牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

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親交のある名古屋の総合芸能プロダクションスタンドアップの
パーティーライヴに出演してきましたむ
実はこの日は私のプロモーション用の撮影が
あってちょうどパーティーライヴがあるからということで
楽しみにしていたのでした。

ライヴ始まってみると
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アイドルぢゃん!!!!
私はてっきりバンドとかいっぱい集まるのかと思っていたが
ここは芸能界なのだということを失念していたのだ
きゃぴきゃぴのアイドルの中で
リゾネイターギターを抱えて順番を待つ私
なんか場違い??みたいな不安もありつつ
アイドルたちのライヴを聴く
かっわいい女の子たちで盛り上がる会場!!
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いいのか?私のようなデルタブルーズな人間がここにいても
この子たちのように手拍子してもらえるのか?!?!?
ついに私の出番になりました
あらかじめミキサーを担当してくださっている事務所の方に
新兵器のサンプラーを出してもらう
とりあえずノリノリなのでこの子たちに近づこうと
ロバート・ジョンソン作曲マジック・サムでブレイクした曲をします
おお!!すげい、かっわいい女の子たちが手拍子してくれてるよ
それも楽しそうに!!!

さすがはロパジョンの名曲だ!!
画像は事務所の方が撮ってくださったボトルネックを炸裂させている私
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二曲目はコミックブルーズを展開
これまた、かっわいい女の子たちが手をたたいてウケてくれる
私の演奏がおわり、席についたら
スタッフの方が
「よかったっすよスゥートホームシカゴ」
「そのギターかっこいいっすね」
と反応してくださった。
さすがはロバ・ジョンの名曲だむー
さすがはエレキリゾネイター
最後まで参加したかったけど
もう終電に間に合わなくなってしまうので
途中で帰ってきましたが
でも、いいねい、かっわいいアイドルにまじれて
むー
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by qpqp1999 | 2009-09-27 13:28 | ブルース

握り返してくれる時期

姪と甥の誕生会に行ってきましたむ。
5歳と2歳
5歳になるともう手をつないでくれなくなるかと思ったり
2歳では怖がって手をつないでくれないかと思ったりしたが
二人とも
「たろさん」「たろさん」と手をつないでくれる
にぎりかえしてくれるのだ
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しかし
さすがに5歳になった姪はついに大人になりはじめていた!!!
一緒に遊んでいた時のこと
姪は私に
「どうして たろさん にはお髭がないの?」
ドキっとしましたね
私がセクシュアルマイノリティーであることに
ついに気づきはじめたのです
そりゃレーザー脱毛を繰りかえして髭は撃滅させましたから
いずれ私の胸がふくらんでいることにも気づくでしょう
今は髪の毛の長い人だと認識しているが
やがてジェンダーの差を認識するようになる
ちょっと寂しい気持ちでした
で話は飛びますが
遺伝って本当にあるのな
ふと姪の足をみたら私と同じ形をしている
そら、おなじ人間ですから形はおなじだけど
特徴が似ている
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特に特徴的なのは小指の曲がり方です
生命の神秘ですむー
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by qpqp1999 | 2009-09-25 17:47 | 音楽

レイヴ情報!!

きたる10月26日に
名古屋中村区太閤4-1-18ふたばビル
芸能プロダクション
スタンドアップ
のスタジオにてライヴが午後7時半から
レイヴし松是非にお越しください。
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by qpqp1999 | 2009-09-24 14:51 | 音楽

マイスタジオ

いよいよ
愛する姪と甥の
誕生会を目前にして
オリジナルの
ハッピーバースデーソングに
生楽器の録音をします
コンデンサーマイクはAKGのC2000
入力デバイスはエディロールPCR A30
かますMTRはコルグD12

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そして録音はヤマハの
シンセ シーケンサー SOL2です
今回はシンセの打ち込みを相当がんばったんですが
ベイス、ギター、ボーカル、ブルースハープを録音したら
ほとんどシンセの音がかぶされてしまった
どこかに音源張れるところがあったら張ろうと思います
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by qpqp1999 | 2009-09-21 10:30 | 音楽

愕然とした・・・

アマゾンでデッサン用とかに
フィギュアを購入するのはいつものことで
今回は私の好きな
一撃殺虫ホイホイさん
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のフィギュアを予約注文していたのでした
そして届いた
わくわくしながら
アマゾンの独特のダンボールをあける
箱が出てくる
このフィギュアとの出会いの一瞬が
たまらない
そしたら
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プラモデルぢゃん!!
しかも何この
パーツの多さ!!
プラモデル作るのは決して苦手ではないが
これは昨今の精密なガンプラとむこうをはる
クオリティーです
正直、途方にくれています
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by qpqp1999 | 2009-09-20 15:25 | フィギュア
聖霊降臨後第16主日礼拝説教マルコ福音書8章27-38節
 マルコ福音書の展開点である。これまで、主の権威ある奇跡によってイエス・キリストはガリラヤや異邦の地でも宣教してきた。「フィリポ カイサリア」という地点はこれまでのガリラヤからエルサレムに向かうまさにその地点である。いよいよ、イエス・キリストの使命が果たされる時が来たのだ。その際にイエス・キリストは弟子たちに尋ねる「人々は私のことを何者だと言っているか」。ここで、これまでの活動が人々にとって、以外に合点のいかないものだったことがはっきりしてしまう。弟子たちによれば、人々はイエス・キリストのことを殺された「洗礼者ヨハネ」、旧約聖書の大預言者「エリヤ」、あるいは「預言者の一人」と今までの活動は何だったのかという反応になってしまっている。この人々の間違った認識を色濃くマルコが描いているのは、福音書の展開点をよりいっそう強調するためである。というのも、意外にも弟子たちの代表のペトロは正解を出し、また大間違いをするからである。
 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と直弟子たちにいえす・キリストは問う。弟子を代表して筆頭弟子たるペトロが「あなたはメシアです」と大正解を答える。まさにキリストとギリシャ語で書かれている通り、イエスはメシア、救い主、救世主であるのだ。だが、この大正解に対してのイエス・キリストの反応は更に意外なものになる。「するとイエスは、ご自分のことを誰にも話さないように」と「戒められた」のである。正しい答えを弟子たちが持っているのにそれを「誰にも」話すなというのだ。一見これでは宣教の停止命令のようであるかのようだが、そうではない。この「戒められた」はギリシャ語でエペティメーセンで「命令する」というような意味である。マルコはこれをキーワードにして次なる展開に結びつけていくことになる。
 31節でついに最初の正式な受難予告をイエスは語る。「人の子」はマルコにおいてイエス・キリストに対する唯一の神的称号である。それははじめて聞く弟子たちにとっては相当にショッキングなものである。「メシア」キリスト、救世主がどうして主の道を指導する「長老」「祭司長」「律法学者から排斥されて殺される」というのだ。これではメシアとはまるで違うありさまである。本来なら「メシア」こそ「長老」「祭司長」「律法学者」に先ずもって受け入れられ、広められるはずではなかっただろうか。ところが、「メシア」たるイエス・キリストはこの受難、苦しみを経る道をたどることが「父の栄光」に輝くことであることを「しかも、そのことを、はっきりとお話しになった」のである。マルコはわざわざここまでして強調している。
 その途端に読者を含め人類は拒否反応を示すことになる。その代表がペトロなのである。たった今大正解を出したはずなのに、その信仰がまったく違ったものであることをマルコはこの反応で大いに演出する。なんとペトロは「メシア」たるイエス・キリストを「いさめ始めた」のだ。この「いさめる」はギリシャ語でエピティマンで「指示する」とか「「感情的」と直訳でき、しかも悪霊や嵐に対してイエス・キリストが命令したその言葉そのものであり、訳するならば「叱った」とか「命じた」となるのがよりよい訳ではなかろうか。ここには人類を代表してのペトロの主イエス・キリストへのまちがった優越性が描かれている。そして、これはなにも当時の話ではなく、私たち自身の問題としてマルコは主張しているのである。私たちはイエス・キリストをメシアとして正しく認識し、信じていると思い込んでいるが、実はそういった中に主イエス・キリストをないがしろにし、更には自分に優越性すら帯びてしまっていることに私たちはどれだけ気づけるだろうか。
 大正解を出したはずのペトロは「サタン、引き下がれ」と跳ね除けられる。「サタン」というと悪魔とかいう意味にとってしまうし、実際その要素があるが、ギリシャ語ではサタナーで「敵」と直訳される単語である。
 「ペトロを叱って」とあるがこの「叱って」こそ30節の「戒められた」と同じ言葉エペティメーセンであり「命令する」である。韻を踏むというか、マルコはここに関連付けをしているのだ。「メシア」だと告白した者は正しいはずだったが、それは見当違いな思い込みであったことであり、信仰とは違うことがここに明らかにされてくるのである。
 主イエス・キリストを正しく「メシア」と告白した者が、どうして主の「敵」となってしまったのか。この問題こそが、エルサレムの十字架へと向かう真のメシアへの信仰を取り扱うものとなり、この箇所の大切なところとなる。34節でいきなり「群集」を呼び寄せと、いきなり「群集」が降ってわくのだがこれは宣教的意味の深さを強調する。新共同訳では訳されていないが35-38節まで全ての教えの前にガル「すなわち」「なるほど」と訳される言葉が据えられていることはこれらのお教えがすなわちメシアとは、信仰とはという重要な問題を扱っていることを意味する。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」イエス・キリストが十字架を背負った事実があっただけにこの教えは挑戦的である。特にキリスト教の教会のマンネリ化した、表面だけの心地よい敬虔に酔いまどろるむ私たちに改めで「自分を捨て」よと命令されるのだ。「捨て」はアペルネーサースで「否定する」「拒絶する」である。意味するところは完全なる自己否定である。特に罪ある自分をキリストの故に自己肯定する方程式のあるキリスト教においてよく起こる間違いに対して、改めて受難予告の真意が示される。ここにあるのは「十字架を背負」うという完全な自己否定なのだ。自分を捨てるというと自分を犠牲にしてとか、なんとか清らかな方向にもっていかれそうだが、マルコはそうは言わない。自分を犠牲にして悲鳴をあげるのではなく、あえて自己否定することで自分の十字架を認識し受難の主イエス・キリストに従うのである。人というものは、自己否定することを徹底的に拒絶する。罪や偽善は実はそこから始まる。なにも卑屈になって自分を否定せよと言うのではない。自己保存の本能で人は命を守ろうとするのが自然であるのに対して、そうすることは「命を失う」ことにつながるという主イエス・キリストの説かれた真理が現れる。かえって「福音のために命を失う者はそれを救う」のである。つまり、これは自己否定でありながら自己実現なのだ。あえてイエス・キリストに従うという選択肢を生活の中で選び、自己否定して進む時、それは苦しみや悲しみや奉仕である時、自分の十字架を背負い自己実現するに達するのである。そこに用意されているのは真の救いなのである。
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by qpqp1999 | 2009-09-20 15:14 | キリスト教

木工職人

私の父は
16歳で家庭を支えていた
唐木机の職人だったのだ
その後、戦争で徴用工になったり
海軍に入ったり、戦後はフランス料理の料理人になったり

最終的には牧師になった
で、いきなり話は飛びますが
私の愛する姪と甥の誕生会が今年も
妹夫妻の自宅で行われる

プレゼント
毎年のことながらハッピーバースデイソングをオリジナルで
作詞、作曲、演奏、録音してCDにするのはいつものことだが
今年はおもちゃも手作りですることになった父は昔磨いた木工職人の腕を振るう
画像のように手がきまっています。私はひょろひょろしているのがわかる
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そして出来上がったパーツ
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そして仕上がった押すとカタカタと音とをたててあるくワンちゃん
姪と甥用の2匹です
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けっこう いいんだわこれ 自分用にも作ろうかと思うくらいですむー
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by qpqp1999 | 2009-09-18 17:16 | フィギュア
聖霊降臨後第14主日礼拝説教マルコ福音書7章24-30節
 キリスト教、ユダヤ教、イスラム教はそれぞれに旧約聖書という同じルーツを持っている。歴史の流れから見ればユダヤ教がそのもともとにあり、そこからキリスト教、イスラム教が派生してきたと見ることもできる。とくにキリスト教は初代教会の時代はユダヤ教の一分派であり、イエス・キリストの出身地ナザレにちなみ「ナザレ派」として存在していたのである。それだけに、ユダヤ人以外への宣教には相当な違和感があったことはパウロ書簡を読めばよくわかることである。パウロが活躍していた時代はまだヤムニア会議という「ナザレ派」を異端としイエス・キリストを冒涜者として定める前の話であっただけに異邦人に対してのパウロの宣教にはキリスト教の初代教会の本流たるエルサレムの教徒たち、また指導者たちにとっては、かなりのつまづきと抵抗が生じた。パウロはその書簡の中でこの問題についてかなり苦悩しているし、また解決しようとしてかなりの神学展開をした。これが結局現在のキリスト教の教理、信条に大きな影響を与えたし、その根幹となったことは歴史の示すとおりである。また、これなくして現在のキリスト教は存在しえなかったであろう。実質、紀元70年のエルサレム陥落でエルサレム教団は無くなってしまい、異邦人キリスト教会が生き延びやがて世界を飲み込んでいくことになるのである。今日の箇所ではまさにそのような、本来あったはずのユダヤ教としてのキリスト教と、それに相対する異邦人キリスト教の関係が主張されているのである。
 今日の箇所のキリスト像はいささか不自然に感じられるほどにネガティブ、否定的な態度をその最初からとっている。「ティルスに行かれた」とあるがティルスは地図でいうならば地中海沿岸にあるフェニキアの都市である。今回の鍵となる女性が「ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」ということで「ギシリャ人」という完全にユダヤ教からははるかに遠い異邦人であったことがわかる。なぜこんなところにイエス・キリストが来たかというと「だれにも知られたくないと思っておられた」からなのだった。これほど否定的なキリスト像があるだろうか。助けと救いを求める人にその存在を知られたくないとしてわざわざ異邦の地にまでいって、どこかの「家」に隠れたのだった。この部分だけみても非常に違和感を感じるが、実はこれはマルコの福音書の次の展開においてとても大切な部分となるのであった。しかし、それにしても面白いのは主たるイエス・キリストが人から逃れたくて異邦の地にいって「家」の中に隠れたのに「人々に気づかれてしまった」ところである。今までものすごい奇跡を展開してきたイエス・キリストもこの身を隠すことにおいてはまったく失敗してしまっているのが特徴的といえよう。ここれもまたひとつのメッセージである、それはこのあとに展開する物語の伏線になっているともいえる「汚れた霊に取り付かれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した」とある。イエス・キリストの悪霊払いの評判は異邦の地にまでひろまっていたのだ。よく説教者がこの悪霊払い、エクソシストの箇所を説話するとき、これを精神科疾患としてかたづけてしまうことをよく見るのだが、悪霊払いは断じて精神化疾患とは区分すべきものであることを私は強調したい。そのようなことは精神化疾患に苦しむ人たちに対する差別ですらあると私は考える。この福音書の中においては「汚れた霊」「悪霊」はまぎれもなくそのものなのであり、現代の常識ではおおよそ考えられない現象であるが福音書の世界ではそれはそのようにあったことを認めるべきである。というのも、精神化疾患か「悪霊」かどうかということを議論することは実はこの福音書のメッセージにはあまり意味がないからである。それが精神化疾患であろうとなかろうと、あるいは「悪霊」であろうとなかろうと主の恵み、奇跡ということを語る時にはそのようなことは意味をなさないからである。それはちょうどイエス・キリストが水の上を歩いたかどうかとか、死人を生き返らせたかとかそんなことを議論するのに似ている。その物語ではなくそのメッセージを私たちは受け取るべきであり、与えられるべきなのだ。
 この必死な「女」に対してイエス・キリストは今までと打って変わって「まず子供たちに十分に食べさせなければならない。」と跳ね除けてしまう。とどめは「子供たちのパンをとって小犬にやってはいけない」と非常に差別的でありユダヤ優先の立場を固持するのだ。
「やっては」はギリシャ語でバレインで「なげる」という意味にあたる、相当に強烈な拒否である。対して「女」は「小犬も」「パン屑はいただきます」と食い下がる。小犬はペットの小型犬で、私も飼っていたからわかるが、確かに家の中で飼っていると下に落ちた食べかすを食べるものだ。この言葉に対して平行記事のマタイ書では「あなたの信仰は立派だ」と賞賛されるがこのマルコ書では「よろしい」の一言になってしまっている、そこでギリシャ語原典にあってみるとディア トゥ トン ロゴスで直訳すると「その言葉の故に」となりこのディアという「故に」という言葉が非常な重みを持っている、どこにも「よろしい」という言葉は見当たらない。そこでこの箇所の意味がくっきりと伝わってくることになる。私たちの苦難や悲しみの時に主イエス・キリストはどこにいるだろうか。まさにユダヤ人だけのための方、あるいは紀元年の人々のものだけであって、私たちの生活にはまったく姿をあらわしてくださらないのが現実である。しかし、福音書はこの物語を通して私たちのその頑なな態度と、それと対照的なくいさがる「女」の姿を見事に描き出しているではないか。
 直接に、主イエス・キリストの「足もとにひれ伏し」てお願いしているのに、主イエス・キリストは「小犬」に「こどものパン」をなげるなど言語道断と、きっぱり断られてしまうのだ。ここに見えるのはユダヤ教優先主義というよりは、現在の私たちにとっては現実優先主義といったほうがわかりやすいだろうと思う。どんなに、「ひれ伏し」てお祈りしたところで現実にある悲劇や苦しみや悲しみがどれだけ改善されているというのか。世情を見れば見るほどに世は苦しみと矛盾と、まさに悪に満ち溢れているではないか。「悪霊」とはまさにそのようなものをさしていると言ってもさしつかえないだろう。だが、私たちはけっして諦めてはいけないのだ。この「女」の態度はどうだろう、「小犬も」「パン屑はいただきます」と真理を信じているではないか。それはまさに愛とか平和とかいう悪に反対する実現できる現実であるのだ。その根拠を主イエス・キリストに見出すことこそが、今日の箇所の最大のメッセージなのである。
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by qpqp1999 | 2009-09-17 14:08 | キリスト教
NHKのプロフェッショナルで
ばがぼんど描いてる井上さんが特集されてるのを
横目にシーケンサーで音源作っていたら
井上さんの講談社モーニングの担当編集者さまが
出てきた
かつての私の担当編集者さまの
○●さんだあああ
おわあ
びっくりこいたむー
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by qpqp1999 | 2009-09-15 22:46 | 漫画

マルチプレイ

私の新生ルーテルゴスペルクワイヤーのレイヴがありました
オープニングは
リゾネイターギターのボトルネック奏法で
私の一人プレイでクワイヤーが登場します
今回活躍してくれた私の愛機たち
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リゾネイターギター
サンプラー
携帯多用アンプ
です
サンプラーで私の作ったリズム音源をループさせて
それをフットペダルで操作します
メインPAはゴスヘルクワイヤー用でめいいっぱいなので
私のソロプレイは路上レイヴで愛用のクレイトのアンプを使います
礼拝堂に響きわたるボトルネック特有の音
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会場が手拍子してくれるかどうかだったが
無事にしてくれました
クワイヤーが位置につくと
私はドラムスに、フットペダルはスルスルと私のコックピットにひきこまれます
だが問題はそこからだった
バンドでドラムするのと
クワイヤーで指揮にあわせてドラムするのって
違うのな・・・
難しい・・・
リズムを指揮に従ってキープするのって
自分でリズムをキープするのと
違うのよ・・・
なんかもうメトロノームにあわせて叩くみたいな難しさ・・・
なんとか頑張るんだけど
どうもうまくいかず、リズムがこけてしまった
苦戦中の私です
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2曲目失敗
これすごい自信あったんだが・・・
4曲目失敗
これもすごい自信あったんだが・・・
9曲目失敗
これは元々あやうかった・・・
こんなでは音源をUPするのは
恥ずかしすぎます
10曲目は成功しかしピアノ譜面おっこちて途中音とぎれた・・・
オープニングだけできれば
音源動画をUPりたいと思い松 とほほー
それでも
エンディングのちょい前に
現在お休み中のクワイヤーメンバーの方が
ステージ全員に花束を渡してくれまんたむ
いやあ いいねい
これです
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レイヴの終わってからは
今度はローディーになり松
マルチケーブルまいたり、キャリアンプケースにつめて運んだり
礼拝堂の長椅子運んだり
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さあ今度はクリスマスのレイヴが待っている
今度は全曲クリアーしてみせるぜいむー
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by qpqp1999 | 2009-09-06 23:16 | ゴスペル