牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

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HP完成

この二週間ほど引きこもっていたのには
理由があります
それはわたしの教会
新生ルーテル教会のHPを作ること
ゴスペルの音源upしたり自分のHPとリンクさせたり
YOUチューブに連結したり
なかなか大変でした
是非にごらんください
http://uno1110.webdeki-hp.com
です
by qpqp1999 | 2009-10-29 19:06 | ネイルアート

HOUSE NATION

ダ゜ンスミュージックカンパニーavexとダンスミュージック基地ZIP・FM
のコラボイベントのお知らせです
ゲストは鈴木あみさん!!
ZIP-FM とHOUSENAITONの
イベントです
場所は名古屋市中区栄2-1-9雲竜FLEXビル西館5f
10月31日21時開始です
チケットはadv3500円
DOOR4000円です。
是非におこしくださりませ。
by qpqp1999 | 2009-10-28 18:52 | 音楽
聖霊降臨後代20主日礼拝説教 マルコ福音書10章17-31節
 善良で十戒をしっかり守っている信仰熱心な男が金持ちであり、それを手放さなかったというだけで簡単に言うところの天国に入れないという、誰もがしり込みしてしまう箇所である。イエスを「善い先生」と呼び、「ひざまずいて」「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか」と問う姿勢は、模範的な信仰者の態度である。そしてこの男は実際悪人ではなく良き信仰者でもあったことは特筆すべき点であろうイエスの答えの最初は十戒の1戒から3戒を意味していよう「神お一人のほかに善い者はいない」である。そしてつづけて、順番は変わってしまっているが、十戒の4戒から10戒までが示される「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」である。こうやって見てみると意外に十戒は守るのはそんなに難しくないような気がしてしまう。神を主として崇めることは当然するし、殺すこともまずないだろうし、姦淫する人もそんなに多くないだろう、盗みや偽証、奪い取るに至っては日本の刑事罰に相当するものであるし、父母を敬うのは常識ではなかろうか。そうやってみると、よほどの悪者とか確信犯でなければ、この男のように「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と堂々と言うことはそんなに不自然ではない。そういう善良な人はそこかしこにいるものだと、思ってしまうし、実際そういう善良な人々は少なからずいるはずだ。だから日本ではキリスト教に対するニーズ、需要が無く、罪の意識もなければ、救われるとの意識も出てはこないわけだ。よほどの悪人とか、卓越した善良なあり方を求める人でないと罪という意識は、なかなかわいてこないのはそんなに不思議ではない。尤も、聖書によればよこしまな心で人を思うだけで即姦淫とか殺人とかに結びつくという教えがあるから、そのように説明されれば、まあ確かに罪人かなという感じになるのかもしれない。私も牧師になって20年が経つけれども、教会の中にそんなに罪深い人がいたなという思い出はわずかしかない。完全に無いわけではない、むしろ牧師の中とか教会の役員の中枢にいる人の中にそういう人がわずかにいた気がするが、私の感触では全体から見れば、ほぼ全員が善良なる信仰者であったと思う。ところが、今日の聖書箇所ではそれが根本から覆されてしまう。「あなたに欠けているものが1つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい、そうすれば、天に富を積むことになる。それから私に従いなさい」である。
 この箇所ほど曲解されて信徒のご機嫌取りみたいな説教がそこかしこに現れることはない。確かに、財産を全部売り払って、貧しい人に施してイエス・キリストについていくというのは現実問題として不可能である。これを今日の生活の座に持ち込むのは確かに不可能だ。だが、この不可能なことを不可能なこととしてそのまま読み込む姿勢を崩すことは避けねばならないであろう。それを避けてしまう傾向がキリスト教会の意識の中のそこかしこに出てくるのを私はしょっちゅう見たし、体験してきている。そういう問題からすると信徒のごくわずかな人がこの難しい事を恵みとして行い、信仰の証をたてているが、ほとんどの信徒はそうではないというのが実態であるのは、現実に教会に集まっている人たちを見ればよくわかることである。「男」は「悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」「イエスは」「言われた」「財産のある者が神の国に入るのはなんと難しいことか」「金持ちが神の国に入るよりもらくだが針の穴を通る方がまだ易しい」である。私の父親は近畿福音松阪ルーテル教会で主管牧師をしていた時に、説教で「三原則」という言い方で「出席」「献金」「奉仕」を毎週のように主張していた。実際にはルター派の三原則は「聖書のみ」「恵みのみ」「信仰のみ」である。こんなことを主張したのでは、それは生ぬるい自己満足の信仰しかもたぬ信徒から強烈に反発されて、ついには決別するに至ったのだった。しかし、今日の聖書箇所に限っては、その「三原則」はそれほど外れてはいないであろう。出来るか出来ないかは別として信仰の姿勢としてそれは直にこの聖書箇所を受け止める必要がある。実のところ、使徒言行録を見れば、初代キリスト教会では、それぞれが全財産を差し出し、共同体として生活していた形跡が認められるから、このマルコ書の教えは、それはそれで本気なのであろう。では現在の私たちはどうすればよいのか。もはや、そのような共同体の形成は社会的にも不自然であるし現代にそぐうものではない。ここでキーワードたる23節「財産」を原典であたるとクレメータで「使うのに必要なもの」という意味があり25節の「金持ち」はプルーシオンで「富を持つ者」である。これに対して「神の国」の「国」はバセレイアンで「支配・権力」である。
ここに対立構造をマルコは設けて言葉を配置しているのがわかる。人の「富」主の「支配」は相対する関係として表現されているのだ。主の「支配」すなわち、救いの恵みに与ることは、この世の「富」への執着と決別することになるわけである。確かに、戦争が一番いい例なのだがまさに「富」をめぐって起こされ、多くの犠牲者が出るではないか。また家族の絆すらも財産分与の段になるといきなり抗争へ発展するやはりそこには「富」の支配がある。そのような意味でこの世の「富」は神の「支配」と対立するものなのである。そのことをマルコは主張しているのだ。
弟子の「だれが救われるの」かという言葉に対するイエス・キリストの言葉が今日の箇所をしっかりと意味付ける。「人間にできることではないが、神にはできる」である。これもまた原典では「できることではない」はアドゥナトゥン「弱い」であり「できる」はドゥナータで「強い」なのだ。つまり相互に均衡を保つごとく言葉が配置されている。確かに私たちは弱く、世の「富」の前には、あまりにも無力である。しかし、主はそれに対して「強い」存在なのだ。それ故、私たちは主イエス・キリストを救い主と信じるところから出発する時に、世の「富」の力に打ち勝つことができ、「永遠の命」に至るのである。
しかも「捨て」るのはイエス・キリストについていくからというだけではなく「福音のために」と明記されている。福音とはまさにここでは目的格エウヴンゲリオウ「良き知らせ」のためにである。つまり、救いがここでは先行していることが示されているのである。
30節は原典では「百倍」エカトンプラシオナという言葉が先に配置され主張されるところから始まり、その恵みの実りがこの世の「富」の100倍になると実質で強調される。31節はさまざまな註解書でも処理に困惑している不思議なしめくくりであるが、続く受難予告をつなげればその性格がわかる。弱く苦しむ私たちこそ主にあって強く高くされるのだ。
by qpqp1999 | 2009-10-27 18:59 | キリスト教
聖霊降臨後第18主日礼拝説教 マルコ福音書9章38-50節
 この箇所は二つの事柄に関して述べられている。新共同訳聖書のみだしの通り、「逆らわない者は味方」「罪への誘惑」である。はじめの部分として、今日における問題はキリスト教を名乗る異端の問題である。今はキリスト教が弾圧されることのない時代なので福音書が記された時代と状況が相当に異なっており、それだけに統一教会やモルモン教末日せいとキリストきょうかい、ものみのとう等、のキリスト教がまさに火で味付けされてきた中で確立された信仰をまさに「つまづかせる」悪魔的な宗教に関してはおおよそ「味方」と呼ぶことはできず、むしろ、それらの宗教が行っている極端な宗教勧誘や押し売り、また財産の奪取、輸血を認めない等の人権侵害を考えれば、それらはまさに「わたしを信じる」「小さな者」「をつまずかせる者」として認識するべきであろう。
 そして、それとは反対に日本においてマイノリティーであるキリスト教の信徒にとっては「キリストの弟子だという理由で」「一杯の水をのませてくれる者は必ずその報いをうける」という不思議な祝福の言葉は意義深いものとなってくるであろう。
 新共同訳のみだし「罪への誘惑」はよく要点をまとめたものと考える。というのも、以外にこの箇所は誤解されることが多いからだ。「わたしを信じる」「小さな者」「をつまずかせる者は」「石臼を首にかけられて、海になげこまれ」る「方が」「よい」。という部分の解釈である。キーワードは「つまずき」である。この言葉ほどキリスト教が保守勢力となってから悪用されてきた言葉はない。ひどい例をあげるならば礼拝に精神病疾患の症状を発症させている人がいると「つまずく」人がいるから、精神病疾患の人を礼拝から排除すべきだというようなたぐいのものである。すさがに現代ではそこまでおろかなことを言う人は少ないかと思うが、実際のところ、そう思っている人が全くいないわけではないことは実は深刻なことであろう。
 歴史の最大の汚点の一つといえる1930年代から40年代にかけてのドイツのナチスのあり方はそういうキリスト教保守勢力の見本みたいなものである。まさか、現代のキリスト教がナチスを認めるはずはないはずだが、ナチスの旗は紛れもない十字架であることを忘れてはならない。カギ十字は中世から十字架のひとつのデザインであった。また第二次大戦中のナチスの戦闘機や戦車にはカギ十字ではなく、完全なる十字のマーク、キリスト教のシンボルがペイントされていたことを思うとぞっとするものである。そしてユダヤ人より先に虐殺されていったのは精神病疾患の人々だったことは意外に知られていない、またセクシュアルマイノリティー、同性愛、性同一性障害、女装癖のある者もユダヤ人と同様に星のマークをつけられ、強制収容所で虐殺されていたことも意外に知られていない。そして、こういった差別こそが今日の箇所の「つまずき」を非常に明確にしているといえる。
 キリスト教の教会で精神病疾患の人を差別することは現代ではもうないだろうと思っている人がいるかもしれないが、とんでもない現代のキリスト教においても、たとえば性同一性障害の人の場合は完全に差別されている。あるいはセクシュアルマイノリティーの人は完全に差別されている。もっとも一部の正しい信仰のある教会ではゲイの人やレスビアンの人が聖職者になって、立派に働いている。しかし、それは現在ではまだほんの一部で
ゲイの人が気持ちわるいから嫌だとか「つまずく」とか言う人がいまだに、キリスト教の聖職者にすらいることにはがっかりするばかりである。昔は牧師が赤い靴下をはいていただけで、そんなファッションの牧師には「つまずく」とか言う者がいたほどだ、実はこれは私の叔父なのだが。そこで、たしかにこの「つまずく」という言葉そのものがややこしいのだそこでギリシャ語原典にあたってみるとスカンダリーセーで「罠にかける」というようなより攻撃的な意味が含まれていることがわかる。もっと明確に意訳するなら「罪を犯す」とか「差別する」とか訳しても、それほど間違いではないような単語なのだ。
 そうなるとやっと厳しいイエス・キリストの教えがわかってくる。「片方の手が」「あなたをつまづかせるなら、切捨ててしまいなさい」である。ここでも意訳せずともはっきりしている。いつのまにか、誰かをつまづかせるのでなく「あなたをつまづかせるなら」とつまづいた方が悪いことになっていることに気づいている人がこれまた少ない。つまづきというのは主イエス・キリストの愛の道からそれ、悪意をもったり、差別をしたりすることであり、そんなことは「手」「を切り捨て」「足」「を切り捨て」「目」「をえぐり出し」するくらいの強い思いと、覚悟をもって臨まねばならない私たちの信仰の重要性を示しているのである。なにも文字通り切り落とすことや抉り出すことを求めているわけではないことが次の「塩」の教えでわかる。
 「人は皆、火で塩味をつけられる」はそのような時には自分のそういう生理的に受け付けないような人が相手の場合であっても、あえて愛をもって接していくという苦しみが示されている。また反対にそうでない場合、「火」を避けて「手を切り落とす」犠牲なしに信仰はなりたたないし、それは「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」事態にまで落ち込んでしまうという強い警告にもなっている。
イエス・キリストの示す信仰には「火」という苦難によって「味つけされる」事態が必要になってくるということである。まさに今エルサレムで十字架につきご自身をもってして「火」で「塩味をつけられる」ことを示されようとしている。「塩に塩気がなくなれば」「何よって塩に味をつけるのか」という言葉もややこしい。塩はアラスで「塩に」の塩はアウトゥーで「自分自身に」と訳されるのが直訳となる、こう訳せばわかりやすいだろう、塩気がなくなればどうやって自分自身アウトゥーに「塩味をつける」アルトゥーセテとなる。この「塩味つけ」は最初の「火で塩味を付ける」にまたもどることになる。「自分自身の内に塩を持ちなさい」はここにいたって自分自身の内になんらかの痛み、「火」を持つことになることを知るわけである。痛み「火」の伴わない信仰、愛は存在しないのだ。
「そして、互いに平和に過ごしなさい」という教えでこの箇所はしめくくられているのは大事なことである。この訳だとなんとなく今まで「切り落としなさい」「地獄」「火」と恐ろしげな言葉が続いてきたので、ややとっぴだが。「平和に過ごしなさい」はエイレネゥーエテで「平和であれ」と直訳できるやや強い命令調である。かくして、「塩」と「火」の愛の教えの末にあるのは平和であることを私たちは信じることができるのだ。
by qpqp1999 | 2009-10-11 12:46 | キリスト教

音源upります

先日のブログでも書きましたが
姪と甥の
ハッピーバースデイソング
松本太郎オリジナルをupり松
名前は個人情報にあたるため
波形編集してあり松
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では
どーぞううう
http://www.mctv.ne.jp/~qpqp1999/t.mp3
でえええす
by qpqp1999 | 2009-10-10 18:26 | 音楽
私が親交を持っている
総合芸能プロダクション
スタンドアップのアイドル
歌舞姫がNHKのマンテンに出演するむー
くどうようだが以前ブログで話して抱きしめちゃった
あのアイドルさまたちだ
も一回記念画像をどうぞ
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抱きしめちゃったもんねるるるー
by qpqp1999 | 2009-10-08 20:15 | 音楽