牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

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親交のある芸能プロダクションの主催する
パーティーライヴにまたも
性懲りもなく出演してきましたむ
今回はアイドルアイドルという感じではない
アーティスト系の美形ちゃんとか
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出てましたね
今回はブルーズというよりは
ロックで決めよう
と思ってエレキギターを持っていっていた
んで前回「スウィートホームシカゴよかったっすよお」と
言ってくれたスタッフの人
実はこのプロダクションのレッスンの先生だった・・・
で、やはり目の付け所が違う
私の愛機クラウドギターを見て
「そっ それ スギゾーぢゃないっすか」
と反応してくださった
しかも「あれピックアップ、シングルコイルのダンカンなんてあるんですか」
とかおっしゃるので
「これはシングルコイルサイズのハンバッカーなのです」
とギター談義に華がさく
私の番です、やはりサンプラーを鳴らして
ギターでヴレイクするというパターン
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今回からスティッカムでの放映収録ということで
見てみましたがあまりの音量に
音が割れてガギガギな音になってるしボーカルもごっついノイズになってる
ではごらんください動画です

http://www.stickam.jp/video/179507442

しかしお聴きいただければおわかりになると思いますが
会場は大盛り上がりロッカーとしてはうれしいかぎりですね
少年メリケンサック!!!おお家いいい
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by qpqp1999 | 2009-11-30 16:31
待降節第一主日礼拝説教 ルカ福音書19章28-40節
 ルター派やカトリック、聖公会などでは待降節第一主日にはイエス・キリストのエルサレム入城の箇所がえらばれる。待降節はまさにクリスマスシーズンであり、キリスト教文化圏ではない日本においてすらお祭りムード一色になってしまう。
 私は牧師の家庭に生まれ、育ったからクリスマスというと親が忙しくてヒステリックになっていたり、教会の行事に嫌でも参加しなければならなかったりと、いい思い出は全くといっていいほど無い。しかし最近思うのは、クリスマスがとても苦しい時期であったということを体感し、経験していることは逆に恵まれているということである。
 実際イエス・キリストのエルサレム入城は、いよいよ十字架につけられるまさに受難のはじまりであって、うきうき楽しいものでは全くないのだ。だからキリスト教文化圏での文学作品ではそういう受難のキリストが救い主たるキリストであるということをテーマにして苦しみを受ける人をモチーフにした名作がある。「フランダースの犬」「スクルージ(クリスマスキャロル)」はまさにその筆頭である。「フランダースの犬」は主人公の少年がこれでもかというほどに酷い目に会い最後の望みの絵のコンテストも落選し、絶望の中、たまたまクリスマスだからということで教会堂のルーベンスの十字架からおろされたキリストの絵を、本来なら有料なところ無料で観ることができ、イエス・キリストこそがまさに、この世でただお一人わかってくださる受難の主であることを少年の死と天国入りの物語で描かれる。「スクルージ(クリスマスキャロル)」は金持ちでどケチで血も涙もないスクルージが悲惨さと苦しみの中にある人にこそイエス・キリストの恵みがあると亡霊や精霊の訪問を受けて改悛して貧しい人に財産を分かつという物語である。
 今年も新生ルーテル教会ではクリスマスキャロリングを行う。私が物心ついた時からつづけられている行事だ。しかし、寒空の中、子供たちがサープリスをまとい蝋燭を灯し歌って廻る様はまさに奉仕の筆頭というにふさわしく毎年思う。尤も、出かける前に暖かいスープやホットドッグやピッツァ等食べたり、終わってからも肉まんあんまんや暖かい飲み物をもらいお楽しみ会をしてプレゼントをもらって帰るから、そんなに言うほど楽しくない行事ではないのだが、やはり見知らぬ家の人のために寒空を歩いて「きよしこのよる」を歌っている子供たちを前にギター伴奏をしていると(もともと「きよしこのよる」は教会のパイプオルガンが壊れ、クリスマスに間に合わなくなった危機に瀕した司祭がクリスマスの曲をギター伴奏でするために作られた曲だとはあまり知られていない)この子供たちにこそ真のクリスマスの祝福があることを真剣に祈るものであるし、また真の祝福が伴うであろうことを思うのだ。
 さてルカ福音書のエルサレム入城はおおむねマルコ福音書を伝承として用いて書かれており重複しているが39-40節はルカ特有の特殊伝承に由来していることはポイントである。「ベタニア」はエルサレムから約3キロメートルのところにある。「ベトファゲ」はその中間地点である。ということは、もうまもなくエルサレムに到達する地点に達したことが記されているわけである。受難に向かうイエス・キリストの思いはいかなるものであっただろうか。日本でもえらく普及しているクリスマスリースだが、これはイエス・キリストの茨の冠を模したものであることを知っている人がどれだけいるだろうか。日本でも通な人はポインセチアを飾ったりするが、この赤色が十字架で流された血をあらわしていることをどれだけ知っているだろうか。「まだだれものったことのない子ろば」は特別な祭儀用の犠牲、贖罪のための動物である。イエス・キリストは軍馬ではなく、この犠牲の備え物としてエルサレムに入城する様がここにあらわになっていることは言うまでもないだろう。しかし、イエス・キリストに従ってきた弟子たちはその意味も理解していなければ、それからの展開もまったく期待とはちがうものであることを知らなかった。
子ろばにのったイエス・キリストが「進んでいかれると」はギリシャ語ではペレウメゥーであり「はじめる」「着手する」「生じる」という意味がある。ついに受難の十字架へのカウントダウンが始まったのだ。待降節はまさに人類史に大きな変革をもたらしたイエス・キリストの十字架と復活を基本的にふまえ、そのはじまりとしてのイエス・キリストの誕生を祝うものであるのだ。事実、イエス・キリストの十字架と復活はその後の世界史を動かすまでになっていることは歴史が証明しているとおりである。そして、その事が起きることを私たちはこの待降節に待つのである。
それは主の計画した人類救済の大奇跡である。弟子たちはそれまでの「自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに賛美し」た。その顛末が十字架という受難に通じていることを知らずに。しかし、それはそれで正しいことなのだ。この「奇跡」はデュマエウンで「力」「強さ」を意味する。主のご計画はまさにこの真なる力なのである。それが悲壮な十字架を目指すものであってもそれはこの「力」「強さ」の延長線上にあるものなのだ。十字架と復活による主の大いなる恵みを私たちはこのクリスマスにやはり賛美するのである。クリスマスキャロリングできよしこのよるを歌ってくれる子供たちはきっとそのいみするところを理解していないだろう。しかし、そこにある賛美は真の賛美である。だから弟子たちの無理解ながらも賛美するあり方は決して間違いではない、たとえ、後に全員がイエスのもとから逃げ去ってしまったとしてもである。
 史実ではこのエルサレム入場はどういった様相だったのかは現在ではあれこれと想像し説を打ち立てるほかにないが、ルカ福音書においてはイエス・キリストの入城を賛美しているのは弟子たちでありエルサレム側ではないところは注意しておきたい。ルカ福音書においてはエルサレムはイエス・キリストに相対する存在として描かれ、起源70年のエルサレム陥落を前提にし、またそれがイエス・キリストに対抗した末の顛末という理解がある。イエス・キリストに敵対した者はある時点では勝っていても最終的には滅びるというルカ書独特のシビアな理解がある。実はこの部分は意外に述べられることがない。
 待降節、主イエス・キリストの降誕を待つ喜びの季節、平和の世にあり豊かな世にあってはクリスマスツリーを飾り、プレゼントの交換をする。そういった喜びの表現はキリスト教をまったく理解していない人であっても正しいのだ、まさにエルサレム入城で弟子たちが賛美したように。彼らがだまれば「石が叫びだす」のである。
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by qpqp1999 | 2009-11-30 16:14 | キリスト教
このところ
毎日のように
小学校に行っては
クリスマスのイベントのビラをまく
もちろん非営利、むしろ持ち出しなもので
清らかなものですらある

先日はなかなか子供たちが学校から出てこないので
学校の敷地に入ったら不法侵入になるので
路側帯の内側で
立ってるのしんどかったので
座り込んで任天堂のチェスをして待つ
っていたら
婦警と男性警察官二人がやってきた!!!!
婦警「あのう何をしておられるんですか?」
私「こういう子供たちのクリスマスのイベントのビラをまくべく待機しています」
比較的やわらかな職務質問だったので名前と住所を教えました
だが
しかし、何も悪いことしてないのに名前と住所を言ったのだから
こちらもこちらで警察官さまに名乗っていただきます
「あなたのお名前、所轄の警察署、警察手帳の確認をお願いします、あと写真を撮らせていただきます」
と携帯を出したとたんに婦警は
女の子みたいに、実際女の子だが
「キャーやめてぇぇぇ」って・・・・
警察官が職務質問する際には警察手帳を見せること官姓名を名のることが義務なのですそして
写真およびビデオにての撮影する権利が私たちにはあるのです。

でシャメりだしたら
警察官は手をかざしてくる
これは
違法です警察官には肖像権はありません
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撮影はこんな感じで拒否されたが
所轄の交番と名前は確認しました
ここまではよかった
警察官さまたちはその職務を終えて帰っていった・・・
と思ったら
パトカー3車両くらいやってきた!!!!
いきなり十人くらいの防派チョッキ装備の警察官に囲まれる
ここまできたらカチンときますよね子供たちの夢のためのビラまきに
なんでこんな執拗になるんですかってなるのは一市民として必然です
しかもいちばん年嵩の警察官が
私の名前とか住所とかすごい強面で追及してきます
さっき言ったぢゃん!!!つーかさっきメモった婦警さんもそこにいるぢゃん!!!
私は潔白であることを鮮明にするべく
携帯カメラビデオモードにして現場を撮影開始!!!
私「まず警察手帳を見せてください、そして官姓名を示し所轄の警察署をおっしゃってください」
警察官「ほんならわしが見せるであんたも見せてくれるんか?」
私「見せろと言われても私は免許証持っています線。それより、まずは警察手帳を見せてください」
警察官「そんなん、なんでみせなあかんのや その携帯とめてくれや」
私「警察官にはその義務がありまた、また肖像権もありません!!!」
とかもめにもめてたら
温厚そうな警察官が
「あの学校の中でまいてもいいって今 校長先生から許可をえましたので
道はあぶないですから学校のなかでまいてください」
で一件落着させられてしまった
でも実際学校にはいったら警察官ともめてた間に子供たち帰っちゃって
ビラまけなかった聖なる職務を邪魔して
すげい気分悪かったですね
パトカー3台すごすごと帰っていった・・・
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by qpqp1999 | 2009-11-27 16:46 | 警察

メラニー方

先日のブログでも書きましたが
教会の子供用イベントのビラを下校時にまく
先日、発覚したどうして
「男なの?女なの?」の
最たる原因は声だった
あ、そういえば
単なる長髪のおっさんであっても
ちょっと女性的な人だと一瞬
「あ、男だったか」とか思ったりする
髪の毛の長さと格好と素の印象がポイントなのだ
事実、あれから4校にまいたのだが
メラニー方全開で挑んだら誰一人として
「男?女?」と聴いてくる子はいなかった
イヤ単なる長髪のおっさんと思われていただけかもしれないが
今までの経験ではほとんど必ず聞かれていたからまずそうだろう
だが、声を発したとたんに性差が出てくる
パッシング〔あまりいい言い方ではない〕しようとする
GIDやTVの人の参考までに
メラニー方のコツを私なりに書いてみます。
男性の声と女性の声は高さではなく質が違います。
男性の声帯と喉は女性のより長いのです
ホルンが太い音が出てトランペットが軽やかな音が出るのと同じ原理
メラニー方とは生物学的に男性が
喉の長さを調節することで女性的な声を発声させる方法です
んで練習のコツですが
絵本でも何でもいいから声にだしてまず
普通に読みます
当然男の声です
読みながらイメージとして喉の下の方(上ではないところがポイント)
をしぼりこむようにします
喉の長さをちぢめることをイメージします
これを元にもどしたり、またしぼったりを繰り返しつつ
何かを声に出して読み発声練習をします
私は大酒のみなので声がガラガラになってしまって
以前ほど上手にはでませんが
一時期、クラブで女性としてホステスさせられてた時
他のホステスが途中でばらしちゃったりしたときに
客がおどろくのは
わたしの乳房ではなく
「その声はどうやって変えたん?」
というものでした。
こいつニューハーフちゃうかと思っていた客も声聞いて
「ああ女か」と思ったそうです
トランスをめざす皆様、女声の発声練習やるとやらないではかなりちがいます
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by qpqp1999 | 2009-11-26 18:44 | キリスト教

男なの女なの?な季節

今年も意あな季節がやってきた
クリスマスシーズン
教会に生まれ育った私にとっては
クリスマスは嫌で苦しい思い出の方が多い
尤もキリストの聖降誕に関しては喜びのなにものでもないが
何が嫌って
クリスマスの子供の行事で
かならず子供が聞いてくる
「男なの女なの?」
そらまあ そう聞かれても仕方ない
そう聞かれる原因の第一要素が今日判明した
まずクリスマスシーズンの最初はイベントのビラまきにはじまる
下校する子供たちに子供のキャロリングやクリスマスケーキ作りだ

今日まいてきたら
やっぱり聞かれた
「男なの?女なの?」
今年はもうええわ という感じで普通に
「男やけど?」
と答えたら
子供たちはたいそう驚いて
「そうなの?女にしか見えないよ?」
「でも声は男やし」と!!!
そうか、女に見えるのか声が問題なのか!!と
ちなみに今日の学校をバックにの私です
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ならば
メラニー方で女声にするかと
やってみたら
200人くらいの子供と接したが
誰一人として
「男なの?女なの?」と聞いてくる子はいなかった!!
おお家いぃぃ
しかし、実際のイベントでは
メラニー方つかえないしなあ大人の手前・・・
あといいかげん改名しないと
私って以外に子供うけするキャラらしくて
すぐ仲良くなるんだけど
女だと思い込んでる子どもが
「なんていう名前なの?」
と聞かれた時がイタイ うそはつけないしね
むー
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by qpqp1999 | 2009-11-20 16:45 | キリスト教
 聖霊降臨後第24主日礼拝説教 マルコ福音書12章41~44節
 賽銭箱に全財産のレプトン銅貨二枚をささげる敬虔な女性のエピソード。よくレビ記27章30節やマラキ書3章10節をもとに10分の1献金を推奨されるが。実際に全財産の10分の1を献金するのは相当なことである。それでも私は10分の1、またはそれ以上に献金している人を知っているし、また私自身もそうしいている。しかしながら、そうはしていない人をも私はたくさん知っている。また聖職者の中でもこの10分の1献金を過去の決まりごととして、現代の私たちの生活の座にもちこまないように解釈している人もいる。
 では今日の箇所はそういった献金をしましょうという箇所かというと、解釈次第でそうとも言うことができるが強調されているのはそれとは別の部分である。まず、注意すべきは、この箇所が曲解される一番の例は献金の金額はすくなてもいいですという類の解釈だ。確かにこの女性はレプトン銅貨という最小単位の金額を二枚しか献金していないから、献金は信仰であって金額ではないというような語り口調になってしまっている解釈者がいるが、それは完全にまちがいである。というのも、なにしろ、この女性は全財産を献金したのだから。
 では全財産を献金しろというのかという事になるのかというと、果たしてそうであり、それ以上であるといっていいだろう。
 賽銭箱はギリシャ語でガゾキュラフィオンで本来は金庫の意である。しかし、これは献金用の容器であるから賽銭箱と訳すしかないだろう。神殿では女性の入れる場所は「婦人の庭」までなので、この賽銭箱は神殿境内の「婦人の庭」の壁を背にして配置されていたであろう13個のラッパ型の容器であると考えられる。そこでイエス・キリストは「向かいに座って、群集がそれに金を入れる様子を見ておられた」のだった。
 実はこの箇所はマルコ書において律法学者やファリサイ派、サドカイ派の者たちとの論争の終結した後にとどめをさすようにイエスが律した箇所である。それだから、10分の1献金は重要だが、この箇所はそれ以上の意味を持っている。今日の旧約の箇所は預言者エリヤが王が王妃イゼベルに影響されて偶像礼拝をしだしたことを非難したために、命をねらわれ、逃亡生活をすることになった。「シドンに属するザレパテ」に逃げよとの主の託宣を受けたエリヤは飢饉がつづいているその地方に行き、最後の小麦粉でパンを食べて死のうと思いつめていた「やもめ」に養ってもらった話である。
 こんな、あつかましい話は無いものだといえよう、もう最後の一握りの食物を食べて死ぬ決意をしている人のところに行って、その最後の小麦粉を食べさせろと言い出すのだから。ところがこの「やもめ」はこのエリヤのために最後の小麦粉を差し出すのだった、すると不思議なことに小麦粉がなくならなくなる。また間の悪いことに息子が突然死してしまう。婦人からしてみれば文句のひとつも出てくるしエリヤも面目丸つぶれになるところが、息子をまた生き返らせられるという主における恵みの体験をする、そういう物語である。ここに、あるのは私たちの生活を主にあっておくっているか。主にすべてをささげて生きているかという、献金というだけの問題ではなく、私たちの生き方、あり方の問題であることがよくわかる。
 今日の箇所で「一人の貧しいやもめ」がレプトン銅貨2枚を献金するのだが、イエス・キリストは「弟子たちを呼び寄せて言われた」「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中でだれよりもたくさんいれた」と言う。「皆はありあまる中から入れたが、この人は乏しい中から自分の持っているものすべて、生活費を全部入れたからである」と教える。この婦人が「貧しいやもめ」であることやレプトン銅貨二枚が最後のものであることをイエス・キリストがどうして知ったかについてはあれこれ考える必要はない。尤も、イエス・キリストは主であるからご存知であって当然だが、ここの箇所ではその奇跡性はあまり関係ない。
 ギリシャ語の原典を私訳していてわかったのだが、「この人は乏しい中から」と訳されている「乏しい」はウステーレーセウスで「必要な」という意味である。だからこの女性は生活に絶対必要なものを主にささげたのだ。「生活費を全部いれた」はウーサ エイヘン
エバレン オロン トーン ビオンでありこの「生活費」と訳されているビオンは「生活」という意味である。私訳すると「全生活を投げ入れた」という感じだろうか。
 この婦人がしている事は自分自身をすべてささげているということである。マルコ書記者はこの「やもめの献金」のエピソードを「律法学者を非難する」の直後に配置している。これは明らかに悪い例と良い例をならべて書かれていることは簡単にわかると思う。
 「生活費を全部」主にささげてしまったら、この「貧しいやもめ」はどうして生きていくのだろうか。しかも「乏しい中から」の「乏しい」は「必要な」だから生きていくのに必要なものを彼女はささげてしまったのである。これでは、この後どうしようもないではないか。しかし、ここにはマルコ書記者の意図がある。マルコ書におけるイエス・キリストからの人々への教えはここで一段落し、これからいよいよ十字架の受難にむかっていく構成になっている。そこからわかることは、この「貧しいやもめ」はまさに命を人類のために差し出す主イエス・キリストにならう私たちのあるべき姿なのだ。
 私たちは生きていくために生きている。それは当然のことであるが、もし私たちの生活の中に主イエス・キリストが入ってこられたら、私たちは私たち自身を主イエス・キリストにささげて生きていくように変化するのである。そこにあるのは十字架についてまでして私たちを愛してくださった主イエス・キリストの愛というあり方であり、私たちの生活の中に主イエス・キリストにささげることがあるとするならばそれはやはり愛なのである。
 なかなか「必要な」ものをささげることは難しい。不可能に近いかもしれない、なにしろ「必要」なのだから。しかし、その「必要な」ものをあえて「乏しい」ものとして主イエス・キリストにささげるという生き方は決して不可能なことではない。それどころか、主イエス・キリストにあってはほとんど当然のようにあるべき状態ですらある。そして「生活」を主イエス・キリストに捧げることもまた、主イエス・キリストの愛に接しているからこそできるものであり、それは自然と隣人愛へと変化していくし、私たちの生活のあり方そのものが全てを主にささげるものとなるのである。
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by qpqp1999 | 2009-11-15 21:34 | キリスト教

ニセガイジン ブルーズ

ニセガイジン ブルーズ

  作詞・作曲 松本太郎

最近 巷に 流行るもの
結婚式場の 
ニセガイジン


ホントは貧乏な英会話の講師のくせして
ホンとだったら教会の礼拝行ってる時間に
結婚式場で牧師になりすますニセガイジン

昔は白人多かったが
最近は色のついたのも
ガイジン
というだけで
牧師になりすます
へんな訛りの日本語でわけのわからん装束で
結婚式場でブイブイ言わせる
しかも一回5千円
なんてこった5千円
もっとプライドもって詐欺しろよ
ニセガイジン

最近 巷に 流行るもの
結婚式場の
ニセガイジン

ガイジンなのは本当だが
これはある意味
害人だオオイエイ
ニセガイジン

ニセガイジン

ニセガイジン
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by qpqp1999 | 2009-11-13 18:45 | キリスト教

ハッピーバースデイ

神学生の頃は、いくつもかけもちでバンドをしてたむー。
その中で、演奏能力はそこそこなんだけど
名前がすごいバンドがあった
「ハッピーバースデイ」だ
寒っ!!!!

ということで
今年も宗教改革者マルティン・ルターの誕生日
すなわち私の誕生日11月10日だった
画像は変な顔してるけど
ケーキのろうそくを吹き消している瞬間だむー
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もっているのはフルアコの二号機だ、一号機にはアコギとエレキの中間の弦をはっているので
大きな音をだそうと思うとこれになるのだったむー
ああ 今年も24歳を更新したなあ
ケーキが面白い
悪魔の槍、ギリシャ神話の神の槍がついてるむー
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by qpqp1999 | 2009-11-11 10:43 | 美容

ダイエット戦争う

今年に入ってからというもの
かの安野モヨコ先生もおつかいになっている
スマーティーというそのまんまな名前の家庭用サウナに入りまくって
痩せましたね ええ
去年のいまごろは
67キロもあった身長は167センチだからデブではないが
スタイルがよくない
2月には60キロを切り
3月には54キロまで落とした
4月には53キロに突入したものの夏は暑くて
スマーティー入れず
ついドカ喰いしてしまい
8月には56キロにもどってしまった
ところが
最近は寒くなってきたのでスマーティー効果がまた出てきた
50キロをきりました!!!
18キロ痩せたのだむー
今後はぜったいにドカ喰いをしないようにして
マックス55にするのだむー
つーのは50キロ切ったら
乳房までやせてしまtったからなのだむー
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by qpqp1999 | 2009-11-07 16:31 | 美容
全聖徒の日 礼拝説教 ヨハネ福音書15章1-15節
 聖書の中でイエス・キリストの伝記的な書簡は四つあり、福音書と呼ばれる。その中のマルコ、マタイ、ルカはマルコを資料に用いていること、また同じ系列の伝承を用いていることから共観福音書と呼ばれる。ヨハネ福音書は四つの福音書の中でもっとも新しく、おそらく起源1世紀くらいに書かれたとされている。しかし、共観福音書とはまるでちがう資料、伝承から書かれており、またその神学理解も特殊なことから第四福音書として特別な主日に読まれるようになっている。今日は、すでに主に召された家族を記念する礼拝であるため、ヨハネ福音書が選ばれている。
 福音書はどれもこれも、釈義の難しいものばかりで、その物語ごとにあれこれと考えなければその示すところに達するのは難しい。中でもヨハネ福音書は異色で、どう解釈すればよいのかわからないようなまるで哲学書のような福音書である。
 ヨハネ福音書の傑出して他の福音書とちがう構成としてエルサレム入場があげられるだろう。共観福音書ではエルサレム入場は物語のクライマックスである。ヨハネ書でも同様なのだが最初のエルサレム入場は神殿にはびこるユダヤ教をおびやかす事態について果敢に挑むイエス・キリストが描かれ、そして二度目のエルサレム入場が十字架につくための、栄光の入場として描かれている。
 今日の箇所の15章は弟子たちとの別れの説教である。他の福音書にはとうぜん並行記事の余地などないヨハネ神学が繰り広げられ、読む者を圧倒する。もう、ぶっちゃけて言ってしまうなら、この文章の迫力だけを感じるだけでも意義のある書物ではないかとすら思ってしまう。そして、実際に読んでみると、なんとも哲学的な、難しそうなことがあれこれと書かれている。
 新共同訳では「イエスはまことのぶどうの木」としてタイトルがつけられている。このイエス・キリストの別れの説教をよくまとめたタイトルといえる。ぶどうはイスラエル民族を象徴するものであるが、この箇所ではあまりそのことは関係がない。むしろ父なる神とイエス・キリストの一体性と、その恵みにおける私たちのあり方について重点がおかれた構成になっている。
 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」とぶどうの木をモチーフとした救済論がいきなり展開してくる。ここで、よく勘違いされるのは、この箇所が断罪的で滅びをほのめかして脅し口調になっているかのような読み方をされてしまうことである。たしかに「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな父が取り除かれる」「外に投げ入れられて焼かれてしまう」等の言葉があるからなのだが、で「実を結ぶ」とは何なのかについて考察していかなければならない。後半に出てくるのだが、それはあくまでも「わたしの愛にとどまりなさい」という、これまた、それは具体的にどういうことなのかが不可解な言葉に終結していく。このイエス・キリストの説教は大きな流れを意識して読んでいくと、不思議と魂にしみこんでくる、そういう説教となっている。具体的に、どうだとか、こうだとかいうのではなく、イエス・キリストの愛というテーマをもってこのぶどうの話にわけいってみたい。
 ここで新共同訳の意訳についてまず考えるなら2節の「わたしにつながっていながら」という部分は実は原文のギリシャ語には無い。これはギリシャ語の専門家が訳したものだから私ごときが口はさむ余地はないものの、後になってこの「つながる」という言葉は何度も何度も繰り返し出てくるキーワードであるだけに見逃せない訳なのである。ここで「つながっていながら、実を結ばない」と冒頭に出てくるので混乱してしまうのだ。ここでは「つながっていながら」はギリシャ語のエンという単語で前置詞で英語でwithだからあとの流れをくみとってこのように訳されたし、間違いでもないが、これでは後の文章と矛盾が生じてしまうのだ。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」という一番の恵みの聖句が台無しになってしまう。ここからさきこの「つながる」という単語ギリシャ語でメーネーは、何度も何度も繰り返し出てくる重要なつなぎ文句になっているのである。「あなたがたも私につながっていなければ、実を結ぶことはできない」と、ここで「実を結ぶこと」はイエス・キリストに「つながっている」状態を示していることが明確に論じられている。やはりギリシャ語はメヌーテンである。「木につながっていなければ自分では実をむすぶことはできない」とまた「つながって」メヌーテと出てくる。そして「つながっていればその人は豊かに実を結ぶ」とつづきやはりメヌーンである。さいごに「わたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にあるならば、望むものを何でも願いなさい」「かなえられる」とまである。やはりメヌーンだ。「かなえられる」も何やらお願い事が叶うような感じに読まれてしまうがこれはゲネーセで「起こる」という言葉である。そして「わたしの弟子となるなら」の「なる」は同じ単語ゲネーセタイそれは必然としてそうなっていることを意味している。このことを知る時、この文章の奥行きがわかる。なるほど、たしかにぶどうの木は木というよりは弦であり互いが互いにからまりあっており、そこから果実が実るのを私は見たことがある。なにか一生懸命やらなれれば駄目だというのではないイエス・キリストが「つながって」いて下さるこの恵みのうちにすごすことが求められているのだ。「わたしの愛にとどまっているなら」もやはりメヌーなのだ。つまりメヌーという神秘に満ちた主イエス・キリストの愛は私たちがそのぶどうの枝のようにつながっているという状態を教えて下さっているのであり、訓等の類ではない恵みなのだ。「わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも愛し合いなさい」という「掟」に到達するキリストを枝としそこにつながる私たちはまたそれぞれにイエス・キリストの愛の「掟」によって、すでに主に召され天国にいる聖徒たちもまた愛のぶどうの木として今現在もつながっていることを、この全聖徒の日に教えられるのである。
「これらのことを話したのは私の喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」喜びはハラーで英語で言うならゴスペルでおなじみのJOYである。主イエス・キリストの恵みと栄光によって約束された愛とは、その愛につながり、そこに゛喜び」が満たされることである。この「掟」「愛」のうちにあるならば私たちは主イエス・キリストから「友」と呼ばれ、すべての人が聖徒も含めて喜びに与るのだ。
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by qpqp1999 | 2009-11-02 18:35 | キリスト教