいねえ結婚式の準備ってすげい楽しい
事前模擬でしたけどね(ё∀ё)/へへへ
これが本番だったらどれだけ素晴らしいだろうと感じたねい
近い将来、本番むかえたいものです。
今まで人の結婚式の司式ばっかやって
自分がしたことないからね
帰りしなにうら若き女子が
誕生日のプレゼントしてくれたむー
前からさがしてた
十字のフープビアスだむー!!! めっちゃ嬉しい
さっそく着用してみるが、いい感じでいいねい


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ああ、そうそう この挙式場もニセガイジンが牧師やってる
だって「私どもの専属の牧師でミサとかはしていないんですが」
って・・・ミサ〔聖餐式〕しなきゃ牧師ぢゃねいだろー!!
なので、こちらで手配する牧師でもできますか?ときくと
それはできないという おーい・・・
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by qpqp1999 | 2010-01-17 21:55 | キリスト教
顕現節第三主日礼拝説教 ルカによる福音書2章16-32節
 顕現節にふさわしいルカによる福音書におけるイエス・キリストの宣教開始のエピソードである。しかも他の福音書の平行記事がマルコ書、マタイ書にみられるが両書ともこの故郷であるナザレで受け入れられない物語は開始の部分になっていないので、ルカ書では意図的にこの受け入れられないイエス・キリストのエピソードを洗礼を受けた直後に、みじかくガリラヤでの活動を記したあとに配置していることがわかる。だからこその顕現節の聖書箇所ということになる。
 安息日は土曜である。日曜は安息日ではなく主日という。キリスト教徒でもこの点を勘違いしている場合が多々ある。だからセブンスデイアドベンティスト教会は土曜を礼拝の日にさだめている。しかし、イエス・キリストが復活されたのが週の最初の日すなわち日曜であったので、後にキリスト教徒たちはこの日を聖日として礼拝の日にしている。
 ユダヤ教では主の天地創造の休息日であること、また十戒の第三戒が安息日を聖とせよとあるので、この日に会堂シナゴーグに集まって礼拝をする。イエス・キリストも同じようにユダヤ教の戒めを守り、「いつものとおり安息日に会堂に入」ったのであった。しかし、ここからの展開はルカ書の骨格を一通り示す事態へと発展していく。
 即ち、イエス・キリストは洗礼を受け、主として活動するがその始まりは、ガリラヤがあげられているものの、やはりこの会堂でのイザヤ書の託宣であることが強調されている。このイザヤ書の引用にあるように「貧しい人」はルカ書においては他の福音書とはちがい特別な存在として書かれている。これは単に貧富の問題としてだけの「貧しい」ではなく、あらゆる面においても「貧しい」という地点を指している。それは時に罪であり、時に苦しみであり、時に悲しみである。また「捕らわれている人に開放を」というのも単純に監獄にいる人を解放するという意味ではなく、前述のごとくに罪や苦しみや悲しみに、あるいは差別や偏見に「捕らわれている人に開放を」なのだ
 「目の見えない人に視力の回復」と非常に具体的に書かれているが、これもまた単に「視力」だけの問題ではなくあらゆる病や不自由な身体的な、また心身ともにそういう苦しみにある人に「回復」をなのである。
 「圧迫されている人を自由にし」は解釈が分かれる点であろう。実は原点のギリシャ語を読むと「圧迫」という単語は帰されていない。しかし、「圧迫」としか意訳のしようのない言葉でもある、これはラスラスメヌゥースで英訳するとto break piecesとなる。直訳すると「平和が壊されている状態」ということになるが、これは誰にでもがあてはまるものではないだろうか。というのも「自由にし」という言葉であり、しかも「主の恵みの年をつげる」は、これはヨベル書の50年ごとの民のすべての自由を指している言葉であるからだ。主イエス・キリストにあっての「自由」まさしく「キリスト者の自由」がここで主イエス・キリストの顕現によってなしとげられるということである。
 「この聖書の言葉は、今日あなたがたが耳にしたとき、実現した」というイエス・キリストの言葉は大切である。これは信仰の自覚であり、また「安価な」「高価な」恵みが与えられるという約束なのだ。
 ここからが信仰のあり方の方向性のようなものになってくる。というのは、主イエス・キリストの顕現を知った時、このイザヤ書の預言の成就であり、それは紀元0年、イエスという人物と関わった人だけではなく、聖書を通して今日、私たちがそれを読んだ時点で起こっていることなのである。
 この起こるという言葉を使うと不思議な出来事が起こるかのようだが、実はまさしくその通りなのだ。というのも、人々がこの奇跡の実現をそこに体験しているのにそれを認めようとしない事態について記されている人々がここに描かれているからである。この期限0世紀にイエス・キリストの奇跡を知っている人たちがその奇跡をなす方を十字架にて処刑するという顛末についてのことである。ルカ書は主イエス・キリストの恵みとその奇跡とを目の当たりにしながら、その方に反逆し、認めることをしなかった人の悲しさと、そういう者に対する主の慈悲が描き出されている。
 面白いのは「ヨセフの子ではないか」という人々の反発である。「マリアの子」というとそれはいわゆる「私生児」を指すことになるが「ヨセフの子」となると立派にヨセフの息子として認識されていることである。処女降誕を強く主張するルカ書で、その一方でイエスの系図を示してダビデ家の血統をも主張し、ここでもまたそういった認識がしめされている。そうであるのに、人々はイエス・キリストを排除するのである。ここが、このエピソードの山場となる。『カファルナウムで』『したこと』の「した」はゲノメナで「起こした」という言葉である。奇跡が起きるの「起きる」である。その奇跡がこのイエス・キリストのイザヤ書の朗読で起こったのだということがはっきりとしてくる。ところが人々はそれを認めなかった。これもまた、紀元0世紀にイエス・キリストと関わった人だけではなく、現在、聖書を通して私たちに起こっていることを、私たちがそれを認める、信じるのかそうではないのかという分岐点となる。
 紀元0世紀にイエス・キリストと関わった者はわずかな女性たちとアリマタヤのヨセフを除いて、すべての人がイエス・キリストに十字架をかつがせた。その予兆としての今日の聖書箇所がある。「人は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し」「崖」「からつきおとそうとした」のだった。ところがイエス・キリストは「人々の間を通り抜けて立ち去られた」のだった。実はここにも意訳がみられる、ギリシャ語原点を点検してみると、どこにも人々の「間」という言葉は無い。むしろメースゥー「人の真ん中」を通ってというのが直訳になる。
 イエス・キリストが透明人間みたいになって人の真ん中を通っていったのか、それともイエスの威厳に後ずさりして人々の真ん中を割って通っていかれたのかは議論してもはじまらない。ここで大事なのは、どれだけ人が主の意思に逆らって行動し、ひと時はそれが可能でも最終的にはイエス・キリストの勝利で終わるという、復活の主イエス・キリストが主張されているのである。だから私たちは、ひと時の混乱や無秩序に迷わされてはならない。主イエス・キリストの恵みは私たちの生活に起こるのだ。 
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by qpqp1999 | 2010-01-17 13:20 | キリスト教
かっけー!!!って絶対言っちゃならねい
第二次大戦下のドイツ軍・・・
そんなことをフランスで言ったら
殺されかねません
しかし
このドイツ軍、しかも予備役兵を文句なしにかっけー!!!!
と言える映画を観たむー
トムクルーズがドイツ軍将校で
現在でも英雄として知られるシュタウフェンベルクを演じる
「ワルキューレ」
です。なんでも本国ドイツではトムクルーズに演じてほしくないくらいの
英雄なのだむー
ヒットラーの奴は
第二次大戦の下、9回の暗殺攻撃、それもすごい計算しつくされた攻撃を
受けているのだが、9回とも生き延びた
その9回目の暗殺計画「ワルキューレ」作戦を映画化したものだむー!!!
市民の予備役ドイツ軍対VSナチスのSSとか
どうして、これまで映画化されなかったのか不思議なほど
すごく興味深い一作です。
ハリウッドの人たちとか映像関係の仕事の人で
ナチスから暴行を受けてない国の人って
ひそかに、あるいは日本の軍服コスプレしておおっぴらに逆卍してる人とか
第二次大戦中のドイツ軍って かっけー!!!!
と思っている。え?私は違いますよ?だいっ嫌い、あの阿呆みてえな
カクカクした軍服とかむかつきます正直・・・あいつらのせいで逆卍という
十字架モチーフ使えなくなっちゃったぢゃん!!!!
そんな私が観ても
ドイツ軍かっけー!!って思える一作でした
ナチスの下にあってもそれを打倒し戦争を終わらせようとした
良識あるドイツ軍もあったのだという作品
あんまり面白いので
スマーティー入りながら観つづけちゃって
体重とうとう48キロになってしまったむー。身長167センチよ!?!?!?
ナチ公をやっつけに行って
SSとかバンバン逮捕していく
市民軍団ドイツ予備役兵、
ゲッペルスが自殺を覚悟するまで追い詰めたこの作戦は
やはり賞賛されるべき暗殺計画、つーかもはや 暗殺ではなく 作戦は
やはりこうして映画化されるべきだと思ったむー!!!
しかし、ヒットラーを葬ったのはやはり最終的には
人ではなく神であったということも、この映画を観てつくづく思ったむー
憎まれっ子世に憚るというが神の手からもれるものはないぞむー!!!
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by qpqp1999 | 2010-01-13 00:28 | 映画

棺桶

父が倒して折れた
私が大事にしてた
ヒートホークギター
ESPのギター職人でも
治すことができなかった
なんでも、このギター樹脂でできていて
樹脂同士は接着が不可能だということだ
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今日ESPから送られてきた
さすが天下のESP
元払いですよ、親切だむー

しかし
ぼきっと折れて配線もちぎれたヒートホーク
ギターケースが棺桶に見えるぜよ
父いわくにあんな簡単に折れるもん買うのが悪い
と言う・・・
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by qpqp1999 | 2010-01-07 22:22 | R&B

レイヴ@キリスト教会

もう昨年になってしまったのは
画像が入手できなかったからです
はい 私の新生ルーテル教会のクリスマスでのライヴです
ジングルベルをブルーズテイストで歌い弾きました
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なんか手をあわせてみんなが拝んでるみたいにみえるが
これはノリノリで手拍子してくれてる一こまだむー
しかし悲劇は今朝礼拝の直前におきた
クリスマスで活躍した私のヒートホークギター・・・
父が誤って倒して折れてしまったむー!!!

早速ESPに電話して修理に出すが
治るのか?!?!?微妙だむー!!!
新年早々 え ん ぎ がいいねいむー
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by qpqp1999 | 2010-01-03 22:35 | ブルース
顕現日主日礼拝説教 マタイ福音書2章1-12節
 教会学校のクリスマスのイベントに降誕劇がある。降誕劇はルカによる福音書とマタイによる福音書を合体させて演じられるものである。というのは受胎告知やベツレヘムへの旅や馬小屋での出産を思わせる「飼い葉桶」はルカ書にしか記されていない。降誕劇で人気の東方の三博士は今日の箇所マタイ書にしか記されていない。
 福音書は四つもあるのに、イエスの誕生のエピソードがルカとマタイだけであり、それぞれに全く違う内容になっていることは興味深い点である。マタイ書のこの「占星術の学者たち」はそれまでの1章で記されているヨセフに対する夢の告知の伝承とはまったく違う伝承である。さらにこの箇所は「占星術の学者」のエピソードと「ヘロデ王」のエピソードと本来は別々のものである。というのは「占星術の学者」は「星」によって導かれて来たのだから、わざわざ「ヘロデ王」のもとに行く必要がない。また「ヘロデ王」といえば第二のイスラエル王国、ハスモン王朝のもと、その宰相の子として生まれ、本来なら王にはなれないエドム人であったのに、策略知略を駆使してついに王座を勝ち取とった苦労人であった。また当時の大帝国であったローマ帝国と互角の立場を確保するため当時、帝国でオクタヴィアヌスとアントニウスが対立していた中、最初優勢だったアントニウスと関係を深め、エルサレム神殿にはアントニウス城という要塞を築いたほどである。ところが、ローマ帝国内の紛争はオクタヴィアヌスの勝利になった時にはすでにヘロデはオクタヴィアヌスとこれまた知略、策略を駆使してローマの盟友としてのイスラエルを保った大人物である。聖書では悪者として描かれているからヘロデを賞賛する人は皆無だし、実際ヘロデがその王座を保つため、どれだけ惨い事を行ったかを問うならば、やはり彼の功績よりもその悪行の方が歴史的に目立ってしまうのだった。
 降誕劇で「占星術の学者」が現れるところはよく演じられるけれどもヘロデの物語は無視されることが多いし、それが演じられているのを私は観たことがない。私が小学生の頃、喜んでこの悪役のヘロデ役をかってでて、礼拝堂で悪者ぶりを熱演したのを思い出す。
 史実として策士として有名な「ヘロデ王」が「占星術の学者」に尾行もつけずに「送りだし」ているのはおかしなことなので本来あった「ヘロデ王」の別々の伝承をマタイが組みあわせたとわかる。後述するが更にマタイは別の特殊な資料を用いてもいる。
 マタイは物語の整合性を壊してまでして描きたかったのは「幼子」の誕生に対して「ヘロデ王」はもとより「エルサレムの人々も皆」「不安をいだいた」ということである。「ヘロデ王」だけだったらわかるのだが、どうして「エルサレムの人々」が「同様」なのか、また、どうやって「占星術の学者」と「ヘロデ王」のやりとりが知れ渡ったのかまったくもって不自然である。それだけに、ここにマタイの神学が顕著に表れ、またそう強調したかったのであろうとわかる。
 先ず「占星術の学者」東方といえばペルシャしかないから、この人たちは、二元論的信仰をもち、炎の神アフラマズダーを拝礼するゾロアスター教の祭司ということになる。原典ではマギと書かれ、英語マジックの言語になったものである。そんな得体の知れない不気味な存在が突然現れて、「ユダヤ人の王」の誕生を知らせたのだから「ヘロデ」はそれは「不安を抱いた」のは当然である。
 「ヘロデは不安を抱いた、エルサレムの人々も」とあることは救い主たるイエスキリストの誕生はユダヤからは敵対視され、反対に異教の祭司が自分たちの神を砲っていてイエス・キリストに「ひれ伏す」この対比がマタイのいわんとするところである。しかもこの「不安を抱いた」は原典でエクセラクセイで「動揺する」という意味である。そして「お生まれになった」はゲネーセントスで「生じる」という意味である。つまりイエス・キリストの誕生はイスラエルだけにとどまらず、異邦のはるか彼方まで及ぶ歴史に主が生ける神としてイエス・キリストの誕生を起こしたということが示されている。
 今年も当教会はクリスマス・キャロリングを子供たちの奉仕を得て行った。もう半世紀にわたって行っているが一度も雨がふったことがない。ところが子供たちがみなあつまり、40人が4判に分かれてサープリスを着て蝋燭を持って外にでたら雨が降り出した。伴奏用の私のギターを見るとすでにびっしょり濡れ、雨水がしたたり落ちている。半世紀にわたって雨が降らなかったことの方が不自然だから、これは今年は行けないと中止をついに決断し、お楽しみ会にすることにした。しかし、せっかく子供たちも楽しみにしていたから、集合場所から徒歩30秒くらいのところで賛美しクリスマスの挨拶をした。そして集合場所にもどり人数確認のため並んでいたら雨が完全にあがった。ついさっきまで空を覆っていた雲はなくなり月がまぶしく星々がまたたいている。しかも、今年は寒かったがこの雨のおかげで暖かくなった。雨というつまづきは暖かくなるという恵みに転じたのである。「学者たちはその星をみて喜びにあふれた」というのはこういう心境なのではないかと思った。なにしろ、さっきまで見れなかった星が見えるようになったからである。星はかならず輝くことになることを主イエス・キリストの誕生は示しているのである。
 この「喜び」はエハレーサンで英訳するとリジョイスである。ヘンデルのメサイヤの中のイエス・キリスト降誕を賛美するあの「リジョイス」なのだ。「家にはいってみると」になっているから、ルカ書のようにローマ帝国の人口調査が原因でイエス・キリストはベツレヘムに生まれたのではなく、イエス・キリストはもともとベツレヘムであり、旧約聖書のミカ書の裏づけを得ていることをマタイは強調している。
 「幼子は母マリアと共におられた」とあり1章で主役だったヨセフはいなくなっているから、ここでマタイが「占星術の学者」の伝承をあれこれと操作した形跡が認められる。
そして、またヨセフ伝承にもどって「ヘロデ」の虐殺をのがれてエジプトに、それから尚危機を感じてナザレに移転するという図式が構築されているわけである。果たして史実がどうであったかはしるよしもないが、ナザレ出身として「ナザレ者」と言われた主イエス・キリストの誕生はあくまでベツレヘムであるというのがこの主張である。
 しかし、これは歴史の歪曲ではなく、私たちの生活に生まれる、生じる主イエス・キリストの救いの恵みが架空のものではなく、歴史に生じた、現実のものであるとの主張である。私たちはその主の恵みが生じる人生を歩む奇跡があたえられたのだ。
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by qpqp1999 | 2010-01-03 22:01 | キリスト教